ユーザー・イリュージョン

夜介たちが百合崎花ユリを追って並行世界リバースへ移動した時、既に状況は開始している。


開幕の合図は白光の群れの形をとって現れた。


ユリは並行世界リバースへ入った瞬間、空間を【チャーム】の光球で満たしていた。その数は当然のように膨大である。庭園の木々も吹き抜ける風も、そのすべてが白い光のもたらす破壊の射程範囲へといざなわれた。


それは彼女自身が「パンくず」と呼ぶ結界であり、防御であり、攻撃であり、自信であり、宣告であり、そして――勝利の方程式であった。空間にばらまかれた【チャーム】の光弾は、環境を百合崎花の好む状態フレーバーに作り変える。


その展開の完了を待たず、水仙は既に動いている。


老紳士の肉体は【アップ】による加速の恩恵を受けており、その速度を眼で追いかけることは困難であった。水仙は、彼自身がユリに対して「不利」と認めた近接戦闘のスタイルを崩すつもりはない。困難も不条理も相性の不利も、己の拳ひとつで切り開くのが水仙の信条であった。


「申し訳ありませんが、ユリ。あなたに対しては……手心を加える余裕がありません」


息も切らさずに語りかけながら、水仙は彼女へと迫る。


ユリは揺るぎない瞳で、【チャーム】の光弾を掻い潜って肉薄する水仙の動きを捉えている。その瞳は敵を見据えているようでいて、どこか遠くを眺めているようにも見えた。


彼女は「パンくず」の森の影に隠れるようにしながら、たん、と地を蹴って器用にバックステップで水仙から距離を取ろうとする。


――が、水仙はそれを許さない。【アップ】の脚力で逃げる彼女を、同様に全力の加速で追い詰めていく。それは脳筋と揶揄されそうな行動でありながら、その実、確実な回避と敵への接近を両立させる悪くない手であった。なぜならば、少なくともユリが通った直後には「パンくず」の光弾が存在しないことが保証されるからである。


「おじいちゃん。あなたのことは昔から――と思ってたんです」


舞い上がる風がユリのロングスカートをなびかせる。風を伴い来襲するのは、彼女の放つ光の矢であった。かつて百合崎小春の身体を貫いた極小の針。無数の鋭い破壊の化身が弧を描いて、あるいは正面から最短距離で、水仙の身体を襲った。


――黒い盾が、それらを防ぐ。


距離を取って水仙を援護する小春が、近接戦闘における防御の要である【ダウン】を展開していた。小春の方に眼を向けることもなく、それでもしっかりと妹の行動が見えているかのように、ユリはと微笑む。


「ふふ……お手伝いできて、えらいわ」

「お手伝いじゃ……ない!」


小春は【ダウン】の黒い小箱をいくつも展開して、機雷のようにふよふよと漂うユリの「パンくず」をひとつひとつ相殺してみせる。そもそも【ダウン】の射程はさほど広くない。小春自身も【チャーム】の光球を掻い潜りながら、動きの妨げとなる光弾を消し去るようにその力を駆使していた。


妹の反発をユリは受け止め、そして否定する。


「だって、あなたは一人じゃ何もできないもの」

「だから何よ!なにも――なんにも、わかってないくせに」


あら、と、ユリは軽く眉を上げた。まるで水仙の接近にまったく驚異を感じていないように、肉薄する水仙の攻撃から視線を外して妹に優しい眼を向ける。


「小春、わたしはいったい何がわかっていないの?」

「それをわからせるの!」


小春の叫びと共に放たれたものは彼女による攻撃でも、眼前に迫る水仙の拳の衝撃でもなかった。


地面を割って吹き上がる漆黒――リバースティック・エフェクト。


六郷夜介の【ボトム】が斬り上げた黒い帰無の斬撃は、確実にユリの死角から打ち込まれたはずであった。同時に老紳士の拳の一撃が風を裂いて彼女を襲う。彼の言葉どおり、その勢いには一切の躊躇いも手加減も見当たらない。


「わっ――」


軽く声を漏らしながらも、ユリの身体は予め決められたプログラムを実行するように精密に跳ねた。首をひねって水仙の拳を紙一重でかわしつつ、同時にその細い足で地を蹴っている。翻る身体は、噴出する黒い斬撃よりも迅速に宙を舞った。


