第二幕

interlude #01

カフェは仕事の能率が上がる

カフェは仕事の能率が上がる。適度な雑音がいいのだそうだ。


「カフェティビティ、ってアプリもあるくらいなんですよ。なんか、ざわざわした話し声とかが流れるんです。BGM 用の。……あー、コーヒーティビティ?かな?発音、わたし自信ないですけど」


日曜日、僕と花さんはスターバックスで仕事をしていた。花さんの提案である。「オフィスじゃなくて?」と尋ねる僕に、気分転換だと彼女は語る。幸い現在のタスクはソフトウェア開発なので、社内ネットワークに VPN を繋ぎさえすれば、ノート PC でどこからでも作業自体はできるのだ。「休日ですし」と花さんは言うが、休日に当たり前のように仕事をする自分自身については、深く考えないようにしたい。


ともあれ僕はその提案に乗ることにした。そうして僕たちは、かれこれ五時間は奥のソファ席を占拠している。女子大生っぽい花さんが Macbook を叩く姿はスタバに似合っている。でも、もちろん彼女は女子大生ではなく仕事中のエンジニアなので、画面にはインスタの代わりに C++ のコードと黒いコンソールが映っている。

カフェ効果なのかどうか作業はそこそこ進んでいるが、いつ追い出されるかとちょっとヒヤヒヤものだ。


「カフェティビティですか。うまいこといった風な名前付けられても、ネイティブじゃないんで発音迷いますよね」


そのアプリのことは知らなかったが、なんとなく話を合わせる。


「そう!なんだっけ。ほら、C じゃなくて K で始まる Kyash とか。ああいうのやめて欲しいですね。キャッシュで払う、とか、どっちやねんって」

「あれは日本人だった気が」

「じゃあ Grab。タクシー呼ぶやつ」

「Grab は普通の英語だと思いますよ。ブートローダー的な U の Grub と混乱してません?」

「G で始まるものは何でも GNUぐにゅー に見える病気なんです」


花さんは冗談めかして小声で「ぐにゅー」を繰り返すと、恥ずかしくなったのかちょっと笑い、何かごてごてとトッピング注文をつけていた甘そうなラテを美味しそうに飲んだ。

僕もそれに釣られるように、既に冷たくなっているトールサイズのブラックコーヒーを啜る。本日の豆はグアテマラ、だったか。豆の種類は詳しくないけれど、寝不足の頭に染みる味でなかなかいい。


ラテを置いた花さんが「そういえばですね」と切り出すので、仕事の話だと理解して、僕は「はい」と姿勢を正す。


「六郷さんのところもやっておきましたよ」

「え?」

「だから、今日のタスク。結構わたしの方と被ってるところ多かったし、区切りのいいところまで実装してたら、六郷さんの分も終わっちゃったみたいで」

「終わっちゃったみたいって」

「六郷さん、いまチケット #1026 やってますよね?」

「あ……はい。テストも通って、あとはリファクタくらいですけど」

「ですよね。いま最新のコードレポジトリに上げましたんで、プルしてもらって、繋ぎ込めばたぶん終わりです」

「えええ……」


彼女の言う通り最新コードを落として、僕の手元の作業とマージすると……すべては正常に動作した。オールグリーン。仕様書があるとはいえ、僕が並行して書いていたコードとの連携部分まで完璧である。どういう頭をしているのか。


「マジかー」

「マジです」


得意げな花さん。いつも彼女の仕事の速さには頭が上がらないが、同時に無力感というか、自身の力の及ばなさに天を仰ぎたくもなる。もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな。そんなフレーズが頭に浮かんだ。


あとは実機での動作確認であるが、これは各所との調整が必要になるためどうしても平日に進めざるを得ない。したがって、これにて僕たちの日曜日はお仕事から開放されることになる。僕としては夜までかかる覚悟だったので、思わぬ休息に小さくガッツポーズ。これで寝られる。


