ユリはアザレアの本当の名前を呼ぶ
アザレアは足を踏み入れた地獄で、懐かしい姉の姿を見る。
ゆるいウェーブを描く、控えめに茶色に染めた髪。小さく鼻筋の整った顔を彩る、細い髪の奥からは、銀のイヤリングが覗いている。白のロングスカートをなびかせてこちらを振り返った姉は、わ、と軽く驚きの声を上げた。
「あら
ユリはアザレアの本当の名前を呼ぶ。その声は少し弾んでいるようにすら聞こえた。
まるで休日のショッピングモールでクラスメイトに出くわしたような、日常のちょっとした偶然を喜ぶ口調。
「
ユリはくすくすと笑い、おかしそうに笑顔を咲かせる。春の花がぱっと開くようなその笑顔は、見るものに無条件に好意と安心感を抱かせるであろう、暖かな空気を持っている。
それはアザレア――
足元の血の海に、人間の断片が転がっていなければ。
◆◆◆◆◆
この目で見るまで、アザレアにはもしかしたら何かの間違いではないかという期待があった。
姉が姿を消して、それを追いかけて比良坂の組織に身を寄せた。そこで ATPI という道具を持たされ、やりたくない仕事をずっと続けてきた。それもこれも、姉に再会することだけが目的だった。夢見ていたと言っても良い。それほどに現実味が薄く、かつそこへ至る道筋も見えない暗闇であった。
姉は、連合にさらわれたと聞いていた。
……いや、そう思い込んでいたのかも知れない。思い込まされていたのかも知れない。
あたしが、妹が、生まれて初めてお姉ちゃんを助けられるんじゃないか。天才の妹でしかなかったあたしが、天才として生きてきたお姉ちゃんの危機を救うことができるんじゃないか。そうしたら、お姉ちゃんはあたしに感謝して、小春、ありがとうって……
「お姉ちゃんはどうしてそんなことするの!!」
アザレアは癇癪を起こした子供のように叫んで、彼女の能力【ダウン】を発動した。
防御のためではない。それは水仙と立てた戦略からはまったく外れた、その場の感情だけに突き動かされた行動であった。アザレアは【ダウン】を使って黒い盾を作る代わりに、その「弱化」特性をユリの無力化に使おうとしていたのである。
【ダウン】の最も使いやすい用途は「盾」としてのそれであるが、実際のところ「盾」は、本来の「弱化」の特性が持つ副作用としての側面が強い。【アップ】の「強化」が自分自身や触れたものを強くするように、本来の【ダウン】の「弱化」は、自分自身や触れたものを弱くするものに他ならない。自分自身を弱くする――それが戦闘においてまったく役立たないであろうことは想像に難くないが、元来フレーバーとは、戦闘と無縁の、単なる世界の性質に過ぎない。ものを強くする因子があり、それと対になる因子は、ものを弱くする。それだけの話である。
だから対人戦闘において【ダウン】を真の意味での「弱化」として使うのであれば、それは敵を弱くするという手法を通じて実現されることになる。これが決まると敵の膂力は失われ、運動能力は低下して、思考すら鈍り、そして敵のフレーバー能力も激減する。
アザレアはこの性質を利用して、ユリを凡人に引きずり下ろして制圧することを考えたのである。
ただし大きなデメリットとして、敵対する相手にこれを使おうとすると、相手に触れるまで近付かなければならない。【アップ】で物体に光を纏わせ強化するためには物体を手に取る必要があるように、【ダウン】でも、弱化する対象をその手に触れる必要があった。
だから、アザレアはユリに向かって走った。
一方、ユリは常人を大きく上回る【チャーム】フレーバー量を誇り、
驚異的な遠距離戦闘能力を有する天才である。
「……それは悪手だよ、小春」
ユリはアザレアの意図を完膚なきまでに理解していた。ずいぶんと顔を見ていなかった妹、
ユリはこの時点で、妹の拙さや無計画さまでも考慮に入れて、その行動のシミュレーションが完了していた。
ユリは一生懸命に自分に向かって走るアザレアを可愛く思いながら、光球を生成してその場にばらまき、後退する。彼女がパンくずと呼ぶ
遠距離での攻防を強みとするユリにとって、戦闘において相手との間に距離を保つことが、有利に物事を運ぶ上での前提条件となってくる。その前提となる環境を作り上げるために、この「パンくず」は絶対の利便性を持っていた。光球で敵を狙う必要もなく、ただその場に浮かべるだけでいい。フレーバーの移動性が低いために、それなりの威力を乗せて機雷をばらまくことが出来る。すなわち、それに触れるとき相手はその威力に警戒せざるを得ない。適当に打ち払いながら追いかけることが困難なのである。その間に、ユリは自分の身の安全を確保できるところまで距離を取ることができた。
