クソみたいなイベント戦闘だ
ユリはコンクリート床をコツコツと鳴らしながら、躊躇いなく僕に近付いて来た。
地面に這いつくばる僕の視界に、白のロングスカートが広がる。いくつもの血を吸ったはずの白色はふわと揺れて、とても清涼な、石鹸のような香りが漂った。
彼女は身をかがめると僕の眼前に転がるパイプの破片を拾い上げる。手の中でくるくると回して遊びながら、ユリは【ボトム】の黒と金属パイプの境目をじっと観察していた。
「……空中戦のセンス、最後まで最悪ですが」
先程の男に向けたものだろうか、その呟きにはさほど興味も感慨も込められていない。
手に持ったパイプをぽいと捨てて、軽くため息をついた。
「データは取れたし、有象無象たちを連れてきた甲斐はありましたかね」
ユリは、僕が彼女を傷付けられないことをよく理解していた。だからこその余裕であり、躊躇いのない接近である。
そして、彼女に向けられることのない
「それにしても、六郷さん……やっぱり性能がデタラメですねぇ」
「……」
「【ボトム】は無を司る? ……どうも、少し違うみたいですね。あなたはいま
「……いいから」
「わたしは昔から不思議だったんです。あなたたち六郷が
僕には、彼女の講義を聞く時間などない。燃え朽ちていく自身の命と眼の前の現実とを突き合わせて、やるべきことを復唱する。何をするべきか。僕は何を、最後に守ろうとしているのか。
視界の隅に映る黒い棺桶。本来死骸を格納すべき
「……いいから、花さん。これ以上なにもしないで、立ち去ってください」
「あなたもそのままじゃ死にますよ?」
「構いません」
僕は自分自身の命が間違いなく失われるであろうことを、驚くほど冷静に捉えていた。それはもしかすると【ストレンジ】により自ら投げ捨てた痛みの感覚が、死を忌避する本能すら奪い取ってしまったのかも知れなかった。
そして何の躊躇いもなく、いや、躊躇いはあったにせよ、結果として二人の敵対者を黒に塗り潰して――生命を停止させたこと。ともすれば僕は、その犯人を思考の欠落に求めたいと感じていた。
不完全ゆえに許される。万全でないなら仕方がない。わざとじゃないから悪くない。力を持つならば、そうせざるを得ない。
僕は僕自身が何をしているのかという責任さえ――
「……六郷さん、そ――」
――と、ユリが僕に向けて言葉を投げかけようとした時。
突如、アザレアの「棺桶」が消失して――黒に覆われていた空間が、外気に晒された。
◆◆◆◆◆
「……!」
ふたりの少女を守っていた黒い棺桶が消え去った。そこにアザレアの姿はない。
取り残されたメルトは床にぺたんと座り込んだまま、彼女を守る黒い盾が無くなったにもかかわらず、その眼でユリを見据えている。瞳に映るのは、ユリに対する拒絶と対峙の意志であるように思われた。
黒い壁が失われたこと、すなわち
ユリはメルトへ手を伸ばす。
伸ばされたユリの手を、その手だけを、地面から突き上がる【ボトム】の黒い波が襲った。
我ながら、タイミングだけは完璧だった。
何の兆候もなく出現した黒い帰無の斬撃に、ユリは弾かれるような加速で反応する。視界から一瞬で、ユリの姿が消失した。
「……」
ユリは【アップ】で強化した脚力で上階に飛び上がっていた。リバースティック・エフェクトが白黒の世界の地面を突き破って発生すること、その際の「地面」は六郷夜介の位置に依存することを、ユリは観測から導き出していた。夜介のいる平面から離れることで、回避の時間を確保することができる。
彼女は白く細い手をくるりと裏表に回して、黒の侵食を受けていないことを確認していた。
「……お優しいこと」
僕が、きちんとユリの視界に入る位置から【ボトム】の黒を突き付けたことに、ユリは気が付いていた。
猫科の猛獣かと見紛う俊敏な回避。その直後とは思えないほどの柔らかい笑みを浮かべている。
「あなたはわたしを傷付けない。でも、わたしはあなたを殺すことができます」
天才は高みから僕を見下ろして、生殺与奪権の確認を行う。
と、同時に、彼女は【チャーム】の光弾を周囲に生成していた。その輝きは変わらぬ破壊の意志と脅威を示す。その光弾は、放たれる必要すらない。ユリは僕を直接的に制圧する必要がない。ただ距離をとって、僕が力尽きるのを待てばいい。
「……僕が死ぬのは、困るんですよね?」
「困るだけで、詰みじゃありません」
「……」
「六郷さん。
「……?」
「わたしは【メルト】を眼で見て、ようやく確信しました。あの子は、六郷さん、あなたの代わりになる。だからわたしにとっては、最悪あなたが死んでも……メルトちゃんだけ連れていけば事足りるんです」
――彼女は、何を言っている? メルトが、僕の六郷の血筋の代わりになる?
