ヴェルナー・ハイゼンベルク

ヴェルナー・ハイゼンベルク。20 世紀初頭に活躍したドイツの物理学者で、その成果としては「ハイゼンベルクの不確定性原理」が最も有名だろう。物理学を嗜むものであれば、ハイゼンベルクを知らぬものはない……とは、言い過ぎだろうか。


「連合が我々を【ハイゼンベルク】と呼ぶ理由は、十四年前に発表された一報の研究論文です」


十四年前、十四歳。いつの間にか僕は、あの頃までの人生の二倍をも生きている。


「我々は匿名で、とある理論を公開しました。その際に……夜介様、おそらくあなたもご存知でしょう。さる著名な物理学者から名前を拝借したのです」


――


六郷の家が焼け落ちた日。あの日に父親と交わした会話の記憶が、雪崩のように蘇って来る。


僕の鼓動は小ネズミのごとく加速して、思考を妨げるほどにやかましい。


父親が手にしていた紙の束。ハイゼンベルク。あの日、六郷の家が、僕の家族のすべてが炎の中に消えたのはハイゼンベルクこいつらのせい、なのか? 眼の前の老紳士が、世界の何処かから響くメルトと名乗る少女の声が、六郷のかたきであるのか?


彼らがそれを自覚しているのであれば、だとすれば、何のために僕に接触したのか。それも、あれほど派手に危機から助けた後に。派手に、わざとらしく。それとも、あれは本当の危機ではなかった? いまここにある空間が、僕にとって危機ではない保証があるのか?


ぐるぐると巡る思考は着地点を見失ったまま虚空を漂う。はやる気持ちをおさえ、僕は水仙の語る言葉に耳を傾けている。僕の思考を知ってか知らずか、水仙の言葉は穏やかである。その口が語る「彼ら」の対立は、次のようなものだった。



◆◆◆◆◆



ハイゼンベルク――偉大な物理学者の名で呼ばれるその組織は、彼ら自身は「我々」と名乗るのみであって、自己を規定する名を持っていない。それは世界を「あちらとこちら」の区別だけで認識するという、ごく原始的な思考を基礎としていることに起因するのかも知れなかった。彼らの目的は「並行世界リバースを敵の手から保護すること」である。


並行世界統治連合――ハイゼンベルクにとってのあちらであり、ほとんどの場合は単に「連合」と称する。ハイゼンベルクを『ハイゼンベルク』と名付け、そのように呼び始めたのも、連合である。その名の通り並行世界の統治を担う、人類の最高意思決定機関として成立したもの……あるいは、成立せざるを得なかった組織である。水仙の語るところによると、連合の目的は「並行世界リバースの支配」であるという。


両組織に共通することは二点あった。一般的には組織の存在が知られていないことと、これも一般に知られていない【ATPI】と呼ばれる技術を持つことである。著者名を「ハイゼンベルク」とする十四年前の論文は、ATPI の理論を詳細に、それも実用可能なレベルで解き明かすものであった。



僕はその言葉に聞き覚えがあった。少なくともいまの時点で彼らが僕に危害を加えるつもりではないことを祈りながら、事実の理解に思考を集中させると腹をくくり、水仙の説明に言葉を挟む。


「エイティーピーアイ……。あのスーツの男が僕を追って裏側……この白黒の世界に来た時、確かその単語を使っていました。ATPI も無しに、と」


水仙は頷く。


「ええ。今あなたが腕につけている銀のリング、それが ATPI です。通常、並行世界リバースに入るためには ATPI の助けを必要とします。それはあのスーツの男も、私も、例外ではありません」


そう言って水仙が掲げて見せた杖の持ち手には、握りこぶしほどの銀のリングが揺れている。必ずしも、ブレスレットのように腕につける必要はないらしい。


「ATPI は原理・プロトコル・実装を指す言葉として使われる可能性がありますが、わかりやすいのは手に取れる物理的なその装置でしょう」

「でも、僕はこれまで、僕の意志だけで並行世界こちらに来れていましたよ。リングを付けるまで、身体に実体はなかったですが」

「通常、と言ったでしょう。あなたは異常です」

「い、異常……」

「特別、と表現した方が良いかも知れませんね」


悪びれずに言い直してにこりと笑う。僕はどう反応すべきか迷った挙げ句、苦笑するに留めた。わずかに緊張がほぐれる。

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