ユリとアザレア
すべての物事には、それがあるべきなのだ
何ひとつ自身の意志で決定して来なかったような、頼りない立ち振る舞い。自信がない、それでいて自分自身以外に大した興味も関心も持っていない精神的ひきこもり特有の曖昧な笑みを浮かべるこの男を、あたしはどうしても好きになれなかった。
頭の上にそうした感情をぐるぐると回しながら、セーラー服のスカートを人差し指でピシピシ、と弾く。それは無意識にやってしまうあたしの癖である。
水仙は、あたしをこの男の教育係に任命するという旨の指示を告げた。教育? 冗談じゃない。
「なんであたしが」
「アザレア、目的があって私たちに縋り付いてきたのは、あなたでしょう」
「……」
「
「そんなの、水仙が教えりゃいいじゃない」
「記憶が比較的新しい、あなたが教えた方が効率的でしょう。自転車に何十年も乗って来た父親は、息子に補助輪の外し方すら満足に伝えられないものです」
おどけながら噛んで含めるような水仙の言葉に歯噛みする。ここに来てからというもの、不愉快なことばかり起こる。それでもあたしには、組織に協力する以外の道はない。
――姉に近付くために。
「わかり……ました、よ。全部教えていいの?」
「あなたの知っていることで、夜介様に教えられないことはありませんから」
「……ムカつく」
爺さんめ。と、口の中だけで不平をこぼす。もっともらしい理由をつけているが、忘れっぽいから色々順序立ててガイドするのが面倒なだけじゃないか。
不愉快な六郷の男――夜介と言ったか――は、よろしくおねがいします、などと言いながら、やはり曖昧な笑みを浮かべている。
六郷。
すべての元凶であり、唯一、こうしてあたしたちを翻弄する
それは自身の努力では太刀打ちできないという意味で、天災にも等しいイレギュラーだ。あたしは六郷の血に対して、ほとんど敵意と言って差し支えないほどの屈折した感情を抱いているのかも知れない。
それがどのツラを下げて、あたし達と行動を共にしようと言うのか。あたしがどんな気持ちで、ここまで食い込んで来たか。この男は六郷というだけで、いとも簡単にその中核へ侵入する。それが不快でたまらない。
六郷の家の生き残りを確保したことと、待ち合わせの場所しか知らされていなかったあたしは、水仙から簡単な経緯を聞いて驚く。ATPI を使わずに
それでもこの男、夜介の力の使い方はほとんど直感に頼っているだけで、体系化された技術がないと危うい。そう水仙は説明する。血筋のせいで潜在的に能力はあるから、それをコントロールする術を身につける必要がある、と。
「アザレアの ATPI 習得速度には眼を見張るものがありましたから」
「ま、まぁ……そう言うなら」
我ながらチョロいかも知れないという思いはあるが、あの落ち着きのある爺さんに淡々と褒められると、やってやるかという気になってくる。
「頼みましたよ。私は比良坂と先に話してくることがあります。最低限の基礎を伝えられたら合流しましょう」
水仙はそう言い残して、二人を残して去っていく。その後ろ姿を見送りながら、頭を掻いてため息をついた。
「で、夜介?だったっけ」
「あ、ええと、うん。よろしく……アザレア、さん?」
六郷夜介の口調と表情からは、年下に呼び捨てにされることへの困惑が見て取れるが、それを不満として口に出すことはしない。イライラする。
【アザレア】は単に組織で働く上で使っているだけの呼び名だが、本名を教える義理もないから特に訂正もしない。ちゃんと自分の言葉でしゃべらない限り、あたしの方から気を遣ったりしてやるもんか。
「頼まれた以上、あたしの知ってることはちゃんと教えるけど。というか、あのお爺さんと違ってそんなに細かいことは知らないから、自転車の乗り方だけね。六郷のくせにポンコツだったら承知しないから覚えといて」
夜介は苦笑しながら肯定する。それを見て、やはりピリとした苛立ちを抑えることが出来なかった。無意識に自分のスカートを人差し指で弾く。布は重力に従って軽く揺れると、静かに元の位置に戻る。
血筋と他人に流されてここに辿り着いたような
すべての物事には、それがあるべきなのだ。
◆◆◆◆◆
もう何年前になるだろうか。アザレアは、こうして組織に属するようになった経緯を、思い出すともなく思い出していた。
アザレアには姉がいた。彼女をユリと呼ぶ。
アザレアの人生は、ユリの後ろ姿を追い求めてきたものといっても過言ではない。