「ありがたくマージさせてもらって……今日は終わりですかね。ほんと手速いですね花さん」

「じゃあ、今からデートですね」


本気か冗談かわからないことを言う。僕は答えに窮して曖昧に笑うことしかできない。花さんは「おかわり注文してきますね」と、空になったラテのカップを持ってレジに向かってしまう。


(こういう時に、うまいコミュニケーションが取れればいいんだけど)


彼女の後ろ姿を見ながら、気の利いたことが言えない自分に心の中であらん限りの罵倒を投げかける。


それでも……あの頃、六郷の家が消え、離れた土地で暮らすようになった頃と比べてだいぶましになった方だ。



◆◆◆◆◆



あれは、高校生の頃だったか。


ある日、何の気の迷いか、児童養護施設の友人たち数人と一緒に肝試しに行ったことがある。僕は十四歳で六郷の田舎から出てきた。施設で生活するようになって以来、他人との関わりを執拗に避け続けていたように思う。そろそろうまく居るのか居ないのかわからないポジションを確立できたかな、と思っていた頃だった。


誘った友人たちも、首を縦に振った僕自身も、おかしくなっていたとしか思えない。もしかすると、彼らはずっと一人でいる僕のことを心配してくれたのかも知れない。


施設には幅広い年代の子供達が暮らしていた。免許を持っている先輩の車に乗り、僕たちは肝試しの場である廃病院にたどり着いて、その中を散策した。


そこで一つの事件が起こる。


それはよくあるイタズラだった。彼らは僕を、その廃病院に置き去りにしたのである。


ところが、みんながことに気付いた僕は――凍りついた。


何かわからない大きなものに頭を押さえつけられているように、僕はその場に身体を抱えてうずくまった。涙が流れ、いくら止まれと念じてもそれはとめどなく瞼の奥から溢れ出してきた。頭が熱く、同時に寒い。歪む視界と、血流の音で遠くなった耳。身体はまるで自分のものとは思えないほど震えていた。


様子を見に戻ってきた友人に肩を揺さぶられて始めて、僕はその凍結状態から脱出することが出来た。さぞひどい顔をしていたことだろう。


ほんのちょっとで戻ってくるつもりだったと言い、実際すぐに僕の様子を見に来てくれた彼らに、悪意があったようには見えなかった。なかなか周りと馴染まない僕をちょっとだけ怖がらせて、その後にみんなで笑って、結束を深めよう――おそらくその程度の意図しかない、男の子らしい乱暴なコミュニケーションの一環だったのだろう。友人たちは、悪かったよ、とバツが悪そうに謝ってくれた。僕もそれに首を振り、恥ずかしさに苦笑しながら、何かひとことふたこと自虐的な冗談を言ったのだと思う。彼らが僕の言葉に笑ったからだ。

過程はどうあれ、彼らと馴染むという結果は得ることができた。彼らがその件をきっかけに僕を女々しいやつとイジメの対象にするような人間ではなかったことには、本当に感謝している。



どうやらあの頃の僕は、ということにひどく恐怖をしていたようだった。まるで子供に逆戻りしたようだ。いや、子供の頃を思い返しても、あの夏と燃え落ちる六郷の家を経験するまでこんなことはなかった。


ゆかり姉ちゃんが失われ、そして人々の記憶の中で彼女が二度目の死を迎えていく様子は、僕の心の嫌なところに居座ってしまっているようだった。


これはまずいと考えた僕は、その後、積極的に他人に関わるようにした。


逆説的ではあるが、他人への関心を薄く広く分散して、誰かが居なくなったり新しい人と知り合ったりというループを日常と感じられるように努力した。友人ができ、疎遠になり、好きな人ができ、別れ、そうして当初の「これはまずい」という感覚を忘れる程度には、人間関係をある程度うまくやれるようになった。


他人から見れば、僕が昔と比べてマシだとか、どんな苦悩があるかなど、これっぽっちも知ったことではないのだ。しなければいけない。


そう考えてうまくやるよう努力をしてきた僕の中から、過去に経験したあの喪失が無くなったわけではない。記憶に残るものを陽の光のもとでよくよく観察すると、それは恐怖であると共に、静かな怒りであったようにも思う。それをうまく言語化することは出来ないが、自身の無力、何も知らなかった子供、勝手に変わりゆく人間たち、理解の及ばないもの、はっきりとしない事実。そういったものごとに対する苛立ちであり、ある種の絶望感であった。


