その一片に至るまで

六郷ゆかりは聡明だった。


ゆかりは俺の説明を聞き、六郷の血という特殊性と、年の離れた兄である隼人の身の上に起こった出来事をすぐさま理解した。というよりも、六郷の家で生き、物心が付くに従ってゆかりの胸中にわだかまっていたものが、俺という外部因子をトリガーに確信へと結晶化したと言い換えてもよかった。


また、ゆかりは俺の実験に協力的であった。行動時、緊張時、安静時、就寝時、そして、何かを意識する瞬間。重いヘッドセットを被らされてあらゆるパターンの脳波を測定・記録されることについて不満を漏らしてはいたが、兄の消失に繋がる研究であること、そしてゆかり自身の【神隠し】を回避するという目的の前には小さなことだったらしい。そして何よりも、これまで己の生家を覆っていた未知というヴェールを取り払うことに積極的な姿勢を見せた。


あるいはそれは、ゆかりなりの反抗であるのかも知れなかった。己を生み育てた、家に対する反抗。


「じゃあ何か?お前は、何に協力するのか聞かされずにいたと」

「なんにも。ウチはいつも結果だけが知らされるからね」

「お前はそれでいいのか?」

「最初は嫌だったけど、先生と話してたら、いいかなって」


そう言ってゆかりは笑った。死んだ兄のことを蒸し返され、陰気な白衣と中年男にデータを取られる生活にいかなる楽しみを見出していたものか俺にはわからないが、とにかく彼女は笑顔を絶やさなかった。それもまた彼女の反抗であったのだろう。


ゆかりの協力によって、俺と山田の研究は順調に進んだ。俺がこれまで構築した【並行世界】理論に照らし合わせると、ゆかりの脳波長は並行世界そのものと極めて近いところに位置していた。異世界干渉という高い壁の突破も、すぐそこに迫っているように思われた。もうひと押し、もうひとつだけ、何かがあれば。



……もうひとり。



あの夏を想起するにあたって、もうひとりの六郷との出会いを語っておかねばならないだろう。その六郷家の人間は、年端もいかないガキだった。


ガキの名は、六郷夜介といった。


ある夜、食事を取りに廊下に出ると、そのガキがこちらを見上げている場面に出くわした。その眼に宿るのはわずかな恐怖と、それを覆い隠すほどの好奇心だった。年の頃は十歳そこらだろうか。家に居付いた見知らぬ男たちの顔を見てみたい一心で行動したはいいが、そのあとどうすればいいのか考えていなくて、完全にフリーズしている状態だった。


その時、俺の脳裏にひとつの案が浮かんだ。ついでだ。六郷ゆかりのデータだけでなく、他の人間を用いた比較コントロール実験も重要になる。六郷の血が流れているなら、こいつのデータも取って損はないだろう。

俺は子供にどのように話しかけるべきかを知らない。研究内容や調査の目的を語ったところで理解できるはずもない。だが、このガキがテレビゲームにかじりついているところを目にしたことがあった。だから、俺はストレートに誘うことにした。


「スマブラやるか?」

「やる」



◆◆◆◆◆



――さて、セレンディピティとはこういうことに違いない。


というのも、その時の気まぐれで収集したのガキ――六郷夜介のデータがなければ、その後の俺の成果は生まれ得なかったからだ。


六郷夜介は齢十歳にして、無意識ながら六郷の力――【香】を利用できていたらしい。あのガキ自身に自覚はなかっただろうが、ゲームに夢中になっている間、時折眼の前から消えてはまた現れるという現象を観測した。六郷夜介の側から見れば、俺が突然消えては現れたように見えていたことだろう。ヘッドセットを利用してその瞬間の六郷夜介の脳波データを収集したところ、幸運にも、それは俺たちの手持ちの機器でエミュレート可能だった。


