第四幕
the being
はじめにことばがあった
はじめに
「夜介さん」
……では、ない。
僕は目を開く。その世界には色がある。そして目に映るのは姿形から声までゆかり姉ちゃんとよく似通った、いや、似通っていて当然の――
「よかった」
それは【メルトネンシス】と呼ばれる少女だった。僕は、身体を横たえている自分自身を発見する。メルトはそんな僕を見下ろして、心から安堵したような笑みを浮かべた。
ゆかり姉ちゃんと先生の娘。水槽の中で育てられ、守られてきた存在。
僕は、自分自身の体が存在することを確認して身を起こす。
「……」
僕は先生――
その代償として先生に対する感情に飲まれた僕は、人間の身体から離れて【ボトム】と同化したはずであった。終わったはずであった。僕は終わりに納得して、それを善しとした。誰も僕の眠りを妨げることは出来ないはずであった。
あれから永遠の時が経過したようでもあり、ついさっきの出来事であるようにも思えた。まるで僕が黒に飲まれた事実など些細な夢であるように、僕は意識と身体を取り戻している。
僕は、あたりを見渡す。
そこは六郷家の広い和室、かつて先生の「研究室」として使われていた広間であった。すなわち、先生とゲームに興じていたあの部屋のままだ。
「……」
あたりは静まり返っている。広々とした部屋の中に居るのは、僕の傍らのメルトと、少し離れて佇む
花さんと小春の姿は見当たらない。それはそうだ、と僕は思い直す。もう彼女たちの決着は着いたのだ。
水仙は僕の視線に気が付き、目礼する。
僕は意識せずに呟いていた。
「……終わった、のか?」
水仙は口元に柔らかな笑みを浮かべながら、僕の独白に答えた。
「いいえ」
「……え?」
僕は水仙の顔を見据える。その表情には、年月が刻み込んだ皺が見て取れた。
水仙。「おじさん」。山田と名乗る男。平々凡々であったその男。強い意志で以て障害を排除する、脳筋思考の枯れた老紳士。先生の過去に現れ、あの夏に六郷家に現れ、そして
僕と小春に野望があると語った、その男。
水仙は何度か満足そうに頷くと、白い髭を撫で、まったく変わらぬ飄々とした口調でこう呟いた。
「ふむ。頃合いでしょうか」
……頃合い?
メルトは老紳士に視線を向け、不思議そうに眉を寄せる。
「……水仙?」
水仙は呼びかけに応えることなく、静かな足取りでメルトに近付く。そうして恭しく腰を曲げ、畳の上に座り込んでいたメルトに手を差し出した。それは令嬢をエスコートする執事のようで、老紳士然とした彼の雰囲気にぴったりの所作であった。
メルトはぱちぱちと目を瞬きながらも、水仙の自然な動作に誘われて、流れるように彼の手を取った。
◆◆◆◆◆
次の瞬間、メルトは身体をのけ反らせて、耳を突き刺すような悲鳴を挙げた。
「――ああああああああああああ!!!」
「――!?何を――!」
反射的にメルトの手を引き剥がそうとした僕は、暴風のような
白い。
白すぎる光は物理的な圧力を持っているかのように、僕を押しのけ、吹き飛ばし、部屋の中を
――現実世界で、フレーバーの力が発動している。今まで白黒の世界にのみ存在した異質な力が、色彩のあるこの世界で荒れ狂っている。
「――っ!?」
白い光はメルトの体内から無尽蔵に湧き出て、それが二人の手を通じて、水仙の身体へとどくどくと流れ込んでいる。いや――吸い取られている。
「いやああああああああああああ!!!」
メルトの悲鳴を BGM に、水仙は静かな口調で語る。
「並行世界の栓、つまり比良坂が破壊されたことで、この通りフレーバーは現実世界からもアクセス可能な力となりました。この時のために、私は私自身の限界を超えて他人の
「――水仙、あんたは……!」
「夜介様。終わったのか、と仰いましたね。いいえ……これから始まるのです」
先生は最後に何と言った?
――そんなことより、ラスボスを倒せ。
あれは、先生のことではなかった。ラスボスはずっと水面下に潜んでいたのだ。僕たちの、比良坂聡の人生を付かず離れず見守りながら、その時を待っていたのだ。
僕は小春から聞いた【ハイゼンベルク】施設での顛末を思い出していた。
水仙が、事態の収束後に僕と小春を運び出す余力を残した状態でありながら、連れ去られるメルトをみすみす見送ったこと。彼自身も助けに入ることができない状況にあったか、それとも、花さんと先生という強力無比な戦力に立ち向かう無謀を避ける、冷静な判断によるものと考えていた。そうではなかった。水仙の描いたストーリーの中で、あれは絶対に必要な段階だったのだ。
六郷夜介――僕を比良坂にけしかけて並行世界の【栓】を破壊させ、力の源たる【メルトネンシス】に至る障害を排除させること。
メルトの全身は、まるで感電しているかのように大きく跳ねている。肺の中の空気を吐き出し尽くした彼女の喉はもはや叫びを上げることもできず、見開かれた眼と大きく開かれた口が、雄弁に彼女の喪失を物語っているようであった。
水仙は、そんな彼女を穏やかに見下ろしている。
「
どくどくと、この世界の血潮を果てしなく絞り尽くすほどの勢いで、水仙はメルトの身体から白い光を吸引する。
その奔流が――止まる。
水仙は満足そうに頷くと、メルトの手を離す。とさっ、と、メルトの小さな身体は畳の上に倒れた。
神々しい光を背負い、穏やかな双眸に白い髭を蓄えた水仙は、まるで宗教画に描かれる、絶対的かつ唯一の存在――
「
水仙は大仰に両手を広げ、数多の色彩と生命で満たされた、この世界を示す。
「神になる時を」
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