ずいぶん昔の映画だったと思う

タイトルは忘れたが、ずいぶん昔の映画だったと思う。


山奥の一軒家に、貧しい家族が住んでいる。その家に、憔悴して傷を負った、見知らぬ若い男が侵入するところから物語は始まる。若い男はワケありのように見える。男は一軒家にホコリを被った隠し部屋を見つけ、そこで暮らすようになる。家族と男は奇妙な共同生活を送る。男は傷を癒やし、人知れず家族を守る。一家は男の存在に薄々勘付いているが、何事もないようにいつもの暮らしを続ける。双方の間に不思議な交流が生まれ始めたころ、一家の子供が隠し部屋を見つけて――


やっぱり、タイトルは思い出せない。


ユリは、とりとめのない思考の上映を、流れるまま受け止めている。


わたしだって、どうでもいいことは忘れたりする。


天才と呼ばれそのように扱われ続けていると、ラベルだけが独り歩きする。

まるでコンピュータか完全無欠の超人のように、いわれのない伝説が作られてゆく。

見たもの聞いたものを何一つ忘れないとか、そういう類のものだ。


わたしも怪我をすれば血が出るし、

誰かに打ち負かされたら傷付くのだし、

何か悲しいことがあれば、泣いたりもする。


最後に泣いたのはいつだったろうか。


わたしが血を流さないのは怪我をしないからで、

傷付かないのは打ち負かされる相手がいないからで、

泣いた日が思い出せないのは、悲しいことがないからだ。


やっぱり、最後に泣いた日は思い出せない。



◆◆◆◆◆



そんなことを考えてしまうのは、この大学がユリわたしにとって、

ターニングポイントとなる経験をもたらしてくれたからだろう。


「……懐かしいな」


白黒の世界。人気のないキャンパスに静かに屹立する広葉樹を見上げる。黒々と生い茂る葉は、白く晴れ渡る夜空を覆い隠している。



大学に【ハイゼンベルク】の拠点があることはもちろん知っていた。何しろ入学したその日にわたし自身が自分の意志でそこへ足を運んだのだし、非公式ながら、研究員として数年間を過ごした場所でもある。


ところが連合側に移ったあと、わたしはここを思い出すことがなかった。

いや、今日という今日まで、無意識のうちに避け続けてきたというべきだろうか。


決して記憶喪失などではない。わたしが過ごしてきた過去の日々も、大学での経験も、ATPI の研究内容も、比良坂の属する組織――わたしたち連合が【ハイゼンベルク】と呼ぶそれ――で見聞きしたことも、わたしは明瞭に記憶していた。

それらのドットを繋ぐConnecting The Dots経路だけが、すっぽりと抜け落ちていたように感じる。



決まっている。比良坂先生の能力【ストレンジ】だ。


第二世代である【ストレンジ】の特性は――力を奪い、記憶を奪い、認識を奪う。


奇妙ストレンジな、そしてチートと呼んでもよいほど強力な影響だ。わたしも彼の能力の全容を理解しているわけではないが、比良坂の場合は、というよりも緻密な操作で特定の情報をている、と表現するほうが正確だと思う。奪った何かが、使い手の所有物として再利用可能になるわけではない。それは将棋ではなくチェスなのだ。


わたしがどうでもいいことを忘れてしまう以上、忘却という機能が脳に必須のガーベッジコレクタGarbage Collectorとして備わっている以上、そこを突かれるのは避けられないことだ。


本当に厄介。


ユリが比良坂の【ストレンジ】による忘却を打ち破ることができたのも、ほとんど僥倖に近い。


懐かしい『高エネルギー物理第二実験棟』の扉を押し開けて、先行した【連合】のメンバーが戦闘を繰り広げる音を聞きながら、ユリは歌うようにそっと口ずさむ。


「――あなたが悪いのよ、メルト」



◆◆◆◆◆



メルトは、平静を保とうとしていた。


彼女の五感は、水槽に浮かぶ彼女自身の身体のことをほとんど関知しない。そのすべての注意は、並行世界の監視へと向けられている。それでもメルトが人間である以上、その情動を消し去ることなど出来ない。

それならばいっそ、完全なシステムになりたいと彼女は願う。


『ユリ……いえ、連合の【チャーム】が、第二階層の戦闘に加わり……全員です。こちらのエージェントは既に全滅させられています』


システムになれない彼女は、声の震えを押さえられないままに見たものの報告を行う。

メルトは、ユリが連合に下る最後の瞬間まで彼女と共にあった。


(ユリがいなくなるのを、止められなかった)