ほとんど天地に対して逆さまになった体勢のまま、彼女は空中で両手を重ねて前へと伸ばす。その先には無防備な水仙の背中がある。


「スキあり――っと」


重ねた両手から放たれた【チャーム】の光弾は小さく速く、破壊力よりも速度を重視して練られたものであった。


「――!」


水仙が【アップ】の光をまとわせた拳をとっさに背に後ろに回し、攻撃を相殺することが出来たのは僥倖と言える。彼の背中に眼が付いていない以上、手のひらで当てずっぽうに防御した範囲内に攻撃が着弾する確率は非常に低かったはずだ。その位置は、当然のように心臓の真上であった。


白い光が弾ける。


ユリは反発を利用してさらに高く飛び、庭木の枝に危なげなく着地した。一連の動作は爆発的速度を誇りながら流れるようでもあった。


水仙は、一瞬の接触で事態の異常性を認識した。眼前の女性を仰ぎ見る老紳士の瞳には、わずかに感服の光が見て取れる。


「ユリ、ずいぶんと――おてんばになりましたね」


これまでユリは決して身体能力が高いタイプではなかった。いわゆる重火器型と言うべきか、その圧倒的なフレーバー量で遠距離から一方的に攻撃を加えるのが彼女の戦法であったはずだ。だからこそ、水仙は彼自身の得意とする接近戦に活路を見出していた。


それが、通じない。


「……!?」

「お姉ちゃん……?」


夜介と小春も、それぞれ驚愕の表情でユリの姿を仰ぎ見る。


「それはどうも」


にこりと微笑んで、百合崎花は驚愕を受け止める。その反応速度と曲芸のような動きは、平均的な女性の身体能力の範疇に収まらないばかりではなく、まるで人間の限界を越えているように見えた。


――


いかな天才といえど、人間の枠に収まっている以上は物理的な限界がある。たとえばそれは、脳という総合司令塔の存在である。


「六郷さん、あなたの【ストレンジ】がヒントになりました」

「……僕の?」


予想しない方向からの言及に、夜介は眉をひそめた。【ストレンジ】。昨夜、ハイゼンベルク施設の攻防で致命傷を負った夜介は、そのフレーバーを利用して自分自身に麻酔を――すなわち痛みを無視するという、現実から目を背ける処置を施した。


「フレーバーを利用して痛みを落とす。自分自身の神経系に干渉する。正直……考えたこともありませんでしたよ」

「……」

「神経系に対して【ストレンジ】による【奪取】が可能なのであれば、当然【チャーム】の【付与】も可能なはず。だからちょっとやってみたいな、と思って」


その口調は、ちょっと新しい春服が欲しくて、などと友人とのランチに持ち出される雑談程度の軽さである。


「やってみる……って、何を……?」

「極小の【チャーム】を使って、んです」


こめかみをトントンと叩いて、彼女は事もなげにそう告げる。


「この宇宙において、有機体をはしる電気は遅すぎます。光もまぁ遅いですけどね――多少マシ、ってとこでしょうか」

「神経伝達を、加速? そんな……めちゃくちゃな」

「ユーザーイリュージョンのその先へ。わたしが十分に速ければ、接近戦もわりと怖くないですね。どうです? けっこう面白いと思いません?」


ユリは人差し指を自身のこめかみに当てたまま、にこにこと笑っている。


――トール・ノーレットランダーシュ著、『ユーザーイリュージョン』―― 人間の「意識」は幻想ではないか、と提唱する書物である。その根拠となる観測事実はこうだ。「行動しよう」と意識する以前に、実は、脳内では行動を促す電気信号がすでに発生している。すなわち「行動しよう」と思って脳が電気信号を発するのではなく、脳が電気信号を発したあとに「行動しよう」という意識が生まれるのではないか――と。


意識は脳の使い手ユーザーではなく、あくまで脳という機構が副次的に生み出す幻影イリュージョンにすぎない。


ユリの行った「チューニング」において、意識の定義やその実在は問題ではない。人間が電気信号で思考を行う以上、何らかの行動を起こす前に不可避の時間的なギャップが生まれる。彼女が着目したのは、その時間を限りなくゼロに近付けることであった。