俺は夜介の脳波をエミュレートする装置のプロトタイプを作成し、それを Artificial Tipping Point Invoker (ATPI) と名付けた。俺は夜介の脳波をメインに据え、六郷と六郷以外の人間とのギャップを埋めるための微調整に、ゆかりのデータを活用した。プロトタイプは緑の基盤を剥き出しにした一抱えほどの機器であった。


そいつを使うことで、夜介が無意識にやってみせたように、俺たちはごく限られた時間ながら並行世界へ入り込むことに成功した。六郷家の座敷は視界から消え失せ、目の前には、ただただ真っ黒な世界があった。

俺たちがアクセスした並行世界は、隼人が十年前に語ったとおり地獄のボトムのような、無だけが存在する世界であった。無が存在するという表現が論理的に矛盾するのであれば、と換言してもいいだろう。


(これが、最期に隼人の見た光景……)


俺は、光も視界も存在しない世界のなかを見渡そうとした。時間の止まったままのあいつが、あの時のまま、ふと湧いて出やしないかと期待してしまったのだ。しかしそこは完全なる誰もいない世界で――それ以外の何物でもなかった。


「やりましたね」


現実世界に戻ってきた俺を見て、山田は淡々とした口調の中に興奮を隠しきれない様子で同意を求めた。俺よりも昔から研究に携わっていただけに、喜びも大きいのだろう。俺たちはついに、長年理論だけの存在であった並行世界を手の届く場所へと引き摺り下ろしたのだ。


「とはいえアクセス可能なのは十秒程度だ。実用には程遠い」


俺は頭を振り、身体が身体自身の存在を思い出していく様子を感じ取りながら、冷静に事実を告げる。


その時点で、ゆかりもある程度研究の内容に踏み込んだ話ができるようになっていた。持ち前の好奇心で俺と山田の会話に割って入ってくる。


「でも先生、そのうち時間も伸ばせるんじゃないの? それか、十秒ずつチョコチョコ入る感じでも何かできそうじゃない? そしたら……」

「いや、根本的な問題がある。いまの並行世界は、無というカーネルが剥き出しの状態だ。俺たちは時限式の ATPI という命綱を付けて、ただ無の海を見下ろしている状態に過ぎない」

「……なんにもできない、ってこと?」

「たぶんな。カーネルとの間に外殻シェルを挟まないと、あちら側の世界に人間がすることは不可能だ」


そしてこれはゆかりの手前 明言を避けたことではあるが、そもそも、あの中で人間が生きられるのかどうか。俺はその圧倒的な無を自身の眼で捉えて、黒の中に呑まれてしまった隼人を探すという希望がいかに楽観的なものであったのかを悟った。


隼人が最後に見た光景。地獄のボトムのような真の黒。


俺が隼人から預かったスーファミは、今もこの六郷の屋敷の「研究室」に持ってきている。あれを返す約束を果たせないという可能性に、俺はわずかな戸惑いと胸の痛みを覚えた。


「――、ですか」

「え?」


山田の言葉にゆかりは聞き返すが、俺は、陳腐で詩的なわりに何の役にも立たないその例え話を無視した。舌打ちして作業に戻り、二人の会話を BGM に聞くともなく聞いている。


「創世記ですよ。はじめ神が世界を創造された時、地に形はなく、闇が淵のおもてにあったと言います」

「それが今のあっちの世界、ってこと?」

「ええ。神はそのあと、光あれ、と告げます。すると世界は光と闇に分けられたのです。神はそれを見て善しとされた。我々も、無の深淵に何らかの方法で光を投げかける必要があるのでしょう」


――神気取りのクソ野郎が。うぬぼれにも程がある。


「おい、俺は無神論者エイシエストだ。それ以上くだらんクソ聖書を引用するならこの場で自殺しろ」

「それは失礼。しかしこの場で死体がひとつ出来ても困るでしょう」

「ゆかりが片付ける」

「え、ちょっ……えぇ……?」


苦笑する山田と、突然の指名に混乱するゆかり。ふたりを横目に、俺の頭脳はひとつの可能性を見出していた。神のクソのような号令があったかどうかはともかく、並行世界の性質を光と闇に分ける、というアイディアは悪くないように思えたのだ。