自身の無力さを呪い、そして呪い続けてきた。並行世界に対して行われるすべての干渉を知ることができても、メルトひとりでは、何ひとつ変えることができない。


全知無能。


すべてが見えるだけの、見ているだけの傍観者に過ぎない。メルトは、ユリがその笑顔の裏に何を考えていたのか、最後までほとんどわからなかった。


メルトはユリの名前を、後悔とともに思い出した。

水仙はユリを敵に回すことの意味を、誰よりも切実に理解していた。


アザレアだけが、それを知らされていなかった。


「どうしてお姉ちゃんが……!? 水仙!」


おまえは知っていたのか。お姉ちゃんは、連合に捕らわれているんじゃなかったのか。

それがどうして、あたしたちに攻撃をしかけて来ているのか。


山程の疑問を投げかけるアザレアの視線を柔らかくて、水仙は次の行動を弾き出す。


ユリが【連合】側に付いた時点で、とっくに彼我ひがのパワーバランスは崩壊している。彼女ユリはゲームの勝敗を測る天秤に乗せられる、一枚の金貨などではない。彼女の行動自体がゲームの形を変えてしまう、そういう存在だ。

誰が行ったところで彼女を止められるとは思えないが……


「アザレア、いいですか。たしかに今のあなたの姉は、我々にとって敵です」

「やっぱり、ほんとうにお姉ちゃん、なの……?」


老紳士は、不都合な真実を告げるように首肯する。


「やだよ……なんで、こんな……あたしは」


アザレアは水仙の服を掴んだまま崩れ落ちて、俯く。



水仙は語気を強めた。アザレアはぴくりと肩を震わせるが、それでも下を向いたままだ。


「ユリを止めてください」

「……え?」


アザレアは顔を上げ、何かにすがるように水仙の穏やかな双眸を見上げる。

焦りを含むメルトの声が、横からそれを引き止めた。


『水仙、それは無理です。戦力差がありすぎます』


水仙はすべて承知しているように頷くと、いくぶん言葉を和らげながら、セーラー服の少女に語りかけた。


「正面から戦っても、倒すことが出来ないのは確かでしょう。倒す必要はありません。ユリは【チャーム】で、あなたは【ダウン】の属性です。防御に徹して会話を続けて、説得を試みてください」

「……説得?」


アザレアは弱々しく、柔和な表情を崩さない老紳士を見上げている。

その瞳はいくぶん豊富に水分を含んでいるが、それでもまだ、彼女の心は崩れていない。


「攻撃を取りやめさせること。彼女の侵攻の目的を聞き出すこと。その内容によっては、交渉の余地があること」


アザレアは何かを考えるようにまた下を向いてしまうが、しかし、その背中には何らかの意志が宿りかけている。

それを鼓舞するように、水仙は言葉を続けていく。


「正直なところ、私が止めようとしたところで、即座に倒されて終わりでしょう。近接攻撃を主体とする私のスタイルは、遠距離から圧倒的な火力で攻撃を加えてくる彼女に対して不利です」

「……」

「だから、彼女を無力化できる可能性が最も高い戦略は、アザレア、あなた自身です。あなたはユリの、たったひとりの妹なんでしょう」

「……わかった」


アザレアは立ち上がり、目を拭う。


「でも、知っててあたしに隠してたこと、許してないからね」

「それについては、申し開きの言葉もございません。責めるならば、あとでいくらでも」

「……ばーか」


子供っぽい不満をぶつけると、アザレアは人差し指でスカートの裾をと弾いた。

黒い髪の下で光る瞳には、既に取り戻された強さと覚悟が見て取れる。


「夜介様」


声をかけられ、僕は身をすくませる。


「あなたを早急に我々の仲間に引き入れたかったのは、彼女ユリに備えるためという側面も大きかったのです。それほどに彼女は脅威であり、同時に、あなたにもゲームバランスを壊すほどの戦力になる余地が


過去形。


「ですが、これほどに早く行動を起こされてしまうと……残念ながら。基礎を覚え始めたばかりのあなたを中途半端に巻き込む形になってしまったことには、お詫びの言葉もございません」


僕は何を言えばいいかわからず、ただ首を横に振る。

彼が謝る必要はない。かといって、誰かが悪いようにも思えない。そもそもが非現実的な事態である。


世界には境界がある。


思い返せば、僕がひとりで誰もいない世界に入ることができるようになったあの夜から、僕は境界を越えていた。いずれこのような事態に流れ着くことは、予め決まっていたのかも知れないとすら思う。


何も悪くない。あえて言えば――が悪い。


「あなたはここで、この部屋で待機していてください。力を使うとすれば【ダウン】で盾を張り、身を護ることを最優先になさってください」


そうして水仙とアザレアは、連れ立って通路を先へと走っていく。

境界を越えたにもかかわらず、僕は守られて、流されて、戸惑っていることしかできない。



――僕は。

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