あらかじめ、そう決められていたかのように

子供の適応力というものは恐ろしい。


僕は「先生」とゲームをして遊ぶようになった。六郷の屋敷、十二畳ある和室は先生の「研究室」として生まれ変わっており、大型ディスプレイと当時最新鋭のゲーム機が揃えられ、ソフトもよりどりみどりであった。


ここで一旦説明をしておかねばならないだろうが、僕たち――つまり僕とゆかり姉ちゃんは、白衣のことを、中年男に倣って「先生」と呼ぶようになった。


それは単に呼びやすかったからそうしていただけでもあるし、一度聞いた名前がちょっと面倒くさそうな感じだったのと、普段の言動が無駄に偉そうで「先生」呼びがしっくり来ていたから、というのが理由になるだろうか。

中年男の方は...山田だったか、山本だったか。とにかく名前すらも平凡であったことしか記憶にない。呼びかける必要があるときは「おじさん」と呼んでいたので、特に問題にはならなかった。


おじさんはいつも部屋にいて、僕と先生がゲームで遊ぶ傍ら、デスクトップPCで何かずっと作業をしていた。それだけ思い返すと、先生よりもずっと「先生」らしかったのはおじさんの方だったかも知れない。



ひとたび「一緒に遊べる相手」と認識してしまえば、子供の警戒心は極限まで下がるものである。


先生は始終不機嫌そうであったが、その頃には、先生は不機嫌なのではなくてこういう顔と喋り方がスタンダードなのだとすっかり馴染みきっていた。



かつて部屋に食事を運ぶとき気になっていた機械音は、何のことはない、ゲーム機の立てるものであったらしい。それ以外の音の発生源と言えば、おじさんの使うパソコンくらいである。その他にも用途のわからない黒い機材などがあるにはあったが、僕はそれらが可動していた場面を見たことがない。


ゲーム事態の音が部屋の外にまで漏れて来なかった理由は、先生の持つ、かなり重厚なヘッドセットである。当時の記憶からの推測でしかないが、プロの使うような、本格的な音響機能を持っていたのではないかと思う。

それは僕の頭部をすっぽりと覆い隠し、ゲームの音を本来の何杯も臨場感あふれるものにしていた。友達の家や自分の手持ちのゲーム機では体験できないその刺激に、僕はすぐ夢中になった。


「先生、なんでこんなにゲームもってんの」


ヘッドセットに組み込まれたマイクで、僕と先生はゲームの音に浸りながらも会話をすることができた。


「俺が好きだからな」

「研究しに来たんじゃないの?」

「いいさ、だから」

「ついで?」

「まぁ、気にすん……な!」

「――あっ」


先生は僕を画面外に吹き飛ばし、僕のピカチュウは通算 128 回目の敗北を喫した。


◆◆◆◆◆


時は夏休み。


朝はゆかり姉ちゃんが「先生」の部屋に朝食を届け、そのまま部活に行く。水泳部の朝練の後は夏期講習に参加して、そして昼過ぎにまた泳いで帰ってくるらしい。女子高生の体力とは恐ろしいものである。


僕は日が昇っているうちに、やるべきことを片付ける。それはたとえば夏休みの宿題を進めるとか、地元の塾の講習に通うとか、プールに行くとかいったものごとである。


子供は子供で色々と忙しいのだ。


ゆかり姉ちゃんが部活から帰ってくる頃になると、神社のベンチに向かう。大抵はそこで涼んでいるゆかり姉ちゃんと合流したあと、日が暮れる頃に屋敷へ帰る。そうしたリズムができあがっていたように思う。


そして、夜に「先生」の部屋に食事を運ぶのは僕の役割であった。その役割分担は僕が提案したものだ。理由はもちろん、寝る時間になるまで先生の部屋でゲームに興じるためである。



先生は研究らしいことをまったくしていなかったかと言えば、そうでもない。記憶に残っているのは大学ノートである。

先生はゲームの傍ら、時折、足元に投げ出した大学ノートに細かく複雑な形を書き込んでいるのを見ていた。それはおそらく高度な数式だったのだろうが、日本語じゃないなぁ、字ちっさ、という程度の記憶しかない。


それよりもむしろ、対戦の最中であっても先生は急にコントローラから手を離してノートを取り始めるものだから、そのチャンスタイムを見逃すことなく攻撃して倒す方がずっと重要な任務であった。