(光と闇。白と黒。陽と陰。有と無。物理系は対象性を好む。ジェイムズ・クローニンらが示したようにこの宇宙では CP 対称性は破れているが、並行世界でいま見えているものが、対称性の一端だけだとすれば――)


そうして俺は、並行世界におけるあらゆるものの性質は大きく二系統、より小さく見れば総計六種類に分類可能であることを発見する。こうという力の呼び名に着想を得てフレーバーと呼ぶことにした。素粒子物理学におけるクォークの「フレーバー」は、ちょうど二系統六種に分けることが出来たからだ。


"光"の系統、アップ、チャーム、トップ。

"闇"の系統、ダウン、ストレンジ、ボトム。


分類と名付けは、より高度な思考の呼び水である。六郷の力と並行世界の性質をともにフレーバーとして解釈することで俺の脳はリミッターを外すことに成功したらしく、いくつもの成果を上げた。


たとえば、ひとりの人間はいずれかのフレーバーに適正を示すこと。俺は【ストレンジ】に、山田は【アップ】に適正を示した。

一方で、ゆかりはすべてのフレーバーに適正を示した。おそらくは六郷の血が為せる技であろう。その中でも向き不向きはあるらしく、ゆかりは【トップ】の性質を強く持つようであった。


これらの成果は、日々、山田を通じて六郷宗弦へと報告されていた。後で知ることになるが、俺が発見したと思っていた性質――たとえば「香」が六系統に分類されることなど――のほとんどは、六郷家の中で代々行われていた研究によって既に明らかになっていたものであったらしい。情報は一方通行であった。情報は俺たちから六郷家へと吸い上げられるが、六郷家から情報面で何らかの支援が行われることは決してなかった。


俺たちから得た情報とデータを見て、六郷宗弦が何を考えたのかはわからない。既に必要な情報が得られ用済みとなったためか、俺の活動が六郷家の障害とみなされるようになったのか。過程が知らされることはなく、決定だけが俺たちにもたらされた。



すなわち――「研究を切り上げて立ち去れ」と。



だから俺たちは、六郷家を立ち去ることにした。六郷宗弦にとって、研究材料ゆかりそのものを失ってしまうことは想定外であっただろう。ゆかりは、俺たちに同行することを望んだ。消えた兄の後ろ姿を遠くに捉えて、もうそれがたどり着けない距離であったとしても、途中で止まりたくないとゆかりは想った。その想いは切実なまでの強さを持っていた。俺たちは利害の一致する逃亡者として、六郷から身を隠しながら、六郷の呪いを解くために尽力した。それはどこか捻れていて、ただ一人の女のために行われる愚行であった。


なにより警戒すべきは、六郷夜介だった。


十歳にして【フレーバー】に目覚めかけているあのガキが、仮に本格的に覚醒した上で俺たちを追いかけてくれば、準備ができる前に色々と掻き回されてしまうだろう。だから俺は【ストレンジ】を利用して、夜介の認識にロックをかけた。一種の暗示、催眠に近いものだ。俺の試算によれば、ATPI に実用化の目処が付くまで四年程度と見ている。それは奇しくもゆかりが成人するまで、すなわち【神隠し】のリスクが解消するまでの年数でもある。その間、六郷夜介を止めておけばいい。


力に目覚めた少年が主人公となり、少女を取り戻すために冒険を繰り広げる。そんなものはゲームの中だけで十分であり、始まる前に芽の段階で摘んでおくべきクソ展開だ。


世界に主人公は必要ない。俺も、隼人も、ゆかりも、六郷夜介も、この現実世界というゲームの主人公たり得ない。俺が【ストレンジ】に適正を示したのは、世界からその完結を【奪取】するためだろう。もし世界を完結させる万能の主人公が存在するのであれば、そいつはどうして隼人を救わなかった?


だから世界を構成するものは、その一片に至るまで欠損した群盲であるべきなのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る