Artificial Tipping Point Invoker

Artificial Tipping Point Invoker――人工転換点起動装置。ATPI の正式名称である。


という、まともな人間が聞いたならば物笑いの対象としかならないであろう空想。それは、ATPI によって現実のものとなった。


しかし未来をつくるものたちは、時に、現実へと落とし込むべく真剣に空想に取り組んでいることがある。


実際のところ並行世界への干渉・侵入というテーマに関しても、ATPI の基礎となる論文が公になる以前から、実用化に向けて長年実験が進められていた重要技術であった。主体となったのはいくつかの大国である。彼らは水面下、密かにしかし激しく、技術を独占すべく火花を散らせる。。それは二十年、三十年にも渡って続いていた。


水仙はかつて、並行世界干渉技術の実用化を目指すチームの一員であった。彼は国防の旗印のもと、未開の技術を追い求めていたという。


「じゃあ、軍に?」

「ええ。非公開の部隊ではありましたが」


戦時下における技術競争が押し並べてそうであるように、それからもたらされるであろう利益の大きさゆえに、技術を実用レベルまで高めるとなることは極めて重要な意味を持っていた。


水仙とその競争相手の研究成果は、既に、並行世界の有するいくつかの特異な性質を明らかにしていた。



ひとつ、並行世界には人間が存在しない。


並行世界。そこでは自然も建物も何もかも、現実世界とまったく同じである。唯一の違いは、並行世界に入った人物以外に、まったく人間が存在しないことだ。人間以外の生物は存在しているものの、入り込んだ人間のことを認識していないように振る舞った(一部の動物は、おぼろげながら並行世界の人間の存在を感じ取っているような素振りを見せた)。並行世界に入り込んだ人間は、その間、現実世界からは忽然と消えている。その一方で、同時に並行世界に入り込んだ人間同士は、お互いの姿を視認することができた。すなわち並行世界の住人は、その時「ログイン」している者だけである、と表現することができるだろう。


ひとつ、現実世界と並行世界は相互に作用する。


並行世界は現実世界のコピーであると同時に、そこに与えた影響は現実世界にも反映される。無機物であれ有機物であれ、両世界は「同期」している。並行世界でドアを開くと、現実世界では誰もいないのにドアが開いたという結果だけが現れる。現実世界で誰かの落としたグラスが割れると、並行世界でもグラスは床に当たって割れているのであった。


すなわち、並行世界に侵入することで、誰にも邪魔されることなく現実世界に対して干渉を行うことが可能となる。ここで言う「干渉」は、特定の相手に人知れず危害を加えたり痕跡を残さずに物を盗み出す、というような小さな悪意から、国家間のパワーバランスを崩すであろう大規模な破壊やテロ行為にまでその可能性を広げていた。


これらの特性が明らかになった時点で、並行世界研究はある種の「学者の道楽」から「国力を上げて実現を目指すべき重要技術」に変化した。率直に表現するならば、ATPI が破壊の運び手、兵器として研究が進められていたことを意味する。


「人知れず世界に影響を及ぼす力を、人類が武力として追い求めないはずがありません」


どこか皮肉るように、諦めたように、それでいて人類という単語への愛着を感じるような声色で呟く。


「そこまでわかっても、人間自身が並行世界へ立ち入る方法はなかった。理論がいくら進んでも、実用化までに高いハードルがあったのです。豊かな実りが約束されたその新天地に、実際に足を踏み入れた人間は誰一人として存在しなかった」

「……」

「軍が進めていた並行世界に関する実験は、行き詰まっておりました。それを突破する鍵となったのが、あなたもよく知るある男です」

「……それが」

比良坂ひらさかさとし。あなたがと呼んでいた、白衣の青年です」


僕は、懐かしい響きを口にする。その言葉を舌に転がすと、苦い喪失と憎しみが心に踊った。


「あれは紛れもなく天才でした。イレギュラーと言ってもいい」


往々にして、断絶した未来への跳躍は、イレギュラーによってのみ成し遂げられる。


「彼はある時、六郷の血筋にまつわる【神隠し】を知りました。そしてその特性を調べるうちに、六郷の【神隠し】による消失が、理論上は並行世界への移動とよく似ていることを見出したのです」


。僕の中に沈んでいる子供の頃の記憶が、ごぽりと音を立てる。


「じゃあ、それで先生は……六郷の【神隠し】を研究しに来ていたと?」

「ええ。ごく限られた血筋でのみ起きていた怪現象を物理学の最新研究に結びつけること自体、ナンセンスとは言わないまでも、行き止まりになる可能性の高い論理でしたが」


それでも、私は彼の道が正しいと直感しました。水仙はいくらか誇らしげに、そう付け加える。


「だから私は軍を離れ、彼の手助けをすることにしたのです。彼が、サトシ・ヒラサカが、ATPI の理論を確立するための手助けを」


並行世界干渉技術は、国家間のパワーバランスを書き換える可能性を持つトップシークレットであった。


それを考える時、むしろ、理論が論文という形で自体が不自然であるとも言える。ハイゼンベルクの公開した論文がなければ、どこか最初の一国が実用化に辿り着いた段階で、他国を排除して絶対的な地位を築いていたであろう。


「どうして……は、成果を独占しなかったのですか?」

「それがまさに、我々の目的と関連してくるところです」


彼ら――ハイゼンベルク――の、目的。並行世界リバースを、連合の侵略から保護すること。


「我々は、技術が自由であることを望みます。広く利用可能で、誰でも利益を享受することができて、どこからでも未来に進むことができる。と」


ゆえに先生――サトシ・ヒラサカは、全世界に先んじて ATPI の理論を公開した。

誰かひとりが独占するくらいならば、最も優れた情報をあらゆる場所に広めることで、情報格差をリセットする。それが彼らの選択であった。


その情報公開は関係者の誰一人として予期していない、言ってしまえばある種の奇襲攻撃であった。技術の独占を狙う各国に対する攻撃であると同時に、情報の均衡状態を作り出すことによって、結果的に持たざる者に対する防衛としても機能した。


ATPI 実用化の一歩手前まで到達していた各国は、論文に記された理論がどの国よりも先に進んでいることを認めざるを得なかった。並行世界へ安定して人間を送り込むという、誰もが躍起になって目指していた、パズルの最後のピース。それは、ハイゼンベルク論文の理論を愚直に実装するだけで、あっけなく現実化したという。


「国のパワーバランスを壊す情報を勝手に流した、ってことですか。そりゃ恨まれるわけですね」

「だからこそ、先ほどのような襲撃に対処する必要があるのですよ」


。僕はグレースーツの無機質な顔と、その手から伸びる白い紐を思い返す。【連合】と呼ばれる組織。


匿名の情報公開によって強制的に先駆者争いから転がり落とされた各国は、消極的戦略として、苦虫を噛み潰したような顔で手を取り合うことになる。――これがすなわち、主要大国の連名で、それでも世間からは隠された形で『並行世界統治連合』が設立された背景である。

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