先生は「あーおい夜介、タイムタイム」と気の抜けた批難をするから、僕はそれに対して得意顔で勝利宣言をするのである。



僕は先生と対戦ゲームをやることもあれば、僕がファイナルファンタジーやドラクエといったRPGを進めて、先生がそれを後ろで眺めて、実況したり感想を言い合ったり、馬鹿げた冗談でけらけらと笑ったりもしていた。

ところが、ひとりでゲームを進めていると、ふと気が付くと部屋から先生が消えていることがあった。


「――あれ、先生?」


きょろきょろと見回すが、さっきまで僕の後ろで一緒にゲーム画面を見ていたはずの白衣の姿は忽然と消え失せている。そこには開かれたままの、大学ノートが置かれている。


そしてまた画面に眼を戻してみると、後ろから「おい、そこにも敵いるだろ?」と例の不機嫌そうな口調が聞こえる。

振り返ると、先生は何でもない顔で、今までもずっとそこにいたような素振りで、僕のゲームにケチをつけている。


そんな時も、おじさんは黙々とデスクトップPCに向かっていた。


◆◆◆◆◆


ある日、深すぎて黒く見える紫の髪をタオルで拭きながら、ゆかり姉ちゃんは神社のベンチで僕に問う。


「やっくん、また先生のとこでゲームしてたの?」


眼をこすり、あくびを噛み殺す僕を見て、咎めるような、呆れたような口調。


「うん」

「あまり遅くまでやっちゃだめだよ」

「やだよ、ゆかり姉ちゃんも来ればいいじゃん」


朝晩と毎日食事を届ける役割を分担していながら、僕は未だに、ゆかり姉ちゃんを交えて先生と三人でゲームをしたことがなかった。

夜遅くまでゆかり姉ちゃんも交えてゲームができたら、それはどんなに楽しいだろうと思った。


でもやっぱりゆかり姉ちゃんは、僕の言葉に笑うだけだ。彼女はいつもそうだったが、その日は少し、様子が違っていた。


「姉ちゃんもあの被るやつやってみなよ。ぜんぜん違うよ」


ゆかり姉ちゃんはと笑みを消すと、驚きを含む瞳で僕に問いかける。


「……やっくんも使ってるの?」

「も?」

?」


なんで、って……。ゆかり姉ちゃんが何を言わんとしているのか読み取れず、いつもの彼女らしからぬ圧力のある口調に、僕はたじろいだ。


◆◆◆◆◆


その日から、何日も経たない頃だっただろうか。


いつもに増して、寝苦しい夜だった。


僕は、いつものように先生の部屋でゲームで遊び尽くしたあと、日付が変わる頃には眠気に耐えられず自室へ帰り、布団に入っていた。


それでもまるで蒸し焼きにされそうな熱風とじんわり汗ばむ身体の不快感に、僕は目を覚ます。時刻はわからなかったが、月の傾きから、丑三つ時に近い頃であろうと思われた。


暑苦しい夜を楽しいものに変えられないかと働き始めた好奇心が、ふと新たなクエストを立ち上げる。


(先生、まだ起きてるかな)


この時間に先生の部屋へ行ったことはなかった。思い返してみると、先生はいつもある程度遅い時間になると、もう今日は終わりだ、寝ろボケ、と乱暴な口調で電源をブチ切りして僕を放り出す。もしかしてあのあとこっそりゲームを進めてるんじゃないか。


その姿を見つけて曝け出してやることは、いつもいいように扱われている仕打ちに対する、小気味良い反撃になるのではないかと考えた。



足音を忍ばせて、先生の「研究室」に向かう。よく磨かれた廊下の板は時折、ぎし、と寝言を発する。その度に僕は足を止めて、あたりの気配を伺った。

突発的なクエストによってもたらされた隠密行動は、僕の心を静かに沸き立たせた。


先生の部屋が、すぐそこまで近付いたとき。僕はオレンジのような匂いを嗅いだ。


人影が、先生の「研究室」の前に見える。月明かりに照らされて紫色に透ける長い髪は、僕が物心付く頃から憧れてきたものであった。


(ゆかり姉ちゃん……?)


ゆかり姉ちゃんの部屋は「離れ」にあり、お手洗いに起きたのであれば、そちらを使うのが自然なはずだ。


僕は、思わぬ先客に声を掛けることも忘れ、息を殺して、月光のもとゆるりと動く彼女の姿を見ていた。その動きはとても静かで、水の中をたゆたう小さな泡を思わせた。


ゆかり姉ちゃんは「研究室」のふすまに手をかけて、静かにその中に入っていた。あらかじめ、そう決められていたかのように。



そして夏の終わり、ゆかり姉ちゃんは消えた。

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