(それは、つまり……)
ぜんぶわかっていて、やるべきことをやるだけで、そしてその先へと進むだけの存在。
「――メルトを手に入れることで、花さんは、何になるつもりですか?」
ユリは僕の言葉を受けて、軽く眼を閉じる。そして眼を開けた時、そこに迷いはない。強い意志と確信を瞳に映して、天才は柔らかい笑顔とともに告げる。
「――さぁ? わかりません」
迷いはなく、誰よりも賢く強く、何よりも優しく美しく、それでも目的を保有しない。それが百合崎花という、どうしようもなく僕を
「……」
ユリ――花さんのことを、殺したくはない。死んでも殺したくない。それでも僕が死んでしまえば、その後に悠々とメルトを回収しに来ることだろう。
ただここで殺されるか、そのまま血を流し身体の温度が床と同化するか。早いか遅いかの違いでしかない。どうすればいいのか。みんな殺さない道を選んで、何かを守ることが。
ああ……だめだ。選択肢を誤ったかも知れない。バッドエンド。でも、じゃあいったいどうすればよかったというのか。
……アザレアであれば、とても強い意志を持つ彼女が僕の考えを聞いたとすれば、もしかすると怒りを顕にするだろうか。
「六郷さん、あなたには感謝してるんです。こういった形でなければ……」
僕は憎むことの出来ない
僕には彼女に逆らう気力も、体力も、そして意味も残っていない。出会ったばかりのアザレアとメルトを守る意味がどこにある?
実の姉が妹を手にかける、という悲劇を嘆くこと。
かつての想い人に瓜二つな少女を、六郷夜介の代わりになるという彼女を、今度こそは救いたいと願うこと。
いずれも僕に「できること」から場当たり的に作り上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。ひとは無意味であることを嫌う。僕は失われつつある自らの命に恐怖して、僕の生に何かの意味があると思い込みたかっただけなのだ。
ユリは沈黙して僕の姿を見下ろした。その表情はきっと笑っていたのだと思う。しかし彼女が瞳に浮かべる色は、もう僕の眼に映らない。
「まぁ、いいか。――さよなら」
――前触れもなく、不機嫌そうな声が響いた。
「それは俺にとって都合が悪いな」
◆◆◆◆◆
ユリとメルトはその声を聞き、跳ねるように視線を向けて――メルトのすぐ隣に立つ、白衣を纏った細身の男に気が付いた。
「――!?」
そこには何の気配もなかったはずだ。【ストレンジ】による認識阻害。これほど近くにいて、この男の存在に今の今まで気が付かなかったというのか。
僕は、あの頃よりもいくぶん低く渋みを含んだ、懐かしい声を聞いている。ひとたび見上げることをやめてしまった僕の頭部は、もう床から離れようとしない。かろうじて顔を動かして横を向くと、頬が床と接触する。その肌は、未だ冷たさを感じることが出来た。
視界の隅で、白衣に包まれた痩身と、彼の眼鏡の銀色が光る様子を捉える。
――せんせい。
ユリは軽い口調で、白衣の男に語りかける。
「あら、比良坂先生……いたんですか。気が付きませんでしたよ」
「存在感が薄くてな」
比良坂はメルトに手をかざして、骨ばった大きな手で少女の頭を鷲掴みにした。
「や――」
「行くぞ」
少女の言葉は、途中で途切れる。
メルトの目から光が消えて、ふらり、と立ち上がった。そこには自発的な意志がまったく感じられない。まるで感情のない完全なシステムとなってしまったかのように、メルトは白衣の男に言われるがままに付き従う人形と化した。
