ハイゼンベルク

昨日のように覚えているから

――落下は、予想したよりもごく短い時間で終了した。


アザレアに導かれて階段を降りてきた僕は、そもそも【ハイゼンベルク】の施設が大学構内の地下に位置することは理解していた。それでもその深さを正確に知っていたわけではない。少なくとも階段の構造から、僕たちがいる層が最下層ではない、ということを記憶していた程度だ。


僕たちが落下した先は、蛍光灯に照らされる狭い部屋であった。あたりには無骨な電子機器が並んでいる。僕は、何かのケーブルをぶちぶちと引き千切りながら落下した。


「――いっ……!」


床に打ち付けられた身体に衝撃が走り、そして波が引くように落ち着いていく痛みの残滓を静かに見送る。痛みは、物陰で息を潜める僕の命を素通りしたように思えた。ぱらぱらと建物の破片が身体の上に落ちてくる。幸いにも引っかかったケーブルがクッションとなり、僕の身体は地面に打ち付けられたもののさほどのダメージはないようだった。


肉体の無事を確認した僕は、ユリの姿を探そうとあたりを見渡す。あの彼女が、床が抜けた程度で無力化されたとは思えない。……それにしても。


(なんだ、ここ……?)


わずかに空間を照らす蛍光灯を除けばそこはほとんど完全な暗闇で、一歩歩くためにも、手探りであたりを確認する必要があるほどだった。


「……う」


呻くような、というよりも、肺の中の空気が押し出されたことで意図せず発せられたような声。アザレアのものだった。僕は、少し離れた床に力なく倒れる彼女の身体を認める。生きている。


落下の途中で視界の端に映ったアザレアは、満身創痍の状態ながら、黒い盾を展開して落下の衝撃を殺そうとしていた。部屋の中には、人間一人がゆうゆうと入れそうなガラス製の水槽が設置されている。水槽は部屋の面積の半分近くを占めていただろうか。


アザレアの【ダウン】によって展開された黒い壁は、その水槽にぶつかった。高い音を響かせ水槽のガラスを割りながら、彼女の身体は水槽の隣に転がり落ちていた。巨大な水槽には浅く水が満たされていて、コンクリートの床が倒壊した振動は未だにその水をちゃぷちゃぷと揺らせていた。


アザレアの身体は揺れる水と相反するように、ピクリとも動かない。


先程ユリの脚を掴んだ時のように、かろうじて意識があったのか、それとも無意識で身を護るために【ダウン】の盾を発動したのか。


いずれにせよ、アザレアは


実の姉ユリから身動きも取れないほど傷付けられても、優しく微笑む姉から白い殺意を突き付けられても、アザレアは未だ生きようとしている。


その意志は確かに、僕の中の何かを響かせたように思う。


なぜ僕がこうして些細な心情を精緻に語るかといえば、次の瞬間に、僕の心情はアザレアのことなどすっかり忘れてしまうほどに、まったく別の色合いに塗り潰されてしまったからだ。


それを成したのは一人の少女である。破片とアザレアの黒盾によって破壊された水槽から顔を覗かせた少女。――僕は彼女を知っていた。いや、忘れたことなどなかった。


ぽたぽたと水を滴らせながら身を起こす彼女の姿は、夜介が長年追い求めてきた、彼の――。


……?)


少女は驚いたように、同時に夢から覚めたばかりのように、水槽の中で身を起こして部屋を見渡す。線が細くしなやかな身体に白いブラウスだけをまとわせている。身体は水槽の中の液体に浸っていたらしい。ぽたぽたと水滴を滴らせ、蛍光灯の無機質な光を艷やかに反射している。その長い黒髪は、黒すぎて紫色に輝いているように見えた。


その姿はあの頃の、僕の前から姿を消した頃のゆかり姉ちゃんそのものであった。


……いや、という表現は正確ではない。健康的に日に焼けていたゆかり姉ちゃんに比べて肌の色が白い。まるで今まで陽の光を浴びたことがないような、を塗られた陶磁器のように透き通る肌。あのままゆかり姉ちゃんの時は止まってしまって、この水槽の中で世界の汚れをすべて洗い落とされたのだろうか、と思う。僕の知る「六郷ゆかり」という素材が何もないプレーンな状態にリセットされた、極めて純粋な、観念的存在そのものの姿に見えた。


18 年も前に、六郷夜介の前から消えた従姉妹。先生の部屋に入っていく姿を最後に……死んだことになっていた。僕は彼女の葬式で、棺桶の中が空っぽであることを知りながら、空虚な器に別れを告げる大人たちを見ていた。昨日のように覚えているから、夢のように忘れたい。僕も大人たちに倣って、彼女を終わったものとして扱ってきた。終わった人間は無慈悲にも進んでいく世界に上書きされ、ただの死者から美しい思い出に昇華されてゆくのだと、扱いきれないまま自らの心に言い聞かせてきたのだ。


それがいやだから。僕は、死者が死者のままであるようにを神に願った。


「ゆかり……姉、さん?」

「『……いいえ?』」


返答は、眼の前の少女の口から音として僕の耳へ届くと同時に、白黒の世界から直接語りかけられるように僕の頭に鳴り響いた。僕はその感覚にも覚えがあった。水仙やアザレアから【監視システム】として扱われていた、少女の声を持つ【ハイゼンベルク】の絶対の眼。


。ゆかり姉ちゃんをそう称する、父親の言葉が脳裏をよぎる。


ゆかり姉ちゃんは――いや、そうとしか見えない【メルト】と呼ばれる少女は、怪訝な表情でゆるく首をかしげた。

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