ユリは【チャーム】で自身の神経伝達を高速化、否、速化することで、思考における電気信号の限界を越えた。それはもしかすると行動の「起こり」に限られたものではないかも知れない。彼女がその体内の神経伝達をすべて光の速度に置き換えているとすれば、従来の人間の限界を超える反射・思考・行動が可能であることになる。先程の彼女の動きから判断する限り、その可能性は十分に考えられた。


――百合崎花は天才であった。


すなわち、原理的に可能であることと、彼女にとって可能であることは限りなくイコールに近い。六郷夜介がフレーバーによって神経を操るという可能性を示せば、すぐさまそれを応用して見せる。ひとたび「一」を知りさえすれば、彼女は独力で「十」へと達する。


そしてそのためであれば、やるべきことをやるためであれば、彼女は犠牲をいとわない。たとえそれが水槽の中で育った少女の命であったとしても、きっとそうするに違いないのだ。


夜介はその思考に至り、雲間に射し込む天啓を得たようにと顔を上げる。口から出た言葉は、ユリの問いかけに答えるものではなかった。


「あの子をどうしたんです?」


興を削がれたらしいユリは、少しむっとして口を尖らせる。


「……あの子?」


ゆかり姉さん……と口にしかけて、夜介はすんでのところで思い留まった。


「先生と花さんが連れて行ったあの子……メルト。ちゃんと無事なんですよね」

「ああ。別に殺したりしてないから、そんなに心配しないで。ただ……」

「……ただ?」


ユリは、んー、と眉をしかめて首を傾ける。夜介はその仕草に空恐ろしいものを感じながら、祈るように次の言葉を待った。


「あの子は私の答えじゃなかった。そして六郷さん、あなたの答えでもない――」

「答え?」

「わかりやすく言いますね。、ってことです」

「――!」


それは既に、あの地下で初めて言葉を交わしたメルト自身が否定していたことでもあった。だが――


(――どうしてその名前を?)


疑問が彼の思考を満たす。ぜんぶ見せてやる、と語る「先生」と、ぜんぶわかって「どうでもよくなった」という、百合崎花。二人の天才の間にどのような会話があったのか知る由もないが、並行世界リバースやフレーバーという世界の仕組みに、一体どうして――彼女ゆかり姉ちゃんが関わってくるのか。


並行世界の存在そのものと、六郷ゆかり。幼い頃から夜介の心にずっと残り続けている、消すことの出来ない思慕の念は、この白黒の「裏側」と極めて近い位置にあり、地続きになって存在している。


ユリはくるくると指を回して、木の枝の上から夜介に語りかけている。


「あの子――メルトちゃんは、真に重要なものごとが起こったあとの残滓にすぎないんです。並行世界リバースにおける絶対的なセンサーとしての能力も、射影というか、並行世界としているだけの現象。わたしが使うことは初めから叶わない力で、だからどうでもいい……少なくともわたしにとっては、利用価値のない存在でした。残念ながら」

「花さん、あなたは――」


夜介の思考は、唐突にそこで中断された。


空間に出現した黒い壁が、ユリの乗っている枝を根本から切り落としたためだ。小春の【ダウン】である。


ユリの身体は落下する。――が、すぐに、足元に出現したじゅうたんのような黒い板の上にぺたりと着地した。


「もー小春、何……」


とユリが不平を言い終わるよりも速く、次の瞬間、黒い足場は幻のように消え去った。


小春が枝を切り落とし、そして即座に足場を作ったのは、無論、姉を助けるためなどではない。ためだ。再び重力に引かれて落下を開始しようとするユリの目に映るのは、上空に飛んだ水仙が、ユリに向かって【アップ】の光で彩られた後ろ蹴りを放つ光景だった。白く光る靴底が眼前に迫る。


夜介は痛感する。


純粋な素養、フレーバーそのものの力とは別のところで、当然ながら小春と水仙は夜介よりもしている。夜介が彼女ユリとの会話に気を取られている間に、彼らの連携は完了していたのだ。


ユリは空中にも関わらず器用に身を捻り、同じく【アップ】の白い光をまとわせた小さな足先で、水仙の蹴りを弾き飛ばす。物理法則と直感に反して、体格で勝るはずの水仙がバレーボールのように地面へと叩き落される。ユリはそうして水仙を退けながら、同時に、生み出した【チャーム】の光球群を地上に向けて雨のようにばらまいた。