アザレアは黒盾を張ってその機雷群に突入するが、爆音を伴って弾ける光球の威力に身体をぐらつかせ、トップスピードで駆けていた細い身体の加速が殺された。
感情が爆発するまま走りだした熱が冷めたのか、アザレアはその場に止まる。
それでも抑え切れない何かに追い立てられるような表情で、ユリに向かって声を上げた。
「お姉ちゃん!」
「はぁい?」
「その人達を、殺したの!?」
ん? とユリはアザレアの視線を追いかける。
そこには、血を撒き散らして分解された、ハイゼンベルクの元人間たちが転がっていた。
「ええ、そうよ」
「どうして!」
「どうして、って……」
ユリは少し困ったように笑う。それがやるべきことだからやっただけだ。
わたしは、やるべきことをやるだけの
ユリは顔の前に指を立てて、そこに光球を生成する。指を
アザレアは黒盾を展開して攻撃を防いだ。妹の成長に、ユリは微笑ましい気持ちになる。
「ねえ小春。あなたも【ハイゼンベルク】に居るのなら、わかるでしょう。
とっくに彼らは死んでいて、これからも死んでいく。
「確か……【アップ】が 8、【チャーム】が 3 人。【ダウン】が…… 5 人かな? 【ストレンジ】らしい人はたぶんいなかったけど、動く前に何人か殺しちゃったから、第二世代、もう少しいたかも。小春、いま
アザレアはそれに答えない。
「あたしは!お姉ちゃんが人を傷つけたり……殺すのを見たくない!お願い、昔のお姉ちゃんに戻って……!」
「小春。わたしは、ずっとわたしだよ」
ユリは、困ったように優しく笑う。しょうがないな、この子は。
「あなたには見えていなかったかも知れないけど、わたしは、ずっと変わらない」
笑顔のユリは、一歩も動かずに光球を次々と生成して黒い盾にぶつける。
アザレアはそれを防いでは顔を上げ、必死の形相で彼女の最愛の姉へと言葉を投げかける。
「……違う!だって……!」
「あぁ……でも、確かに」
ユリは、ちょっと何かに思い当たったように攻撃の手を止めると、小首をかしげる。
彼女の周囲に浮かぶ光球も、それに呼応するように、ふよん、と宙で傾いて見せる。
「一緒に人を殺したことはなかったね」
「――――ッッ!」
アザレアは――言葉もなく歯を食いしばる。その喉から絞り出されたのは、子犬が餌をねだるような、空に向かって吠え立てるような、悲鳴とも嗚咽ともつかぬ怒号。
ユリはそんな彼女を慈しむように目を細めると、ゆったりと両手を広げて、手のひらから光球を生み出す。その数は 20 を下らない。
「どうして普通でいられないの!?」
「……ねぇ小春、普通って、何かな?」
ユリは光球を操って、すべて上空に打ち出した。高い天井のすれすれまで上昇して――致死的な光の雨がアザレアに降り注ぐ。
「……っ!」
「だって、わたしはずっと普通に生きているのに、みんなわたしを
アザレアが黒い盾を上部に展開して雨を防ぐと同時に、ユリは小指の先程の光球を彼女の顔の前に生成して、ふ、と息を吹きかける。
豆粒のようなそれは凄まじい速度でアザレアの顔面まで迫る。防御が間に合わずその接近を恐怖で迎えるしかなかったアザレアの、眼球の 5mm 手前で光球は静止した。その場に、溶けるように消える。
アザレアの心臓が、早鐘のように脈を打つ。
いたずらが成功した子供みたいに、くすくすとユリは笑っている。
「小春にとっての普通が何なのか、教えてくれたらそうするよ。でも、それはお互いが仲良くやっていくために、誰でもやることだよね。人間がみんな等価なふつうを共有してると思ったら、それはまちがい」
姉が、わがままを言う妹に言い聞かせるように。ユリは
言葉を紡ぎながら、ユリは両手を顔の目の前で祈るように合わせて、白い光を細い細い針のように成形していた。その鋭い形状を持つ攻性フレーバーは、ドリルのように高速で回転することで、速度と貫通力と弾道の安定性を高めている。
ユリは合わせていた手を開いて、やさしく水を掬うような仕草で、輝く白い針をふわと宙に浮かべた。
「――いくよ?」
あまりにも速すぎた。アザレアの太ももは、豆腐ほどの抵抗もなくその光の針によって貫通される。
その破壊は進路をすべて焼き切る形で行われたために、流血はない。それでもアザレアは、自らの身体が失われる痛みと恐怖と、どうしようもなく失われてゆく活力に屈してその場に崩れ落ちる。
崩れ落ちながら、アザレアは姉の姿を見る。彼女は、あら、これがいいのねとでも言うように、白い針をびっしりと周囲に作り出しているところだった。
――光の針の、雨。
それは 360°あらゆる方向から降り注いだ。盾が、足りない。
着弾の瞬間、黒い棺桶を作っていれば防げたのかも知れない。もうその機転を利かせられないほどに、アザレアの心はぽっきりと折れてしまっていた。
