長い一日になる
長い一日になる。
今日――というのは、僕が花さんとスタバで仕事をして、グレースーツの男に襲撃され、水仙に助けられた日。先生が創設した【ハイゼンベルク】と呼ばれる組織に招き入れられ、並行世界での能力の使い方を教えてもらった、その日の夜である。
紺のセーラー服を着た黒髪の少女、アザレアが僕のトレーニングを終えたのは、夜も更けた頃だった。僕たちは既に現実の世界、色のある世界に戻って来ている。
そして、僕の現実感は変わらず失われたままだ。体育館のようなまっ灰色の中で長時間、初めて見る未知の力を習得しようと頭を絞らされれば誰でもこうなる。
アザレアは僕に部屋をあてがった。
「じゃ、ここがあなたの部屋ね」
「ここ、って……」
僕は部屋を見渡す。
大学の「実験棟」には似つかわしくない、まるでビジネスホテルのような、コンパクトではあるが水回りから寝床まで整えられた宿泊設備であった。大学に学生が寝泊まりすることは確かにあるが、さすがにここまできちんとした空間は珍しいだろう。
「シャワーとか奥に付いてるから、今日はちゃんと休むこと。続きは明日の朝ね」
「あの、やっぱり、明日は仕事に……」
アザレアはため息をついて、
「だから、それどころじゃないってわからない? それに、もう休む連絡してたじゃん」
「……」
往生際の悪い、聞き分けのない子供に言い聞かせるように語る。
僕は沈黙するしかない。
制服姿の女の子に呆れたように諭される体験は初めてだが、妙な性癖に目覚めそうだ。
そして彼女の言う通り、僕は既に、明日からしばらく仕事を休むことを会社に伝えていた。
上司の説得にはかなり苦労をしたが、今日の朝にスタバで進めていた実装を電話口で説明して納得してもらっている。上司を論理的に承認をもらったというよりは、感情に訴えてなんとか丸め込んだという方が近いが。
プロジェクト自体は山場をやや超えた所で、未だ気の抜けない状況ではあったのだが――標準ライブラリの機能をかなり拡充したために、僕以外のメンバーだけでも実装が完了できそうだという見通しが付いているのだ。
そしてそのライブラリ機能拡充は、ほとんど花さんの手によるものだ。
まるで女子大生のような出で立ちでありながら圧倒的なスキルを持つ我が社のエース、花さん。
上司も僕も、花さんが、僕を含むチームメンバーのスキル底上げのためにかなりの時間を割いていたことを知っていた。組織の長期的な成長を目指した教育面への投資であった。それをストップして、花さんにメインを張ってもらう。そうすれば、少なくとも今回のプロジェクトに限っては滞りなく完了するであろう。
そもそも花さんがプロジェクトに噛んでいる時点で、僕がひとり外れたところで大した問題ではない。身も蓋もない上に、僕のわずかばかりの自尊心にピキピキと傷がついてゆく音が聞こえたりもする諸刃の論理だ。
上司に電話して頭を下げる僕を冷ややかに観察する、アザレアの目つき。
あれを思い出すと心がほのかに痛む。
ダサい大人だと思われたんだろうな。……間違っては、いないか。
「……わかったよ。もう言わない」
「ん」
アザレアは満足げに微笑むと、制服のスカートを指でピンと弾いた。くると身を
「わかったらよろしい。じゃあ、おやすみ」
僕は、彼女に答えようとする。
◆◆◆◆
――事態の発生は、建物が突き上げられるような轟音を伴っていた。
「――っ!?」
あるいは、僕たちはその瞬間にようやく、事態がとっくに発生していたことを知ったと言うべきかも知れない。
アザレアは即座に反応した。
ほとんど殴りつけるような勢いで、彼女は僕に銀色のリングを投げつける。
「急いで!」
それと同時に、セーラー服の少女は眼の前から忽然と消え去った。
「ちょっ……と!何だよこれ」
胸に当たる
既に誰もいない世界ではなくなってしまった、僕のオアシス。
頭の中に、あるいはそこの空間全体に、音が響く。
『――アザレア!』
それは少女の声を持つ警報だった。白黒の世界で僕たちに語りかける、メルトと呼ばれる監視システム。警報は悲鳴の色彩をしている。
「メルト、何が起きてるの!?」
『敵です。既に――侵入されています』
「えっ……!」
アザレアの顔に浮かんでいた焦りが、その色合いを増す。
内部にトレーニングスペースがあるこの「実験棟」は、深さだけでなく、建物自体もそれなりの大きさを持っているらしい。
断続的に鳴る轟音は、発生源は近くはないものの、確かに同じ建物の中で響いているように感じられる。
ふと見ると、通路の向こうから水仙が駆け寄ってくる。
「アザレア! 夜介様!……無事でしたか」
深夜であるというのに、この初老の男は余所行きの服装を崩していない。
そもそもアザレアや水仙が僕と同じようにここに滞在しているのかどうか、というところからよく知らないのだが。
もし僕だけがここに留まる予定であったのなら、これほど容易に狙われる場所にひとり置いていくつもりだった……ということになる。
そうだとすれば、保護するためと説明しながらまったく守る気のない配置をしていたわけで、ちょっと苛立ちを覚えてしまう。
アザレアは、水仙と合流してやや安堵しているように見えた。
僕は、その横顔に尋ねる。
「アザレアさん。この大学が君たちの拠点だ、って言ってたよね」
「……そうね」