小春は【ダウン】の傘を展開して、破壊の豪雨から身を守る。


ユリと至近距離で拳を、いや、脚を交えた水仙は、降り注ぐ【チャーム】の雨に対して防御ではなく回避を選択した。弾き落とされた彼は地面に接触する直前に身をよじり、両足で力強く大地を捉える。そのまま反動を利用してバネ仕掛けのように再度地を蹴り、空中のユリを追撃する。一瞬のあと、跳躍の衝撃によって土塊が舞い散った。


夜介と小春、計四個の瞳は、老紳士の爆発的な加速を捉えることができない。


一瞬でトップスピードへとシフトした水仙の肉体は、これで幾度目になるだろうか、ユリの懐へと到達する。光の雨を掻い潜り、水仙の伸ばした手はついにユリの細い足首を掴んだ。瞬間、白い光があたりを包む。


「――っ!」


ユリの顔が困惑に歪む。彼女は即座に、細い針状に形成した【チャーム】をショットガンのように打ち出して迎撃する。殺傷力も命中精度もさほど高くないが、すぐそこで足首を掴んでいる水仙に打撃を与えるには十分であろうとの判断だった。その一束の針はユリの強い拒絶を表しているかのように見えた。


水仙の腕は【チャーム】の白い針をまともに受け、と花火のように血飛沫が舞い散る。


……目にも留まらぬ一連の攻防を終え、ユリと水仙の身体は地上へと戻る。ユリは両足でふわりと着地するが、水仙は体勢を崩し、地に膝を付ける形となった。ユリの脚を掴んでいた水仙の右腕は血に染まり、だらりと垂れ下がっている。致命傷ではないが、無視できる傷でもない。


ユリは身をかがめて、水仙に掴まれた足首をさすっている。不思議なことに、そこには何ら破壊の跡は見られなかった。光速にまで加速された天才の頭脳はほんの一瞬で困惑を通り過ぎ、すでに理解の火をその瞳に宿している。


「――いま、わたしのフレーバーを……しようとしましたね」

「……」

「ほんと老獪ろうかい……というよりも、狸かな。そんなことができるなんて、先生にも言ってないんでしょう?そして、誰かの力を吸収するのは――初めてじゃあない」


水仙はその言葉を聞いて、諦めたように軽く首を振る。ボロ雑巾のようになった右腕を一瞥し、それ以外のダメージを確かめるようにゆっくりと、両の脚でしっかりと立ち上がった。皺に包まれた水仙の双眸は、ユリを視線で射抜くようにじっと見据えている。


血液の雫がゆっくりと彼の頬を流れた。


「やれやれ……だからいやなのですよ、天才という人種は。こちらが片鱗を見せると、すぐに全体像を理解してしまう」

「アタリかな?」

「言ったでしょう。手心を加える余裕はない、と。すべて出しきってあなたに対処しなければ、私のに到達することも叶いません」

「はぁ……暑苦しいです。おじいちゃん」


ユリはうんざりしたようにため息をつく。


そうして周囲の空間に【チャーム】の光球をと生み出したかと思うと、次の瞬間、白い破壊の化身たちは一斉に夜介たちを襲った。上下左右全方位から遅い来る無数の光球を、小春は黒い【ダウン】の壁で防ぐ。白い空が、黒い壁に覆われていく。


光は万人に平等である。敵の視界を遮る【ダウン】の壁は、同時にこちらからの視覚も奪う。


だめだ。


焦燥に駆られて、夜介は小春の展開した黒い「塀」の隙間から再び黒い斬撃――リバースティック・エフェクト――をユリに向けて放った。ターゲットの近くにいるであろう水仙の存在を気にしている余裕はなかった。


黒い波が地面から噴出する瞬間、すでにユリの姿はそこにない。破壊の気配を伴って襲来していた光球も、ぴたりと止んでいる。黒い波がと跳ねて、波紋を残して地に消える。


――静寂。


「小春!」


夜介の呼びかけで小春は【ダウン】を解除する。二人がそこに見たものは、天から垂直に落下してくる水仙とユリの姿であった。

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