炎に沈む六郷の屋敷を

ゆかりに付きまとう【呪い】の恐怖を取り払うために、俺は生命のすべてをした。


俺が自身に課したタイムリミットは四年。もちろんそれまでにゆかりの身に【神隠し】が起こる可能性はあるのだから、早ければ早いほど良い。


幸いにして、ゆかりが隼人のように消え去ってしまうことはなかった。隼人によると六郷の【呪い】は、第二次性徴を過ぎ成人に近付いてもなおフレーバーを扱うことが出来ない少年少女に降りかかるものだという。ATPI を使って人工的に【並行世界】への干渉を繰り返すことで、ゆかりの【呪い】は解けてくれたのだろうか?……わからない。消失の兆候は何も見えなかったが、そもそも前触れもなく起こるのが六郷の【神隠し】であるから、平穏な日々は、何一つ俺たちに決定的な安心をもたらしてはくれなかった。


俺とゆかりは真の【呪い】の解除に尽力する一方で、山田とそのバックにいる「軍」の支援を受けながら、並行世界へのアクセスを実現する ATPI の汎用化を模索した。奴らからの支援がなければ【呪い】の研究に取り組むための十分な資金が得られない。背に腹は代えられぬ選択であり、妥協であった。



そして――四年が経過した。



四年間、俺が懸念した六郷からの追手はなかった。六郷夜介はもとより、それ以外の何物も俺たちに接触することはなかった。俺たちの仮初の平穏を乱すことはなかった。山田の情報網によると、六郷家において、ゆかりは死んだものとして処理されたという。当のゆかりは、いない人になっちゃったねと呑気に笑っていた。


その間のゆかりは、俺の実験材料であると同時によき理解者であり、協力者であり、そして――俺自身どうしてそうなったのか説明が困難なところではあるのだが――俺の妻となった。二人の間の関係が変化しても、ゆかりは俺のことをセンセイと呼ぶことをやめなかった。


「だって、あなたとかサトシさんとか、恥ずかしいじゃないですか」

「……勝手にしろ」

「先生は、ずっとあたしの先生です」


ゆかりが二十歳を迎える頃、ゆかりは俺との間に女の子を身籠り、出産した。後から思い返せば、それが俺たちを取り巻く事態を大きく動かす引き金となった。


それまで俺は ATPI のプロトタイプを構築するにあたり、夜介の脳波をメインに据えていた。しかし、俺は当然予測すべきだったのだ。ゆかりと夜介、二人の間を繋ぐ血よりも、ゆかりと娘を繋ぐ血は非常に濃いものとなる。その共鳴は最も濃いものとなった。俺たちの娘は、ほんの乳飲み子である時から既に、母親ゆかりの認識する世界をそのまま認識することができた。娘の認知は、母親という世界を受信するセンサーとして働いた。それはすべての子供が本能的に持っている力だったのかも知れない。子供は生まれたその時から、母親の感情の機微や思考を、非言語のメッセージで受け取っている。ゆかりから六郷の血を引き継ぐ娘は、異質な【並行世界】という媒体を通じてとても多くの情報をゆかりから受け取っていた。


ゆかりと娘のデータを解析することで、俺は ATPI の汎用化を完了した。ひとたび動作が確立すれば、俺にとってそれを逆算して理論へと落とし込むことは容易だった。どんなクソでも最低限の前提知識さえあれば、愚直に記載に従うだけで ATPI を作成できるように論文をまとめ、末端の学術誌に投稿した。世間の注目を惹くものではないが、準備ができている者は、必ずその情報を見つけ出すに違いない。


著者名を【ハイゼンベルク】としたのは、六郷家に対する挑発であり、同時に挑戦の意志を込めていた。


六郷の【完結】が何であれ、それは奴らの唯一性ユニークネスが前提となっていると俺は仮定した。六郷宗弦がゆかりの神隠しを防止する研究に同意したのは、誰でもフレーバーを制御できるようにする、というゴールを仮定していたからだ。


だから世界の誰もが ATPI を利用して並行世界に干渉可能になれば、六郷の企みを阻害することになるだろう。すなわち、並行世界へアクセスする技術が万人のものとなった以上、六郷家はとなる。あの夏、突如立ち去るよう通告された件の意趣返しというわけだ。


俺は、これで六郷家――六郷宗弦が諦めると踏んだ。隼人の恐れた六郷の【完結】を、これで阻止することができたという勝利の確信があった。だが結果から言えば、俺は俺の行動が世界にもたらす影響を過小評価していたらしい。



◆◆◆◆◆



――ゆかりと俺は、炎に沈む六郷の屋敷を呆然と見上げていた。


俺たちが到着したとき既に日はとっぷりと暮れていて、そして、俺が【研究】のためにあの夏を過ごした六郷の屋敷は炎の中にあった。ゆかりは娘を抱いて、俺は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、眼の前の崩壊をただ眺めることしかできなかった。


遅すぎた。


それは現代の魔女狩りであり、ATPI の汎用化によって表面化した争いの余波であった。


俺たちが【ハイゼンベルク】名義で発行した論文によって、各国は並行世界へのアクセス技術を獲得した。新大陸が発見された際の人類史に学べば、並行世界という広大なを前にした人類の行動は当然予測できたことであった。