彼女の着るセーラー服は、彼女自身がかつて通っていた学校の制服……というわけではない。彼女の姉であるユリが家に残していったものである。私服としても使えるデザインだからとか、服を選ぶ時間が無駄だからとか、アザレアは自分自身に言い聞かせてみたりもしたが、それはどうしようもなく姉への強い依存心の現れでしかなかった。
ユリは天才であった。
年の離れたアザレアは、姉の成すものごとをすべて理解しているわけではなかったが、それでも周りの人間達の反応から、ユリが常人と比べて飛び抜けた能力を有していることを感じ取った。
物心つく頃から、アザレアにとって、ユリはまるで漫画の登場人物のように見えた。ユリは学業からスポーツに至るまで華々しい成果をあげ、気まぐれで描く絵は常に何らかの賞を得る。当然のように国内トップクラスの大学へと進学した。
天は二物を与えず。そんな言葉はユリの前では俗物の
「お姉ちゃんは何でも出来るのね」
大人はいつも、姉を通して幼いアザレアを見た。天才であるユリの妹として興味を抱かれたあと、彼女の能力が平凡そのものであることを理解すると、誰もがその興味を失った。アザレアは常に優秀な姉の妹でしかなく、比較され、負け、そして失望されていた。
ユリがいない、彼女が彼女自身として見てもらえる人生を夢見たこともある。
すべての責任を姉に求め、憎もうと、怒りをぶつけようとしたこともある。
それでもアザレアはユリを憎むことができなかった。
優しく、強く、誇らしい姉以外にはなり得なかった。
完成された人間に対して唯一抱くことの許される感情は、ただ好意のみであった。
だから姉であるユリはアザレアにとって誇りであり、憧れであり、越えられない壁であり、自身を規定する物差しであり、すべての輝きをその身に浴びる者であり、アザレアを影に追いやるものであり、そして――世界そのものであった。
【並行世界統治連合】と呼ばれる存在が、姉を奪い去るまでは。
ユリは大学に入学して間もなく、ある研究室の一員として何かを研究するようになる。そしてその研究成果を認められ、海外の研究機関へと招聘されることが決まったという。その時点で姉は成人もしていなかったはずで、どこを取っても普通の道ではないが、姉が普通の道を通らないことくらいで今更驚かない。
アザレアにとってのイレギュラーは、姉がそのまま消息を絶ってしまったことだった。どんなに遠くまで行こうとも、どれほど歩む速度が違っても、アザレアはユリと連絡を取り合うことを忘れなかった。お姉ちゃんと仲がいいこと、それが彼女の拠り所であった。それが、ぱたりと止まった。アザレアの世界から、突如光が失われてしまったようだった。
アザレアは姉の痕跡を求め、かつてユリが在籍していた研究室の扉を叩いた。比良坂研究室と、扉にはそう書かれている。部屋の中で薄汚れた白衣を身にまとう男が比良坂と名乗った。
「ユリの妹? お前が? 才能を姉に吸われたか。クソ平凡な妹がいたもんだな」
男に素性を告げると、比良坂は乱暴な口調でアザレアを歓迎した。いつものようにアザレアはユリの劣化品として見られたことは違いないが、どういうわけか比良坂は、それでも凡人の彼女に興味を抱いたように見えた。
比良坂は、ユリの失踪の経緯をアザレアに語った。
白衣の男、比良坂によると――ユリは、彼の研究室で研究に携わっていた。その研究は国家の軍事に関わる重要なもので、彼らは【並行世界統治連合】と呼ばれる組織と敵対関係にあった。
そしてアザレアの姉、ユリの身柄ごと、それまでの研究成果を奪われてしまったのだと。
その後ユリがどうなったのか、生死も定かではないと。
そして、これは研究の性質上、
アザレアは怒りを露わにした。
激高するアザレアに対して、彼の【組織】の一員となるよう比良坂は持ちかけた。比良坂は【並行世界統治連合】に対抗するための準備を進めていると語った。天才でもなんでもない、いち女子学生に過ぎないアザレアにとって、その提案はまったく荒唐無稽なものであったはずだ。
それでも
【組織】は姉を奪った【連合】と敵対する立場にあり、アザレアが協力するのであれば、彼女を取り戻すために動く、と。
比良坂は軋む椅子の背もたれに身を預け、白衣に包まれた腕を研究室の天井に向けて掲げる。
「技術には広まろうとする意志がある。始まりは一握りの
とても悪くない。比良坂は心底楽しそうに、羽虫の死骸が散らばる蛍光灯に向かって声を上げて笑った。
アザレアには自らの道を進むという選択肢はない。彼女にとって彼女自身の道とは、姉の姿を追いかける日常以外に存在しないのだから。
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