いつかの未来
並行世界に同化したゆかりは、現実世界に似せて天と地を形造った。
ゆかりは世界の
そして、ゆかりが【創造】した並行世界には色彩が存在しなかった。あの世界がモノクロなのは、単にゆかり自身がそのように世界を見ていたからに過ぎない。これは比喩ではなく、純然たる物理的な記述である。
――ゆかりは先天性の全色盲だった。
ゆかりは色を識別することが出来ず、その瞳は世界のすべてを白黒で映していた。
正確を期すならば、全色盲という表現は現代では使われていない。一色覚という。正常な人間の眼が S, M, L 三種類の錐体細胞を用いて色を識別しているところ、そのうちのひとつしか機能していないためにそう呼ばれる。具体的には S 錐体は青色を、M 錐体は緑色を、そして L 錐体は赤色を司り、三細胞が共同して、人間の可視光波長をカバーするようになっている。これらの錐体細胞の一部が正常に機能しない人間自体は、そう珍しいものではない。軽いものであれば、男性の 5% が色覚異常を持つと言われている。しかし、外界を完全にモノクロで見ることしかできない一色覚となると、数万人に一人の割合だ。ゆかりの S, M 錐体は機能しておらず、L 錐体のみを利用して世界の色彩を認識していた。
ゆかりは自身の眼に映る世界が他人のそれと異なることを理解していたが、それを苦にせず、笑って生きる強さを持っていた。それでも、時には己の眼を恨むこともあった。ゆかりは、中学生の頃にユニフォームの色を見分けることができず、敵にパスを渡して試合をダメにしてしまったことがあると言った。おそらく M 錐体が機能していないことによって、オレンジと黄緑を区別できなかったのだろう。ゆかりは嘆き、そのスポーツを辞めてしまった。
ゆかりはこの世に生を受けて以来ずっと、色という概念を体験したことがなかった。それゆえに、ゆかりが【創造】し、ゆかり自身が同化しているその世界には色が存在しない。
こうして、モノクロの並行世界は創造された。
◆◆◆◆◆
ゆかりが同化することで、並行世界に天と地が創造された。剥き出しであった
やがて、その上で人々が
六郷家の動乱をきっかけに、世界各国で秘密裏に並行世界の研究を進めていた組織はお互いに知らない振りをすることが不可能になった。そうして、山田の属していた「軍」を含め各国の並行世界調査組織が合併して設立されたのが【並行世界統治連合】であった。
平和的な名前に反して、その内部はドロドロとして溶解寸前の政治と建前の激戦区であり、並行世界に伸ばす支配権を巡って各国がにらみ合いを続けていた。
そして同時に、連合は単なる研究組織という枠に収まるものでもない。連合の母体となる集団が六郷家を襲撃したことからもわかるように、倫理や法を掻い潜って動くことが可能な実働部隊を有している。何も対策を講じなければ、六郷の屋敷がそうなったように、俺と娘の命はごく簡単に摘み取られてしまうだろう。
俺は娘を守らなければならなかった。しかし、俺ひとりでは【連合】から娘を守り切ることが不可能だった。
俺が【連合】に所属するという選択肢はない。六郷の血を引く娘が奴らの手に渡ったが最後、よくて実験動物、最悪はその場で「処分」されるだろう。何しろ六郷家を焼き払った連中なのだから、白旗を揚げて連合に
そうしてわずかに手詰まりの気配を感じていた頃、山田は、この「普通」そのものの男は、相変わらず何事もなかったように、俺の前に再びぬるりと現れた。
「あちらに、居場所がなくなってしまいましたので」
飄々と語る山田の口調は以前と変わりなかったが、それでも組織内外での立ち回りに疲弊してかいくぶん白髪が増え、顔には老いが刻まれたように見えた。俺にとっては、もちろんどうでもいいことであったが。
山田はすっかり「仲間」に戻ったような顔をして、俺たちを「我々」などと称し始めた。
「【連合】が武力行使を厭わない以上、我々にも仲間が……前線に立つ兵士が必要です。その立ち上げをお手伝いしましょう」
「……都合のいいときだけ信用しろと?」
「信用しろとは言いません。都合のいいように利用して頂ければよいのです。無論、私もあなたを利用します」
「いいだろう」
そうして山田は、俺たちは新たな名前を名乗るべきだと主張する。
「名前は大切です。古来、真名を知られると支配されると言いますから」
「聖書を引用するかと思えば、今度は
「さて……どうでしたかな」
わざとらしく考え込んでみせる表情に苛立ちを覚え、俺は脳裏に浮かんだ単語を投げ捨てていた。
「ふん……なら、おまえは
「水仙?」
「花の、な。組織のパーツとして生きる以上、人間らしくない名がいいだろう」