六郷家の研究は確かに不要になった。他ならぬ俺が、連中を超えたからだ。俺は六郷家とだけ戦っているつもりだった。六郷家を出し抜くことさえできれば問題ないと、高をくくっていた。


だが――並行世界を狙う諸組織の六郷家に対する攻撃性は、俺の想像を超えていた。明らかに過剰に思えた。何故、焼き払う必要がある。歴史を持ち、記録があり、貴重なサンプルを多数有する血筋だろう。そう考える時点で、俺は所詮、として物事を見ていたに過ぎないのだと思い知らされる。


論文が公開されたあと、山田は姿を消していた。かつて山田は自身の所属を「軍」と称され、否定しなかった。俺も、今にして思えば極めて雑にそれを理解した。よくなかった。利害の対立があれば、止揚しようではなく破壊を選ぶ存在。資源が敵に渡るくらいであれば、焼き払ってしまうほうがいいと考える連中。そうしたとしての刃物を、俺は喉元に突き付けられるように感じた。


俺にとって、死人が死人になった経緯に興味はない。山田が直接手を下したかどうかも、どうでもいい。飄々としたあの男に問いただしたところであれこれと言葉で躱されるだけだろうし、正義の味方のようにかたき討ちをするつもりもさらさらない。


俺が興味があるのは、ゆかりと、生まれたばかりの娘の命を、どのようにして守ることができるかという一点のみだ。


だが、ゆかりにとってはそうではなかった。ゆかりはその目の届く限り――できるだけ多くを、救おうと考えていた。それが叶わなかった絶望に、ゆかりは膝を折って俯いた。そこでゆかりは、炎の中にいないはずの人間の名を呼ぶ。


「……お兄ちゃん」


六郷隼人。六郷ゆかりの兄であり、俺の、唯一の友人であった男を呼んだ。もちろん隼人が、いま家の中で焼け死んだというわけではない。その名はゆかりにとって喪失の代名詞となっていたからだ。


生まれ育った家を離れたゆかりは、また知らない間に誰かが居なくなってしまうことを恐れていた。六郷家での記憶は幸せなものばかりではなかっただろうが、それでも、ずっと戻りたかったに違いない。不安で、苦痛で、怖かったのだ。俺は、今の今までそれに気付いてやることができなかった。生まれた家から死んだ人間として扱われ、いない人になっちゃった、と笑うこいつの本心を汲むことができなかった。


――ゆかりは、誰かが手の届かない場所へと行ってしまうことを恐れていた。


幼い頃、年の離れた兄が遠い地で消えた。そのしらせがどのようにゆかりに伝えられたのかを、俺は知らない。少なくとも、帰ってくると思っていた存在が手の届かない場所で永遠に失われるという記憶は、ゆかりの心に決して落ちない鉄錆のような傷跡を残したのだろう。



と、俺は遠目に、あるものを視界に捉える。だ。縁側に続く廊下に一組の男女が倒れている。俺が死体だと判断したのは、その身体に負った傷と広がる血液の量から、生存は絶望的であるように思われたためだ。火の手は死体のすぐそこまで迫っていた。


俺の様子に気が付いたのか、ゆかりもその二人を遠目に見る。一瞬静止したかと思うと、濃い紫の眼は驚愕に見開かれた。俺はその様子に危ういものを感じて呼びかける。


「……ゆかり?あれは、もう……」


俺に応えることなく、ゆかりはふらふらと立ち上がった。そして魂が抜けたような緩やかな動作で、腕の中の娘を俺に渡す。俺がそいつを受け取ると、ゆかりは突如、燃え盛る屋敷に向かって走り出した。その速度は弾けるようで、両手に娘を抱いた俺の瞬発力では到底止めることができない。


「お、おい!」


ゆかりは火に向かって駆け、たちまちのうちに二人の身体のそばに到達する。俺はやや遅れてゆかりに並び、しゃがみこんで死体の顔を確認しているゆかりを見下ろした。ゆかりは震える声で呟く。


「お母さんと……」

「……父親か」


ゆかりの家系は六郷の分家にあたる。俺があの夏にこの家で出会った六郷の人間は、当主である六郷宗弦、本家の跡取りである夜介、そしてゆかりの三人だ。離れで暮らす分家の人間は、ゆかりを除いて顔も見たことがない。ここに倒れているゆかりの父親は、六郷宗弦の弟ということになる。俺は義父にあたる男との初対面を他殺体の発見という形で果たしたことに、わずかばかりの皮肉を感じて顔を歪めた。


それにしても……


(六郷宗弦……あの男も、やはり死んでいるのだろうか?)


六郷の「悲願」を完成させると語っていた、あの暗い瞳を持つ男も……純然たる武力の前には無力で、既にこの世を去っているのか。俺にはどうしてもそう思えなかった。あの男を、このような血と炎で止められるイメージがどうしても浮かばない。



ともあれ、燃え盛る家屋の側は危険だ。強い熱気が肌を打ち、体表の水分が奪われてゆく。娘を火の粉からかばいながら、俺は一歩二歩と後ろへ下がる。ゆかりはその場から動こうとしない。


声をかけようとしたその時、俺は屋敷の奥から流れ出してくるを見た。

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