「こんな簡単に攻め込まれる拠点ってある?」
「う……それは、だって」
「身を守るどころか、即日襲撃されてるじゃないか」
「――うるさい! だってここが狙われるなんて、は、初めてで……!」
落ち着きを取り戻したかに見えたが、よく見るとまだ少女の身体は震えている。黒髪の下に半分隠れた勝ち気な瞳は、混乱に彩られていた。
僕は、こんな女の子に自身の焦りをぶつけてしまったことを後悔する。日中は彼女から技術を教わる側だったために、自制が緩んでしまっていた。
「――ごめん」
込められた感情は、おそらく余裕のないアザレアに届いてはいない。
敵。
監視システムであるメルトは、確かにそう言った。
彼らにとっての敵、すなわち【並行世界統治連合】。もはや、その危機を他人事として受け止めることは出来ない。僕自身もグレースーツの男に狙われて、ここにいる水仙に助けられた。あれが遠い昔のように思えてくる。
「……」
僕は、つい先程覚えたばかりの力を使ってみる。
右掌をゆるく握り、白い光を纏わせる。【アップ】による強化、敵を突く矛。
左手を上に向け、黒い小さな板を出現させる。【ダウン】による弱化、敵を防ぐ盾。
右手と左手、白い矛で黒い盾を突いてみたい衝動に駆られたが、無駄なことをしている場合ではないと思いとどまった。
眼を向けると、水仙とアザレアが僕の「無駄なこと」を観察していた。
興味深そうに眼を細める老紳士と、眉をしかめる女の子。
「同時に別系列のフレーバーというのは、やはり不思議な光景ですね。すべての種類を使える六郷の血統ならではでしょうか」
「ちょっと……ナニ遊んでるのよ」
「いや……ただ、」
……ただなくなっているだけから一歩進んだばかりの僕が、果たして何かできるのだろうか。
水仙が難なくグレースーツの男を殴り飛ばしたように、僕自身の力で敵を打ち倒すビジョンが浮かばない。それどころか、こんな付け焼き刃では自分の身すら守れるかどうか、危うい。
「僕はどうすればいいのか、わからなくて」
「我々が対処するので、問題ありません……と、言いたいところですが。メルト、状況を」
『はい』
水仙が呼びかけると、監視システムの少女はそれに応じた。
用意しておいた原稿を読み上げるアナウンサのように、少女の声が情報を伝える。
『施設内に侵入しているのは、【アップ】系が 2、【ダウン】系が 1。さらにひとり、新しく【アップ】系が向かってきています』
「系?」僕は疑問を口にする。
「系列は判別できても、フレーバー世代は能力の発現から推測するしかないのです」
……なるほど。
メルトは淡々と報告を続けている。
『施設内、上部の階層で仲間が応戦中。人数には倍以上の有利があり、被害は現在のところ最小限です』
「ありがとう」
「何よ。今頃になって本拠地に攻めてきたからどれだけの規模かと思ったら、大したことないじゃない」
「目的はここを武力で制圧することではないのでしょう。三人目の【アップ】系が来ているということは、戦闘が単なる陽動の可能性もあります」
制圧が目的ではなく……たとえば、何かを探している?
ここまで見てきた限り、大学構内に存在するこの施設に、なにか特別な防衛策が講じられているようには見えなかった。
キャンパスには多数の学生が歩き回っている。何なら学生ですらない、水仙やアザレアのような人間も違和感なく溶け込めてしまうのが大学という環境だ。
要は、ここに【ハイゼンベルク】の拠点があるという事実を知ってるか知らないか、の問題でしかないのだろうか。
僕がその考えを漏らすと、水仙はやんわりと否定する。
「場所なら、ずっと前から知られていますよ」
「え?」
「我々の組織から連合側に寝返った人間がいるのです。もう 5,6 年も前でしょうか」
「……ちょっと待ってよ。じゃあ、今までも安全じゃなかったってこと!?」
非難するようにアザレアが水仙に詰め寄る。どうやら彼女も知らない話であったらしい。
彼女がそうしなければ、僕が代わりに不平を漏らしていただろう。
「一度でも、私がここを安全などと言いましたか?」
彼の言葉は変わらず揺るがず落ち着き払っている。
――詭弁だ。悪びれない彼に、僕は眉をひそめる。似たようなことは言ってたじゃないか。
アザレアも同じ感情を抱いたのか、やはり水仙を睨みつけている。
とはいえ、この老紳士に文句を言っても状況は変わらない。
昨日まで安全であったからと言って、今日も安全であるとは限らないのだ。
水仙は少し間をおいたあと、遠く響く戦闘の音の方向に眼を向けながら口を開く。
「昨日までは存在せず、今日から組織に加わった要素といえば、わかるでしょう」
それは。
「……僕、ですか」
首肯。
僕のせい? しかし、それは……
「で、でも、もとはと言えば」
僕の弱い反論は、メルトの声によって遮られる。
『三人目の【アップ】系が施設内に入り、
機械的な、あるいは必死に機械であり続けようとするその少女の声に、明らかな動揺が混ざる。
『――ユリ!』
ユリ?
僕は新しい名前の登場を訝しむだけだが、アザレアはそれに息を呑んだ。
「お姉、ちゃん……?」
アザレアの瞳には、歓喜と悲壮さと混乱とがないまぜになった、表現しがたい色が映っている。
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