ゆっくりと生きていたことを忘れてゆく
最初、僕はそれを人形だと思った。
馬鹿げた速度で右手の壁を破壊しながら飛来してきたその物体は、僕の眼前数十センチを通り過ぎ、左の壁にぶつかって止まる。
その勢いがどれほどであったのかは、その物体が叩きつけられた壁にしばらく張り付いたあと、ぱらぱらと散るコンクリート片を追いかけるようにゆっくりと床に落ちたことからも計り知ることができる。
物体は床に落ち、ぴくりとも動かない。それは、身体をボロ雑巾のようにずたずたにされたアザレアだった。全身は血に彩られ、白黒の世界で黒く濡れそぼっている。片腕は欠けており、その失われた腕はおまけのように彼女の身体の隣にべしゃりと落ちて来た。さらには片足も奇妙に捻じくれ、とても生きているとは思えない状態だった。
しかし僕は彼女に駆け寄ることも、それどころか安否を気遣うこともできなかった。
僕の両の瞳は、右手の破壊された壁を越えて、こちらに歩いてくる人間に釘付けになっていたからだ。
――ゆっくりと。
破壊された壁の向こう側から、その破壊を成した人影が現れる。
その人間は、ぱたぱたと身体に落ちてくるコンクリート片を払い、ロングスカートを軽く持ち上げながら瓦礫を越え、開けた廊下に出る。
僕は白痴のように棒立ちしたまま、スローモーションのようなその光景を見ていた。
目が、合う。
六郷夜介はその人間を知っている。
「六郷さん、なんかおもしろい顔してますね」
「――花さん?」
ユリ――
◆◆◆◆◆
「何時間ぶりですかねぇ、六郷さん」
花さんこと【並行世界統治連合】のエージェントであるユリは、穏やかに僕に語りかける。
白のロングスカートにピンクのニットを合わせたその服装は、紛れもなく、僕と今朝からスタバで仕事をしていた「女子大生」感のある姿そのものだ。その控えめでありながら華やいだ色合いは、白黒の世界の中においてよりいっそう僕の目を惹きつけた。
僕の脳機能は、とうに情報整理というタスクを放棄していた。
「どうでしたか? フレーバー、使えるようになりました?」
僕はなにかに操られているような気分で、こくりと頷く。
その口調は、注文したそっちのラテは美味しいの? と聞くような普通の響き。
甘党の彼女は、いつもコンビニやカフェの新作スイーツを目ざとく見つける。「残業、耐えられなくて……」とそれを買ってオフィスに持ち込んだり、僕を連れ出して食べに行くこともある。今朝のスタバでも、ごてごてとトッピングを付けた甘そうなラテを飲んでいた。
「そうですかぁ。さすが六郷の血、ってやつですね。普通、そうは行きませんよ」
花さんは、コツ、コツ、と靴音を高い天井に響かせながら、アザレアの身体に近寄る。
「ねぇ六郷さん。普通って何なんでしょうね」
――何を。
僕の口はそれに反応できず、身体も動かなかった。何かに貼り付けられたように機能を忘れ去っていた。驚きで身体が固まるなんて、フィクションだけの話だと思っていた。昆虫標本にされる虫はこんな気分なんだろうと考える。身体が動かなくなる樹脂を注ぎ込まれて、ゆっくりと生きていたことを忘れてゆくのだ。
答えられない僕にかまわず、花さんはアザレアの身体のとなりにしゃがみ、その沈黙を続ける頭蓋をさらさらと撫でる。美しかった黒髪は血と土に汚れ、見る影もない。
「この子に言われたんです。お姉ちゃんはどうして普通でいられないの、って」
「……」
「六郷さん、わたしにどうして仕事が速いのか、って聞いたの、覚えてます?」
覚えている。遠い昔のことのように思えるが、今日の出来事だ。
スタバから駅までの帰り道、信号はふたつある。信号の合間に僕たちはその会話をした。
「わたしはやることをやるだけの人間、そう言いました。生きているだけ。生きて、やるべきことをやっているだけなんです」
「――いつから?」
主語のない疑問。それでも花さんは、ちゃんと聞き届けてくれる。
「最初からですよ、六郷さん。わたしはもともと、こちらが本職です」
「……」
「日本に戻ってきて、六郷さんの会社に就職して。プログラミングを覚えるのは、ちょっと面白かったですね」
覚えたばかりのプログラミングで、彼女は会社のエースとして君臨したのである。それはユリの人生にとって特筆するべき点などなにもない、いつもどおりの卓越であった。
「もちろん六郷さんのことは、わたしが【ハイゼンベルク】に居たときから捕捉していました」
六郷家の唯一の生き残りであり、そしてそれにも関わらず、フレーバーを使えないまま生きてきた人間。本来、六郷の本家の人間は、個人差はあれど思春期の頃にはその能力を発現していることがほとんどだ。六郷の【神隠し】が子供にだけ起こるのも、力の制御が可能となる前に平行世界への移動機能が暴走してしまった結果である。そうして力をコントロールできない血筋は、六郷の分家として隔離される。
20 歳を越えてまったく何の力も見られない六郷夜介は明らかに
「何かあるだろうと信じました。いくら何でも、
果たして、夜介は歪な形でその能力を発現するようになる。誰ひとり存在しない世界へ、存在しない意識だけで入り込む。まるで誰かによって無くされているように。
ユリは、同僚として潜り込むことで、六郷夜介のことを近くで監視していた。あまりに夜介の力の使い方が乱雑に過ぎたため、これは力を発現してそのままわけもわからず使っているのではないかと、ユリは疑った。
「あんまり遠慮なくフレーバーを使うものだから、ヒヤヒヤしましたよ。コンビニで、
ユリは、六郷の家の記憶を聞き出そうとした。ところが夜介は家のことをろくに覚えておらず、十四年前の「火事」を生き延びたのも、彼自身の力によるものではないことを自覚していなかった。
そこで、力押しが可能だろうと判断する。失敗する可能性を考慮してユリ自身は姿を表さず、周囲に待機させていたグレースーツの男に実働を一任する。グレースーツが電話で報告を行っていた相手こそが、他ならぬ百合埼花であった。
- 「発見した。こちらも転移したが……姿が見えない」
- 「お疲れ様。どうだった? 転移したあと【ボトム】を使ってる?」
- 「いや、違う。それはない。最初から身体が構成されていないパターンに見える」
- 「ふぅん……意識して消えてるわけじゃないのかもね」
- 「そうだ、可能性はある。フレーバーの現れ方はリングよりも個人差が大きいが……」
- 「リングと言えば、やっぱり生身?」
- 「そう、ATPI も無しだ。そこは聞いていた通りだった」
- 「捕まえられそう?」
- 「おそらく追跡は難しい。気取られた可能性もある」
- 「六郷さんの性格からして、案外近くで息を潜めてそうだけど……視認できないのは厄介ね」
- 「十年以上前の残りに、どれほどの意味があるかと思ったが――腐っても六郷か」
ユリは優しい手付きで撫でていたアザレアの髪をぺっと打ち捨てたかと思うと、パンパンと膝をはたきながら、立ち上がる。
地に伏せたセーラー服の少女の身体は、やはり微動だにしない。
「フレーバー、使えるようになったんですよね。残念。かくれんぼしか出来ない状態で捕らえられると、ベストだったんですけど」
その手から、光球群をぞろりと生み出した。
「一番シンプルな方法で、やるだけやってみましょうか」
天才は、静かに破壊の意志を剥き出しにする。
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