吐く息は白く、耐え難いほどに遠い
最後の日は、思ったよりも早く訪れた。
それは寒い冬の夜だった。どんよりと曇った空気は腐りかけの観葉植物の匂いがして、空を覆う雲は、今にも半狂乱で俺たちに濁った液体を吐きかけそうに見えた。
時刻は深夜二十四時をまわっている。そのとき俺は隼人の家で、暗い部屋の中ファイナルファンタジーの新作をやり込んでいた。部屋の電気が消えていたのは、部屋の主である隼人が漫画を読みかけの姿勢のままベッドに突っ伏して寝ていたからだ。俺たちは同じ空間にいるお互いが何をしているか、さほど気にしていなかった。
その夜、何度目かの挑戦で俺はラスボスを倒すことに成功した。ロールプレイングゲームの本質は、その名の通りロールプレイだろう。感情移入というやつだ。真に本質を理解すればするほど、感情移入の度合いは高まる。これまでの寝不足も相まって脳の情動制御機構が若干鈍っていたことも要因のひとつとして挙げられるかも知れない。つまるところ俺は、エンディングを見ながら陳腐にも……泣きそうになっていた。
目を潤ませて鼻をすすっていると、寝ていたはずの隼人から「くっくっ」と忍び笑いが聞こえてきた。目を向けると、身体を震わせてニヤニヤと俺を見ている。俺は何か、顔がかっと熱くなるのを感じた。
「……比良坂、お前も感動するんだな」
「するかクソが。死ね」
吐き捨てた俺の言葉を意にも介さず、隼人はそのまましばらく震えていたかと思うと、堪えきれなくなったように腹を抱えて笑い始めた。うまく息ができないのか時折むせながら、隼人はひたすら楽しそうに笑った。
俺は可笑しさと羞恥が
「隼人、お前いい加減に――」
――その瞬間。
兆候も契機も跡形もなく、チャンネルを切り替える程度のノイズすらなく、俺の眼の前で隼人の姿が忽然と消え去った。
突然の異常に、俺の脳髄の温度が下がる。
「は?……何だ、これは」
「……あー、どうも駄目だったらしい」
俺がふと漏らした狼狽に、思ったよりも冷静な隼人の声が答えた。何もない空間に隼人の声だけが響く。
その時俺は、隼人が「
「そこにいるのか……? 隼人、声は聞こえるか?」
「ああ、聞こえる」
眼の前の空間に伸ばした俺の手は、ただ虚しく空気を裂くだけだった。
「消えるってのは……透明人間になることか? ずいぶん便利そうな【神隠し】じゃねぇか」
指先の喪失を埋めるように、俺は肩を
「たぶん今だけだ。じきに俺も飲まれる。しばらくしたら、話もできなくなるだろう」
「飲まれる? そっちには何があるんだ」
「何もない。俺から見えるのは黒い空間だけで――自分の身体がどうなっているのかもわからん。お前の声が聞こえるだけだ」
何もない世界。隼人はただ姿を消しただけではなく、いま、俺の眼に映るこの世界とは異なるどこかに存在している。確かにそこにいるはずなのに、何か、決定的に
「……比良坂、ギリギリでお前に会えてよかったよ」
それは今こうして話している時間を指しているのか、それとも俺たちが出会ってからの日々を指したものか。俺には、隼人の真意を解釈することができなかった。
俺はただシンプルに、繋ぎ止めなければと感じた。
「……隼人。スーファミ借りるぞ」
「何言ってんだ……?そんな……」
「お前がいない間、どうせ使わねえんだろ。ここにあるゲームは一切合切、俺が勝手に借りてやる」
「……わかったよ。アホかてめぇは」
隼人の気配は、少し笑ったように思う。
「ちゃんと返せよ」
「戻ってきたらな」
「ああ……妹のこと、頼んだぞ」
六郷の神隠し。馬鹿げていると鼻で笑った隼人の懸念が、俺の眼の前で起こっている。科学は万能ではない。説明不可能な現象に相対したとき、何を語るべきなのかわからなくなってしまう。
「こんなイリュージョンを見せられちゃ、頼まれるしかないな」
「……」
「隼人?」
「何もない……見えないだけじゃない、存在しない。真っ黒だ。まるで地獄の
その言葉は既に俺に向けて語られているものではなかった。うわ言のように呟きながら、隼人は何かを体験している。何もない世界に放り出されて、その透明な眼差しで、存在しない何かを受け止めているのだ。
「そちらにアクセスするには、どうすればいい。何か情報になるものはあるか?」
俺は、誰もいない空間から声が返ってこないことに気が付いた。
ゲームのエンディングムービーは終わり、黒画面に「THE END」とでかでかと表示されたまま沈黙している。窓の外では、いつの間にやら冷たい雨がしんしんと降り注いでいる。俺は何かに身を震わせた。部屋の温度は冷凍庫の中に放り込まれたかと思うほどに寒い。
「隼人、聞こえてるか」
氷点下の静寂と、雨の音だけがそれに応える。
「……おい?」
俺は、たったひとりの友人を見失って立ち尽くす。吐く息は白く、耐え難いほどに遠い。
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