戻るべき世界

昼の陽光を忘れられない太陽は、やけに鋭く眼を灼いた。


夕刻が迫る中、新幹線を降りてローカル線に乗り換えると、そこで時間の流れが変化したように感じられる。子供の頃は「汽車」と呼んでいたワンマン列車の中には、僕ら以外に客は見当たらない。線路の刻む規則的な音を聞きながら見やる窓の外には、ただひたすらに土ばかりの田んぼが続く。


僕と小春は水仙と合流して、僕の故郷に向かっていた。


こうして故郷に戻るのは実に十四年ぶりで、十四歳の頃に起こった、すべてが焼け落ちたあの事件以来である。いつの間にか、倍の年月を生きてしまったことに驚きすら覚える。


「はー。ほんと何もないんだね、夜介の地元って」

「だから言ったろ。何もないって」


小春は最初の方こそ「田舎っぽい」とパシャパシャ写真を撮っていたものの、ものの三十分ほどで飽きたのか不平を漏らし始めた。都会っ子が田舎に持つ憧れとしては保ったほうだろうか。


僕たちが向かうのは、正確に言えば僕の故郷の町というよりも【六郷家】である。


子供の僕が経験した一連の喪失。それが終わる最後の夜に、屋敷はすっかり燃え落ちたはずだった。僕はあの事件のあと逃げるように町を離れ、今日に至るまで帰ったことはなかったから、変わらず「六郷の屋敷」は無くなったままであると思っていた。何しろ、もはや僕以外に六郷の名を持つ人間はいないのだから、再建されようはずもない。


それでも先生は「屋敷に来い」と僕に告げた。


あの場所がすべての始まりであり、だからこそ、そこで終わるべきものなのだろう。


「ところで、夜介様」


三人の中で一番の年長者、初老の紳士「水仙」が僕に語りかける。


水仙は、小春と僕を【ハイゼンベルク】の組織から運び出して、状況に呑まれて先を見失っていた僕たちに休息を与えてくれた。決して出しゃばらないこの老紳士は、その発想と行動こそ脳筋ではあるものの、常に一歩下がったところから僕らを導くようにサポートしてくれる。


「何度も確認して申し訳ありませんが、よかったのですね?」

「……あのまま先生たちから離れた方が安全だったんじゃないか、と?」

「ええ。かろうじて命を落とさずに済んだそのあとに、すぐ火中の栗を拾うような行動をして」


水仙の懸念はもっともかも知れない。


でも、命をかけていた時に僕が聞いた声が妄想でなければ、先生は最後に言った。ゆかり姉ちゃんの身に何が起こったのかを知りたければ、もう一度、六郷の屋敷でをしよう。そう言っていつも不機嫌そうなあの白衣の男は、僕を呼んだ。


六郷夜介ぼくを、確かに呼んだのだ。


だから僕は、先生とゲームの続きをしに行かなければならない。


「はい。これは――僕がやりたくて、やっていることですから」

「そうおっしゃるなら、わかりました。私も無粋な混ぜ返しは慎みましょう」


僕の眼を覗き込む水仙の表情は、そこにある決意を確かめるようでいて、まるで何かを懐かしむようにも見える。そうして僕たちの身を案じる水仙を見て、やはり僕は彼に聞いておきたいと思った。


「……それを言うなら、むしろあなたの方ですよ。水仙」


窓の外に向けかけていた視線をこちらに戻して、片眉を上げ、水仙はちょっとおかしそうに僕へ聞き返す。


「というと?」

「あなたは【ハイゼンベルク】の一員として、先生と並行世界リバースの研究を行っていたと聞きました」

「……ええ」

「でも、その組織はなくなった。僕や小春と違って、あなたは……これ以上、付き合う理由がないんじゃないですか?」


小春はたったひとりの姉である花さんに改めて立ち向かい、彼女を泣かせてやるために。


僕はあの炎の夜、そしてゆかり姉ちゃんと【メルトネンシス】の真実を先生から聞き出すために。


そこに【ATPI】や【フレーバー】あるいは【並行世界】という異端な要素は関与しているものの、根本的なところで、この旅は小春にとっては避け難い姉妹喧嘩であり、僕にとっては忘れ難い過去との決着である。


それでもこの初老の紳士、水仙と呼ばれている物静かな男には、そこまでする動機がないように思われるのだ。何しろ僕らは容赦なく――あのやるべきことをやるだけの天才、百合崎花に殺されかけている。


「……」


彼は白い髭を撫でさすり、眼を閉じてゆったりと、言葉を選ぶようにして語る。


「おっしゃる通り。私は誰よりも長く――そうですね、それこそ比良坂よりも昔から、ずっと並行世界リバースに携わり、その在り方について考えてきました」

「在り方、ですか」

「そして、それを取り巻く人たちについても。あなた方ふたりは、とりわけ重要な登場人物です」

「……」

「だから老い先短い身としては、若い二人に力を貸したいのですよ」


そう言って彼は穏やかな笑みを浮かべた。


その理由に納得したわけではない。僕は水仙かれではないのだから、彼が重ねてきた年月、心の中の優先順位、その魂が真に願うものを完全に理解することはできない。


とはいえ彼自身がそれを望むのであれば、頼りになる戦力が増えるという観点で見ても、僕にそれを拒む理由はなかった。


「そう……ですか」


だから僕は彼の言葉を受け止めて、ありがとうございます、と礼を述べた。

僕が腹落ちしていないことを読み取ったのか、おどけたような口調で水仙は言葉を続ける。


「それに――」

「それに?」

「私にも、同行するに足るがございますので」


その表情から、水仙は冗談交じりに、僕が責任を感じないように気遣ってくれているのだとわかった。ヤボウ、という燃え盛るような響きが穏やかな老紳士にあまりにも似合わなくて、つい僕は笑みを浮かべてしまう。