トン、と比良坂から離れた位置に着地する足音。ユリだ。彼女が「パンくず」と呼ぶ【チャーム】の光球を比良坂との間に展開すると、部屋は一瞬即発の破壊に白く照らされた。
「……行くって、先生、どちらへ? わたし、メルトちゃんが欲しいんですけど」
「ユリ。お前にも来てもらう。この方が楽だろう」
この方が、と言いながら、ロボットのようにぼうと立ち尽くしたままのメルトを指し示す。
「"にも"? ……先生がそんなことしなくても、わたしが連れて行きます」
「ふん。相変わらず自信家だな? クソが」
「それに……六郷さんを殺すと都合が悪い? 先生の都合なんて、知りませんけど」
「そいつは――」
次の瞬間、比良坂は、ずいとユリの眼前へと移動していた。ユリはその移動を、目で追うことが出来ない。
「な――!?」
ユリと比良坂の間の空間を埋め尽くしていた【チャーム】の光球はぴくりとも反応しておらず、溜め込んだ破壊を持て余したように、ただそこに静かに浮かんでいた。まるで比良坂の動作の立ち上がりから完了までが、何かに奪われたかのように。
「……耳を貸せ」
面白そうな顔一つせず、不機嫌そうな比良坂は高い背を屈めて、ユリに何かを耳打ちする。
「……」
比良坂の言葉を聞くと、ユリは思案するように目を伏せた。
「……先生がいうと、説得力ありますね」
そう呟いて、ユリは【チャーム】の光球をすべて消し去る。そして諦めたような、挑むような表情で比良坂を見上げた。
「わかりました。乗りましょう……そっちの方がおもしろそうです」
僕は朦朧とした意識で、先生に向けて何か声を上げようとしたが、わずかに開かれた唇からは隙間風のような吐息が漏れるだけであった。乾いた唇から出ようとした音が何であったのかは、僕自身にもわからない。
痛覚を遮断できても、失われた血と肉が僕の命をどんどんと凍えさせてゆく。両足からの失血によって僕の命の炎は燃え尽きようとしていた。
そうして先生は振り返ると、地面に這いつくばる僕を見下ろした。
「で、だ。夜介。おまえはゆかりの身に何が起こったのか、知りたいんだろ?」
その瞳が語る感情は、眼鏡の反射に阻まれて読み取ることができない。というよりも、既に僕の視界はほとんど失われていた。
白衣の裾とそこから覗く黒の革靴が僕の眼に映っているのだろう。五感の中で最後まで残るのは、聴覚だという。吹き消えそうな意識と先生の声だけが、僕の世界のすべてであった。
ゆかり。先生は、そう言った。
ゆかり姉ちゃん。彼女の笑顔からはいつも、柑橘系の香りがするような気がした。僕はあの白い手から、みかんを食べさせてもらっていた。見上げる丸い電球は少し切れかけていて、テレビでは誰かの笑い声が響いていた。
ゆかり姉ちゃんの笑顔を、僕はいつでも追い求めていた。意味。砂上の楼閣ではない、存在に根ざした本当の理由。
「本当にそれが知りたければ――もう一度、あの六郷の屋敷でゲームってのはどうだ?」
先生の声はあまりに遠い。
終わってゆく感覚が心地いい。すべてが曖昧に静かになって、そこにはもう誰もいない。
――寒い。
「クソみたいなイベント戦闘だ。気に病むこたぁねぇよ……コンティニューして来い」
僕は、僕の意識を手放した。
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