黒の魔法使い

花音小坂(旧ペンネーム はな)

第1話 終わりの始まり


 ゴォーン……ゴォーン……


 静寂なる夜。祝福を奏でるはずのサン・リザベス聖堂の鐘が、禍々しく鳴り響く。それは、まるで神の慈愛を嘲笑うかのように。それは、まるで永遠とわの誓いを呪うかのように。それは、まるで磔の男を讃えるように。


「ククク……」


 幾重にも重なる光の剣に壁ごと打ち抜かれ、身動きの取れぬ男は低く笑う。老婆のような白髪、深青色のオーバーコートは赤黒い鮮血で染まっている。まるで水彩画のキャンバスのように、さまざまな色が入り混じっているにも関わらず、男の印象はその瞳の色と同じく『黒』としか表しようがなかった。


「なにがおかしいの!?」


 向かい合う少女は、瞳翠玉エメラルド色の瞳を離さない。細長い金色の髪は乱れ、その頬は粉雪のような肌のせいでほんのり赤味が浮かびあがる。真紅の法衣も薄黒く汚れがており、彼女もまた多様に彩られていたが、その姿は対照的な『白』を示していた。


 側から見れば、絶体絶命な方は男の方である。


 しかし、


 男は余裕の表情で笑い。


 少女は強張った表情で怒りを向ける。


「さすがだね。この僕をここまで追い詰められる魔法使いはなかなかいない」


 おおよその臓器全てを貫かれて。両手足の身動きが取れず。全身の血液が流れ出るその状況にも関わらず、男の口調は軽かった。


「強がっても無駄よ。観念しなさい、アシュ=ダール」


「ククク……」


「笑うのを……やめなさいっ!」


 思わず苛立ちを口にする。致命傷はすでに与えてある。今この瞬間にも絶命してもおかしくはない。


 少女は見たかった。


 彼の悶え苦しむさまを。ひざまずき、くずおれて、泣き叫び、これまでの凶行に悔い嘆く姿を。


 しかし、目の前の魔法使いは、まるで極上のワインに酔いしれたような表情を浮かべている。


 それは、決して強がりではなく。


 それが、あたかも悲願かのように。


「ククク……命乞いでもすれば許してくれるのかね、レイア=シュバルツ君?」


「ふざけないで!」


「僕は至って真面目だよ……で?」


「なにがっ」


「君の手は、それで終わりかね?」


 まるで、チェスを楽しむかのように、アシュと呼ばれた男は尋ねる。


「……あなたになにができるというの?」


 王手チェックではなく、完全なる詰みチェックメイトだ。ここからの逆転など不可能だと、レイアと呼ばれた少女は確信する。


「そうか……残念だ。なら、死んではやれないな。君はこれから敗北の憂き目に遭う訳だが、アドバイスを一つ」


「……」


 強がりだ。いや、もしくはブラフか。どちらにしろ聞く価値のない言葉を無視して少女は詠唱チャントを始める。


「常人が魔法を放つ時、その腕と手を駆使して象徴シンボルを描く。それが、あまりにも繊細な動きであるがゆえに、他の部位では到底表現することはできないからだ。しかし、超一流の魔法使い……例えば僕は違う」


「……」


 あるいは、彼の言葉を聞いていれば彼女のは別の詠唱チャントに切り替えたかもしれない。しかし、少女は決めつけていた。


 卑劣な闇魔法使いに自分の力量が劣るはずはないと。


「次からは、僕の指まで封じることをお薦めするよ……まあ、次があればの話だがね」


<<冥府の死人よ 生者の魂を 喰らえ>>ーー死者の舞踏ゼノ・ダンス


 男が唱え、地面に向けて指を微かに動かす。すると、一帯に黒い光が発生し、魔法陣が精製される。五芒星を基調に、無駄なく洗練された象徴シンボルが練り上げられる。


「嘘……」


 少女は思わず口をこぼす。


 人差し指だけで繊細な象徴シンボルを描き出すそれは、明らかに少女の技量を遥かに上回っていた。


 瞬間、地から現れたのは、数十体の死体。その表情に正気はなく、虚ろな瞳で、少女の周りを取り囲む。


「くっ……」


 予想だにしていなかった反撃に、表情が曇る。が、対抗する手がないわけではない。瞬時に思考を切り替えて、それらの撃退に切り替える。


「懐かしいかい?」


 闇魔法使いは、大きく目を見開いて尋ねる。


「……なにを……言ってるの?」


 ドクン。


 その時、少女の心音が波打つ。


「ククク……わからないのかい? いや、忘れてしまったのかな?」


「だからなにを言ってるの!?」


 目の前の男は息を吐くように嘘をつく。聞いてはいけない。耳を貸してはいけない。


 でも。


 その視界に。


 その瞳に。


 答えは見えて……見えてしまっていた。


「感動の再会をもっと喜んだらどうだい?」


「……いや」


 目の前が、涙で曇る。


 少女と同じ金色の髪を持った男に。正気はなくとも、虚ろであっても、その優しき瞳翠玉エメラルド色の瞳に。


「パパ……だったかな。さあ! かつて呼んでいたように。最愛の父親を、かつての愛称で呼んであげたまえ……クククク……ククククハハハハハハハハハハハハハッ、ハハハハハハハハハハッ!」


「いやあああああああああっ!」


 断末魔の笑い声と少女の叫び声が入り混じる。視界が霞み、膝に力が入らない。詠唱チャントどころではない。すでに、戦意すら喪失し少女はその場にへたり込む。しかし、群がる死体たちは無情にも動きを止めることはなく、少女の両手足を絡め取る。


「ふぅ……あっけないな」


 興が削がれたように男はため息をつく。数体の死体は、聖堂をよじ登り光の剣を取り除く。その手は浄化され骨まで浮き出るが、それでもなんの躊躇もない。


 やがて。


 自由になった男と身動きの取れぬ少女。


「僕に挑むのには十年早かったね。こんな手品にも引っかかるなんて、未熟にもほどがある」


 男は、一つの死体の顔に手をかざす。すると、金髪は黒髪に、瞳翠玉エメラルド色の瞳は黒く、父親の顔は別人へと変貌した。それを目の当たりにした少女は我に返り、憎しみの視線を向ける。


「ック……ヒック……卑怯者」


 先ほどの気丈さは微塵にも感じられない。すでに仮面は剥がれ、年相応の幼さが顔を出している。


「ふむ……このまま殺すのもいいが、それでは面白くないな」


 闇魔法使いは、少女の頭を優しく撫でる。その掌からは闇が発生し、全体を覆って、やがて彼女の体内に霧散した。


「……なにをしたの?」


「ククク……それは、再会してからのお楽しみだ」


 愉快そうに答え、男は背を向けて歩きだす。


「生かしたこと……後悔するわよ!」


「……違うな。君は生かされたことを後悔するんだ」


 そう言い残して去っていく後ろ姿を、少女はいつまでも瞳に刻み込んでいた。

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