何個目かの駅に停車していた列車は、やはり僕たち以外の客を一人も迎えないまま、ぷしゅ、と気の抜けた音を立てて再び加速を始めたところだった。


端から見て、ちぐはぐな僕らは何の一行に見えることだろうか。空気は澄んでいて、流れる山々の輪郭をはっきりと撫でて行くことさえできた。


「――ねね、あれ何?」


退屈さを振り払うように、小春がぱっと窓の外を指差した。その視線を追うと、田んぼの中に白い鳥が一羽、ぽつんと何かをついばんでいる。


「どれ? ――ああ、なんだろう。サギとかじゃない?」

「白鳥じゃないんだ」

「白い鳥って意味だと、間違っちゃいないね」


僕は適当に答える。子供の頃から見ていたあれが何の鳥かなんて、聞かれるまで考えもしなかった。

小春は白い歯を覗かせて笑う。


「何それ、バカっぽい。田舎育ちのくせに鳥の名前わかんないの」

「田舎者がみんな動植物博士だと思ってるなら、それは誤解だからな」

「はいはい」


僕の言い訳を聞き流しながら、小春は再び鳥の写真を撮り始めた。


小春が眼を輝かせて窓の外を撮影する様子を見て、僕は彼女の姉を思い出していた。花さんは何かおもしろいことがあると、ひときわ大きく眼を輝かせ、その好奇心で世界を愛でる人だった。


小春がいま風景写真を撮るのは、あとからそれを見返すためだろうか。実の姉に対峙するためにここまで来て、ひょっとすると、これから誰よりも愛しい姉に殺されるかも知れない。なんて、永遠に来ないかも知れない。


それでも少女の黒い瞳が映すものは、あくまでとした日常の風景である。大変なことがあった翌朝も、しっかり朝ごはんを食べるような子だ。……方向性は違えど、ある意味で似たもの姉妹なのかも知れない。


そんなことを伝えたら、小春はどんな顔をするだろうか。


と、ポケットの中で振動を感じて、僕はスマフォを取り出す。小春は横目でそれに気付いた。


「夜介も写真?」

「いや、会社。しばらく休みを取るって伝えたけど、いつごろ戻るのかって」

「はぁ?」


小春は言葉にトゲを滲ませて僕を睨む。アザレアという名でしか呼ばせてくれなかった、あの頃の(といってもつい昨日のことである)表情を少し覗かせる。


「夜介、まだそんな未練がましいことしてんの? もうそういう状況じゃないって……」

「違うよ」

「じゃあ何?」

「これは……」


戻るべき世界の確認。あるいは普通の生活を守るという決意。


「必ず帰ってくる、ってこと」


クライマックスの先に続く日常を望む、僕の祈りだ。


小春は彼女が本来持つ芯の強さとは別に、おそらく無意識のうちに、どうあっても未来がきっと続くであろうことを信じている。何度も敗北を味わい、最悪を覚悟しながらも、この少女はどういうわけかそれを信じているのだ。


僕はそんな彼女に力を貰っているからこそ、存在しない神に、ささやかな祈りを捧げずにはいられない。


――どうか。



◆◆◆◆◆



果たして六郷の門は、かつてと寸分違わぬ威容を誇ってそこに存在した。町で最も大きな敷地を有していた六郷家。和風建築の家屋、何が入っているのかわからない暗闇の蔵、そしてゆかり姉ちゃんたち分家の住んでいた「離れ」があった。


そのすべてが、そのままに存在している。


「なによ。普通にあるじゃん」

「……あるな」


懐かしい僕の生家。そこに手を伸ばすといつもと痛むような、幼少期の記憶。形もなく焼け落ちて、喪失したはずの過去。


「夜介様の家は、十四年前に全焼したという話でしたが……」

「……水仙も知らないとなると、かつて【ハイゼンベルク】が作ったもの、ではないのですね」


水仙は、僕の質問に神妙な顔で頷く。


「ええ。六郷の血筋は重要な研究対象ではあっても、我々はその【屋敷】に意味を見出してはいなかったはずです」

「誰か町の人が後から作ったんじゃない? 空き地のままってのも勿体ないじゃん」

「それにしては、あまりにも……」


あまりにも――過ぎる。


古ぼけた木彫りの表札。その威圧感を与える「六郷」の文字も、くすみ方すらも、僕の記憶の中そのままである。表札がかかる柱には、かつて僕がいたずらで付けた傷跡が残っている。ゆかり姉ちゃんに見つかって、こっぴどく怒られたものだ。


まるで悪い夢でも見ているようだった。あるいは、ゲームのイベントムービーの途中のような、茫洋とした非現実。


「では、参りましょうか」

「……」

「……ん」


水仙は静かに促す。僕はただそれに頷いて、小春も緊張した面持ちで僕に続いた。僕は三人を代表して、重い、あまりにも重苦しい門に手をかける。


――世界には境界がある。


僕たちはいま最後の境界を越えようとしていた。この先は日常と色彩の失われた、純粋にだけの決着の世界である。


この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ。

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