自ら死を選ぶという選択肢はなかった。死はあまりにも当然のような顔ですぐそこにある。僕の家族はするりとそれに呑み込まれてしまったものだから、僕までやすやすとその列に加わってやるつもりはなかった。だから僕は、


(その代わりに……)


その代わりひたすらに静かな世界を――誰もいない世界で生きることを願い続けていた。特定の信仰を持たない僕から発せられた祈りは、どこにも届かないはずだった。



◆◆◆◆◆



そこにが現れた。僕が裏側に入り込んだ、と言うべきか。


左手を開き、てのひらを見つめる。僕は誰もいない世界に入り込むと同時に、この世界にとっては能力を手に入れてしまったとも言える。それは僕自身がずっと恐怖し、願い続けてきたことだった。聞き届けられた祈り。いったい誰が聞き届けたというのか?それとも、これはただの偶然だったのだろうか?あるいは、僕の意志など関与することの出来ない、必然であったとでも。


――お前をことができる。


それは、誰から聞いた言葉であったか。


「…… 六郷さん?なんか、おもしろい顔してますね」


花さんに声をかけられて、僕は我に帰る。ちょっと怖いですよ、手相ですか?と続け、彼女は僕の手のひらを覗き込む。


「変な顔、してましたか。すみません」

「もしかして家、帰ります?わたし次の買っちゃいましたけど、それなら一人でもうちょっと作業して行きますし大丈夫ですよ」


花さんは買ってきたばかりのドリンクを掲げる。次はフラペチーノと言ったか、チョコ味のシャーベット的なものをチョイスしたらしい。こうした甘味大好きなところも、女子大生感に拍車をかけているのだが。


僕が考え事をしていたせいで彼女に気を遣わせてしまい、申し訳ないと思う。ほんとうにいい子だ。

もちろんいますぐ帰って寝たいという気持ちもあったが、少し彼女に付き合おうと考え直す。僕は身体の上げている寝不足アラートを無視すると、自分の Macbook をぱたんと閉じた。


「いえいえ、僕もご一緒します」


デートですしね、という冗談めかした言葉は口から出てこなかった。


花さんはよかったー、と笑顔を浮かべると、パン、と手を打ち合わせる。


「そうだ、家と言えば。六郷さんの家ってどんな感じなのか教えてくださいよ」

「家?普通のアパートですけど……会社の二駅隣で」

「あー、ちがって、ご実家の方です。前回のプロジェクト打ち上げの時、何か純和風の屋敷だとか言ってたじゃないですか。わたしそういうの好きなんです」


そんなことを言っていたのか。僕は過去の自分をなじるが、今更どうしようもないことだ。

ちょうど先程までの思考に引きずられて、どうしても悲壮さが言葉に紛れ込もうとしてくる。それを隠そうと、僕は努めて明るい何でもない調子で、僕の家族も家も既にこの世にないのだと彼女に説明した。


「ごめんなさい、わたし無神経なこと聞いて」


すみません……と、彼女はシュンとしてしまう。


「いや、大丈夫です。でもまぁ、あまり人に言うことじゃないんで」

「その火事の日のこと、何も覚えてないんですか?その離れにいたって言うのも不思議ですし、ご家族の……その、遺体も見つかってないって言うのが」


花さんの中で、持ち前の好奇心が、他人のセンシティブな過去に触れることに対する遠慮を打ち負かそうとしている気配を感じる。


「見つかってないというか、僕が見せてもらってないだけで。少なくとも全焼だったんで、絶望的だとは思います」

「そうですか……」


ぱく、と口を開けて何かを言おうとしたように見えたが、葛藤の末、どうやら彼女の好奇心は敗北したらしい。

花さんは結局その開けた口に、ホイップおおめのフラペチーノをひとさじ運んだ。

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