リバースティック・ハイゼンベルク
放睨風我
第一幕
prelude
誰もいない世界を神に願ったことはあるだろうか?
誰もいない世界を神に願ったことはあるだろうか?
僕はある。僕はいま、誰もいない世界で誰でもない僕として存在しない。
どこの馬の骨とも知れない神が僕の願いを聞き届けたことに気が付いたのは、いつものように仕事を終え、自宅最寄駅の地下鉄のホームに降り立った瞬間だった。
工学系大学院を卒業し、組み込み機器のエンジニアとして働き始めて五年目になる。適度にスキルがあり適度に下っ端で、さらに独り身である僕は会社にとって非常に使いやすい労働力であるらしく、こうして終電間際まで仕事をすることが常だった。
その日その瞬間も、ちょうど日付が変わろうとする時刻だっただろうか。
世界に誰もいなくなった。
兆候も契機も跡形もなく、チャンネルを切り替える程度のノイズすらなく、僕の降り立ったホームからすべての人間が消え去ったのである。
僕は驚きよりも先に、その静けさに感動を覚える。人から生じる音とはあんなにも
のどやかなチャイムが発車を告げ、空気の抜けるような音を伴って電車の扉がゆっくりと閉まる。その音の輪郭さえも、僕はありありと感じ取ることができた。
振り返った僕はそっと動き始める無人の車両を認め、先程まで僕と一緒に輸送されていた人々が、完全に消失していることを確認する。
誰もいない世界は、誰もいないにも関わらず、まるで何事もなかったかのように動き続ける。それは異質な光景であった。
そして何よりもこの空間を異質なものとしているのは、音や人間の不在よりもむしろ、僕の目に映る色である。
正確には、映る色がないと言うべきだろうか。
古い映画を観ているようなその光景。僕の視界からは色という色が失われ、白と黒と光の加減が織りなすモノクロアートの世界へと変貌したのである。
その荷を失ったことにも気を留めず定刻通りに走り去る地下鉄を見送りながら、僕はしんしんと動き続ける階段状の機械へと近付く。地上へ向かうエスカレータはどうやら正常に機能しているようだ。
実のところ、そこから人間と色が失われていること以外、世界のすべては正常に機能しているように見えた。
エスカレータに乗るとき僕はいつも足元を確認する。足を踏み出すに至って僕は、そこに僕の足が存在しないことに気が付く。確かに歩みを進めているにも関わらず、僕の目にはあるはずの自分自身の足が映っていないのである。
その現象は足だけに限らなかった。どうやら、本来そこにあるべき僕の身体そのものが存在していないらしい。そこにあるのはただすっきりとした空間だけである。
エスカレータは僕の視界を上へ上へと運んでくれたが、そこで運ばれているものは視界のみであった。すなわち、僕がそれを観ているという現象だけが移動した。
意識とは何かと問われることを恐れなければ、僕の意識のみであった、と換言してもいい。
ほかのすべての人間とともに僕自身が消失していることに関しては、確かに僕は誰もいない世界を願ったのだし、特に不満はない。ただ、不便ではあるかも知れない。
◆◆◆◆◆
改札を出て目に入ったのは夜空である。
色彩の失われた地上と比べて、夜空は以前とほとんど変わるところがない。そして、それ故に僕の意識を奪った。
塗り潰された黒の中に弱々しく星が瞬き、たなびく雲はぼんやりとそれらを覆い隠そうとしていた。そこにおいて、すべては白と黒だけで描き出される。
太陽という大いなる光に背を向けてこそ成立しうる、極限まで削ぎ落とされたその豊かな光景。夜空は、僕が誰もいない世界を願うずっと前から完成されていたのだと知る。
ついに望む世界を手に入れた僕には、しかし、取り立ててやりたいこともなかった。願いが叶ったあと、目的を達成したあと、幸福な暮らしを得たあと、エンディングのあとに主人公は何をするのか。僕にそんなことがわかるはずもない。
だから、そのまま家に帰ることにした。
◆◆◆◆◆
自宅への道すがら、コンビニの前に通りかかる。
いったい存在しない僕の身体の何に対して反応しているものか、自動ドアは、軽快な音とともにその口を開いて僕の意識を迎え入れる。
いつもドアの開閉に覆い被さって聞こえてくる、気の抜けた店員の声はない。色の洪水を喪失したモノクロの店内は目に静かであり、僕は安心感と、わずかなおかしさを覚える。
確か元々は青色であったお気に入りのビール缶を手に取り、お金を払うべきかどうか少し迷う。迷った後、その液体を注ぎ込む先がすでに存在しないことに思い当たって棚に戻した。
そこでふと違和感に気が付き、動きを止める。
(あれ、今……?)
じっと手を見る。そこには何もないが、確かに僕は缶を手に取ることができた。
僕はどうやら、見えない手でこの白黒の世界の物質に触れることができるようであった。
店を出て歩きながら、ぺたぺたと街路樹やガードレールを触り、その感触が元々の世界と寸分違わないことを確認する。
つまり僕は、透明人間、のような状況にあるらしい。誰もいない世界で透明人間になっても、既にそれを見るべき人がいないのだから、何が面白いのかわからない。
◆◆◆◆◆
音もなく歩き、自宅まであと数分という場所だったろうか。ふいに、鮮やかな色彩が目一杯に広がるような感覚を覚えた。
「……?」
僕は目を上げるが、やはりそこには変わらず、白黒の世界が静かに佇んでいるだけである。
あたりを見回して、僕は民家の庭先に植えられている花に目を留める。色とりどりの世界を僕に錯覚させたのは、駅までの道でいつも出会う、ある花の香りであった。
誰かの家の庭に植えられたその花は、おそらくは観葉植物であろう。釣鐘状の花を葡萄の房のようにたくさん実らせている姿が印象的で、僕もなんとなく覚えていたものだ。
僕の記憶が確かであれば淡い紫色をしているはずの花の色は、もはや白黒の世界において僕の目に映ることはない。しかしその特徴的な香りが、僕の脳裏に鮮やかな色彩を思い出させたのである。
僕は嗅覚をくすぐる色彩に嬉しくなって、房となった花のひとつを、ぷちんと千切り取って持ち帰ることにした。
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