「……悪くありませんね」
水仙の花言葉は「うぬぼれ」だ。表面的には温厚な「普通」を装いながら水面下で暗躍し、己の都合のいいように現実を捻じ曲げ、自身を並行世界の神になぞらえるこのクソ男には――おあつらえ向きの偽名だ。
ゆかりが真の神の座を得たことについて、この傲慢な男は何を思うのだろうか。少々興味はあったが、問い
山田は俺の提案を聞いてどこかおもしろそうに目を細めて顎を撫でていたが、何かを思いついたようにひょいと眉を上げて口を開いた。
「私が水仙ならば――あなたはジギタリスといったところですか」
「……何がだ?」
「水仙の花には毒があります。であれば、あなたには毒草の王の名が相応しいのではと思いまして」
人格を剥ぎ取ることができれば何でも良かった。俺がジギタリスなのであれば、その娘はメルトネンシスとでも呼べるだろうか。
やがて【メルトネンシス】と呼ばれることになる俺の娘は、物心付く頃には、並行世界への人間の干渉を感じ取ることが出来た。それは、他の誰にも不可能な特質であった。ゆかりが溶け込んだ【並行世界】から、母娘だけに可能な何らかのチャネルを通じて情報を受信しているとでも言うのだろうか。そのセンサー感度があまりに精緻で、範囲があまりに莫大であったために、俺達は【連合】の追跡をかわしながら生き延びることが出来た。
それは、まさに【神の眼】と呼ぶに
世界全体を見渡す【神の眼】――それは、何もかもが群盲であるべきという、俺の信念へのアンチテーゼでもあった。それでいい。俺が何ひとつ信じていないからこそ、
そうして俺は【メルトネンシス】を組織の要、最重要システムに位置付けた。だが【メルト】の中核が生身の人間である、という事実は、俺の【ストレンジ】による暗示を利用して隠蔽した。真相を知るのは俺と、山田――いや、水仙のみであり、それ以外の仲間には、あくまで【メルト】は何らかの「装置」であると理解させた。
こうすれば、味方の兵士たちは、自身の安全を担保する【メルト】を全力で守るようになる。己の生存よりも女王蜂の命を優先して死んでいく不妊のワーカーのように、代替可能な人間どもが娘を守ることになる。
敵――【連合】は超高精度の監視システム【メルト】を狙うだろうが、喉から手が出るほど欲しいそれを、無差別に破壊することはないだろう。そして【メルト】が装置であると思い込んでいる以上、娘の身に危険が及ぶ可能性は極めて低い。
真の安全は緊張の中にこそ存在する。敵と味方の両者を欺きながら、俺は人間どもに娘を守らせるための仕組みを構築することに成功した。
俺と同等の頭脳を持つ天才でも現れない限り、この仕組みが――ただ娘の命を守るためだけに構築した、虚構のクソ舞台装置が――崩壊することはないだろう。
◆◆◆◆◆
比良坂みのり。
俺とゆかりによって娘に与えられた、メルトネンシスと呼ばれる少女の本当の名前だ。しかし――未来永劫、俺がその名を口にすることはないだろう。
俺は後に【ハイゼンベルク】と呼ばれることになる組織を率いながら、俺とゆかりの娘――【メルト】のオペレータを兼任し、センサーとして機能するみのりからの報告を受けるようになった。俺は俺自身の人格を剥ぎ取り、無個性の機能として、やはり同様に人格を失いただの機能として生きるみのりの成長を見てきた。
並行世界と同化した
ある夜。水槽の中で眠るみのりの息づかいが乱れるのを見て、俺はマイク越しに声をかける。
「……メルト、敵か?」
うっすらと眼を開けたみのりは、少し戸惑うように瞳を震わせる。その顔立ちは年々ゆかりに似通ってくる。みのりは、呼びかけているのが父親とは知らないまま、いつものように俺の問いに応える。
「……ごめんなさい。夢を見てて」
「ああ、夢ばっかりはどうしようもないな」
そうだ。夢ばかりはどうしようもない。俺はお前の世界における虚実を入れ替え、豊かな現実から隔離する。夢の中に閉じ込めることでしかおまえを守ることができない俺の無力を、どうか許してほしい。
俺の人生にはクソほどの価値もない。だが俺には、俺自身の生命に代えても成し遂げるべき理想があり、目的がある。
俺の死がなにもないことを意味するのでなければ。必ずその先に繋がるものがあると、心から確信できるのであれば。肉体の喪失、意識の消滅という事象そのものは、ほんの瑣末事であるように思われた。だから俺は
人の興味本位で造られた俺は、俺自身の生み出す次の生に、他ならぬゆかりと共に生み出したこの世で唯一の生命に、確かな価値と意味を与えたかったのだ。
みのり。
いつかの未来、
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