生命とはエントロピー増大則への反逆である

ユリから見て比良坂は、既に世界における役割を終えていた。


比良坂は六郷の力をフレーバーと名付け、六種に分類した。アップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトム。それはもともとは素粒子物理学の用語で、クォークと呼ばれる素粒子の分類名から取られたものである。


比良坂は、あくまで六郷の力という【現象】を【分類】し、そして【模倣】したに過ぎない。そこで彼の魂の使命は、きっと終わってしまっていたのだ。あるいは、限りある人生のボーナスタイムが時間切れになったのだろう。


だからユリは、六郷の持つ力、フレーバー作用原理の解明を目指した。まだできること、わかっていないことが山ほどあるはずだった。ヒラサカ研に属している数年の間、ユリはフレーバーの研究に時間を費やした。

六郷の血筋が持つ力。その原理を解明せんとする試みは、ユリの知識欲を満足させてくれた。おもしろいことに対する彼女の飽くなき渇望は、しっとりと潤いで満たされたかに思えた。


ところがユリは次第に、比良坂の思想に反発を覚えるようになる。


比良坂は口癖のように「技術は広まろうとする」と語る。

その意見自体にはわたしも賛成だ。間違いなく技術は、人類にとって有用な技術は、ひとたびキャズムを超えたが最後、爆発的に世界を席巻する。そして人間たちの認識を変えるだろう。


でも、技術が広がるかどうかと、いまの人類がその技術を使いこなせるかどうかは別問題だ。

現在の ATPI は、現実世界で使う技術としては大いに課題があると、ユリは考えていた。


広まろうとする技術の意志に応え、それを後押しする? それはつまり、自然の流れに屈するということだ。腐る食物を指をくわえて眺めていた猿のやることだ。



わたしたちは生きているだけで、熱力学第二法則への反逆者だ。恒星から降り注ぐ光を食物連鎖の果てにエネルギーとして利用して、拡散しようとする分子を押し留め、崩壊に向かう身体を必死に繋ぎ止めている。


そのの原則は、人間が技術に向き合う際にも適用されるべきなのだ。


技術がその自然な性質として広まろうとするのであれば、人間という生命は、その流れに逆らうべきだろう。

食物が腐るのであれば、塩や冷蔵装置を活用して保存する。病で失われる命があれば、時に身体を切り裂き、時に化合物を添加して、死という自然の摂理に逆らってきたのが人間だ。


あらゆる自然の流れに対して疑いを持ち、従うかどうかを検討するのが、人間のあるべき姿である。


ユリはそう考える。


「原理がわからない以上、リスクを見積もることが出来ません」

「リスク? 動けばいいだろそんなもんDone is better than perfect

「現在の ATPI には暴走の可能性や、副作用があるかも知れないじゃないですか。事実、六郷の子供達は【神隠し】に合ってこの世界に戻れなくなっているんですよ」

「ユリ、お前は保守的なクソか?」

「――っ!」


という言葉は、わたしをひどく不機嫌にさせた。見たもの聞いたものを理解して、誰よりも先に行き、誰よりも新しくあろうと生きてきたわたしを。そういう生き方しか選べなかったわたしを、言うに事欠いてと呼ぶな、と。

あるいはその怒りの根源は、わたし自身が目的らしい目的を持たず、やることをやるだけの人間に過ぎないという、内面のコンプレックスを刺激されたことかも知れなかった。


ふたりの天才の間に浮かび上がるもうひとつの断絶は、人間へのスタンスであった。


ユリにも妹がいる。ユリのを決して満たしてくれない、可愛い、つまらない妹。

それでも、他人にこだわる人間は必ず弱くなる。それがユリの持論であった。


比良坂は口は悪いが、根本的に他人を信頼する気質を持つ。比良坂は人類をあまりに信用し過ぎていた。力を与えれば、それをいつかは使いこなすであろうと盲目的に信じていた。



比良坂は、彼ら自身の理想を追求するためのすら作り上げていた。試作中の ATPI を利用して並行世界リバースに入り、その人類のフロンティアを破壊から必要があった。

なぜならば、彼の理想、すなわち ATPI 技術の拡散を妨げる敵が存在したためである。


その敵の名は【並行世界統治連合】。


比良坂たちに言わせれば、連合の目的は「並行世界の支配」だとされている。

組織の誰もが、その説明に疑問を抱いていなかった。しかしユリは、いちを聞いてじゅうを知る。

ユリは、連合の真の目的は「技術の標準化」ではないかと考えたのである。


比良坂たちは、六郷というブラックボックスを模倣しただけの技術を組織の人間に使わせて、技術の標準化を目指す連合に抵抗している。連合は何らかの力で情報が公開されることを抑えているが、比良坂たちはその情報統制を打ち破ろうと躍起になっている。そのような構図がユリの脳裏に浮かんだ。


比良坂には既に、基本原理を【ハイゼンベルク】の名で論文として公開したという"前科"がある。あとから経緯を聞いたユリはそれを拙速であると感じた。

中学生の頃に誰もが抱く、愚かな理想主義のようにすら見えた。


速さは必ずしも正義ではない。

公平は必ずしも正当ではない。

見えるものは、必ずしも正解ではない。


いま眼の前に広がる道に飛び込むだけでは、いつかおもしろくなくなる。

ユリはそのことをよく理解していた。



◆◆◆◆◆



時刻は深夜1時を回っている。春から夏に変化しつつある季節であるが、今夜はすこし肌寒い。


比良坂研からの出向という形で海外の研究施設へ招聘されたユリは、その移動に先立って、これまでの研究成果の総まとめと整理に追われていた。


その日、ユリは研究室の戸締まりをしていた。ふと手元を見たユリは、文字盤もディスプレイも持たない、銀色のつるりとした輪っかが置いてあることに気が付く。


「……?」


ATPI の新しいバージョンだろう。比良坂がプロトタイプを作成して、そのまま放置していたものらしかった。


ユリはそれをポケットに仕舞うと、研究室を後にした。帰路、ATPI を腕につけて並行世界リバースに入る。研究の過程で何度も繰り返してきた、慣れ親しんだ動作だ。


誰もいない白黒の世界はとても静かである。


「……おもしろくないね、比良坂さん」


ユリの声だけが、白黒の世界に遠くこだました。


手のひらを上に向けて、そこに白い球状の光を浮かばせる。実験を行う過程でユリが適性を示した、【チャーム】のフレーバーによるものだ。


可視光波長。わずかな発熱。思念による操作。それによって、もたらされる破壊。


わたしに理解できるのは目に見える現象だけで、原理の解明には未だ至らない。既存の物理学体系から外れたその現象は、なぜか、人間によってコントロールが可能な形で存在する。


並行世界リバース

人間だけがいない世界。

人間の意志によってコントロール可能な、原理不明のフレーバー

白黒の、すなわち、世界。


あまりに人間原理的である。


まるで既存の世界を外形情報だけコピーして、それをテンプレートに無理やり別世界の体裁を整えたように思える。


ユリは夢想する。


「並行世界」という言葉から想像する、ずっと存在していた隣り合う世界を人間がした、というストーリー。それは虚構に過ぎないのではないか。この並行世界の成り立ちは、わたしたちの住む現実世界と、根本から異なるのではないか。

あまりに人間中心に過ぎる白黒の世界は、生まれたのか。


(そして――創造したのか)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る