黒盾での防御が間に合わず、身体に到達してしまった光の針たちは、アザレアの身体を無遠慮に突き抜けてゆく。
痛い。
力の入らない手を上げて、さらなる追撃を防ぐためかろうじて黒い盾を張り直す。ユリはからかうように変化球やフェイントを混ぜながら、アザレアの身体へと光球を撃ち込む。
動きの鈍ったアザレアはそれを防ぎ切ることが出来ない。徐々に被弾が増え、血を流す。感覚が麻痺していた右脚は、いつの間にか指先が消し飛ばされていた。内蔵を損傷したのか、鉄の味が喉元までこみ上げる。
ユリの表情は心底楽しそうな、妹と遊ぶ子供のそれだ。あるいはずっと、お姉ちゃんは
あたしがお姉ちゃんについていけないから。ずっと、後から見ているだけだったから。お姉ちゃんは、こうしてあたしと命をかけて殺し合うことで、初めて妹と遊んでいるつもりなのかもしれない。
痛い。
お姉ちゃんは何でも思い通りにできる人だった。力と、世界と、可能性をその身に背負い、それでも毅然と立つ人間だった。他人に愛され、認められ、何かを壊しながらも、特権的にそれが許されていた。
あたしは物心つく頃から常にお姉ちゃんの妹でしかなく、比較され、負け、失望されていた。お姉ちゃんのあまりの輝かしさに、あたしは解放を願った。あたしが見上げる舞台で舞う、たった一人の演者。たった一人のお姉ちゃん。お姉ちゃんのことをとてもとても大好きであり続けながら、同時に、あたしは誰もいない世界を望んだのだ。
そうしてお姉ちゃんが去ったとき、あたしは――からっぽになる。
痛い。
姉という光、光の落とす影としてのみ生きていたあたしは、お姉ちゃんから解放されたあたしには、何も残されていなかった。解放されることを夢見ていたはずなのに、あたしがただひとりの人間としてあたし自身を見た時、その容れ物には何も入っていなかったのだ。
だからあたしは、お姉ちゃんの影を求めた。お姉ちゃんがそれを望んでいなかったことも知っている。あたしに「普通」の、何事もない幸せな日常を送ってほしかったことも理解していた。普通のわからないお姉ちゃんは、生まれながらに異常でしかなかったお姉ちゃんは、あたしを連れて行かないこと、普通のままにしておくことを選んだのだ。それがお姉ちゃんの願いだった。
痛い。
それでもあたしにはお姉ちゃんからはぐれて生きていくことなんてできなかった。お姉ちゃんの残した傷跡を追いかけ、お姉ちゃんの服を着て、お姉ちゃんの求めたものにしがみついた。
あたしはお姉ちゃんになりたかったのだろうか?
「……ちがうの」
アザレアは、弱々しく呟く。
あたしは一人の人間として認識されて、同情されて、笑いかけられて、怒られて、優しくされたかった。何もいらない。ただお姉ちゃんにあたしのことを見て、気持ちを聞き届けてもらって、あたし自身を知ってもらいたかっただけなのだ。お姉ちゃんの下位互換としてではない、天才の出来損ないではない、百合崎小春としてのあたしのことを。
……いたい。
制服のスカートをぎゅっと握って、涙と一緒に血反吐を吐きながら、アザレアは叫ぶ。
「……お姉ちゃん、大好きいいいい!」
魂を吐露するように、あるいは救いを求めるように。アザレアはそうと知らず泣いていた。
ユリは、きょとん、と意表を突かれたように静止する。
彼女の光球も、その破壊を止める。
そして溶けるような笑顔を見せた。
「嬉しい。わたしもいちばん好きよ。愛してる、小春」
ユリは膨大な数の光球をぞろりと頭上に浮かばせて、その数多の光をひとつに束ねてゆく。
「完全な愛はね、小春。あなたがどうあっても揺らがない。わたしはおもしろいことが好きだけど、あなたがどんなにつまらなくても愛してるわ。あなたが世界中から嫌われても、わたしは味方。小春には幸せでいてほしいけど、たとえ不幸のどん底に落ちたとしても、あなたを見捨てたりしない。あなたの四肢が欠けたら優しく撫でて、ごはんを食べさせてあげる。あなたが記憶をなくしたら、もういちど姉妹になりましょう。あなたがこうしてわたしの敵になっても、たとえあなたがわたしを憎んでも、わたしはあなたを愛するお姉ちゃんでいられるわ。だから小春――心配しないで」
「……お姉、ちゃん……」
アザレアは傷付いた彼女自身の身体を抱きしめて、異常なユリの、異常な愛を受け止める。
痛くて、疲れて、眠くて、悲しくて――大好き。
宙空に鎮座するひときわ大きな輝きは、まるで神がふたりを祝福しているように映る。
「あなたが死んでも愛してるから」
白い輝きは雷のような速度でアザレアに迫り、
そして――これまでとは比べ物にならない爆風と轟音が空間を蹂躙した。
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