第7話ようじょ、親友とアスティスプマンテを楽しむ
「なんでわたしの家の前にいるですか?」
寧子が声をかけると膝の間に顔を入れていたクロエが顔を上げる。
「ネコちゃん、待ってたネ……」
クロエは涙で真っ赤に充血した蒼い瞳を向けて来る。
本気の涙と分かった。
しかし、どうしてそんなにまでクロエが泣くのか、皆目見当もつかない。
それでも寧子は、
「クロエ、お話しするのです。上がってほしいのです」
寧子は努めて優しく笑顔でそういうと、クロエは素直に部屋へ上がってくれた。
クロエを布団の無い炬燵の前へ座らせて、アスティスプマンテは殆ど空っぽの冷蔵庫の中へしまい込む。
いつもは部屋に来る度に何故か洗濯物を開いたり、部屋を物色して好き勝手に暴れまわるクロエ。
しかし今日はやはり様子がおかしく、まるで借りてきた猫のように大人しい。
とりあえずクロエのために買ったシャインマスカットのショートケーキを皿に、質素な白磁の皿へと盛って、彼女の前へ置く。
「今はシャインマスカットが旬だそうです。クロエのために買って来たですよ?」
いつもだったらケーキと聞くなり、サファイヤのような綺麗な目をより一層輝かせて飛びつく筈。
しかし今は、ちょこんと大人しく座ったまま、微動だにしない。
こんなに元気のない彼女を見るのは初めてな寧子は、さすがに動揺を隠しきれなかった
「あの、クロエ、本当に大丈夫ですか……?」
寧子は慎重に、囁くように聞いた。
実際は短いのだろうけど、寧子にとっては長い沈黙が狭いアパートの一室に流れる。
「ごめんなさいネ……」
やがてクロエの桜のような唇が震え、消え入りそうな謝罪の声が寧子の耳に届く。
「なんで謝るですか? お店で騒いだことですか?」
ややあってクロエの首が立てに振れた。しかしどうもそれだけではないらしい。
「他に何かあるですか?」
「……」
「クロエ?」
「分んないネ……」
「えっ?」
クロエの肩に力が籠るのが分った。
「ワタシも分かんないネ。ネコちゃんが、佐藤さんとそういう関係になったってしったら、急に胸が苦しくなって……涙が出てきて……。ネコちゃんが、寧子ちゃん彼氏ができたんだったら、それはとっても嬉しいことなのに……」
「か、彼氏ぃ!?」
思わず寧子は声を上げて、クロエは驚いたように顔を上げる。
「だって寧子ちゃん、佐藤さんに大人にして貰ったネ?」
「ち、違うです! それはわたしの言い方が悪かっただけなのです!!」
「?」
「佐藤さんはこの間、ワインを買おうとしたわたしに年齢確認をしなかっただけです! わたしのことを大人って認めてくれたっていうか……とにかくそれだけです! 誤解するような言い方してごめんなさいなのです」
寧子は座ったまま頭を深く下げた。
ずっと張り詰めていた部屋の空気が緩まったような気がした。
「そっか……そういうことなんだ……良かったネ……。ネコちゃん、頭上げてネ。ハリィ、アップ!」
頭を上げるとクロエにいつもの調子が戻ったようで、すっきりとした笑顔を浮かべている。
未だになんでクロエがそこまで深刻な様子でいたのか分からない。
しかしこれで一件落着というのは確かなようだった。
「さぁて。アモーレネコちゃんがワタシのために買ってきてくれたケーキ頂くネ!」
「ちょっと、待つのです! 今、とっても良い飲み物持ってくるのです!」
寧子は早速ケーキを食べようとしていたクロエに静止を促し、台所へと駆けて行く。
佐藤から貰った二脚のフルートグラスを
「シャンパン?」
「違うのです。シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方から産出されたものを指すのです。これはイタリアのスパークリングワインなのです」
「そうなんだ。知らなかった。ネコちゃん、物知りネ!」
「お金入ったら買おうと思ってたやつです。甘口だし、これならクロエと一緒に飲めるかなって。ケーキとの相性もいいらしいですし、一緒に飲もうなのです!」
クロエは蒼い瞳を輝かせ、頬を真っ赤に染めて笑顔を浮かべた。
では早速開けようと天辺に赤い帯のようなつまみを見つけたのでひぱってみた。
赤い帯がぐるりとボトルの首を一周して、アルミ箔が綺麗に取れる。
針金でがっちりと固定された、薄い金属の蓋で押さえつけられた丸いコルク栓が現われ、寧子は首を傾げる。
(これキャップではないのですね。どうやって開けるのですかね?)
「ネコちゃん、ちょっと貸して」
するとクロエがボトルを手に取った。
ボトルの横でねじられていた針金を解いて、コルク栓を覆うように手でつかんだ。
「シャンパ……スパークリングワインはね、思いっきり開けるのはあんまりいいマナーじゃないネ。静かにそっと開けるのが、
グッド、なんだネ?」
「へぇ、そうなのですか! さすがはフランスの血筋。さすがですね!」
「良くマンマに開けさせて貰ったからネ。それじゃ……」
クロエは手で覆ったコルク栓に力を込め、捩じる。
寧子の部屋に”ポン!”と軽快な音が響き渡った。
「ジーザスッ!」
「まっ、良いじゃないですか。気持ちいい音でしたよ?」
「ジュシィ ディズ リィ……」
どうやらフランス語で”ごめんなさい”と云っているようだった。
気を取り直して、寧子はクロエと自分のフルートグラスへ、万応じしてアスティを注いでいった。
やや緑色がかった黄色の外観は、青葉のように綺麗で美しい。
グラスの底から液面へ駆けて、真珠のネックレスのように継続的に泡が立ち昇っている。
注いだだけでもはっきりと感じられる甘くて豊潤なマスカットの香り。
思わず笑みがこぼれ、口の中にどんどん潤いを感じる。
寧子とクロエは示し合わえることもなく、同じタイミングでグラスを手に取った。
「ア・ノートル・アムール《私たちの愛のために》」
「なんですか?」
「乾杯って意味ネ。さっ、ネコちゃんも!」
「あ、うん……ア・ノートル・アムール」
「ア・ノートル・アムールッ!」
軽くグラスを打ち鳴らし、グラスを傾けて、ワインを口の中へ流し込む。
途端、強めだが優雅なマスカットの香りが口いっぱいに広がって、鼻へと抜けた。
舌を打つ泡も、炭酸飲料のそれとは違い、まるで滑るように滑らかで心地が良い。
しっかりとした甘みを感じるも、綺麗な酸味がそれを支えて、絶妙なバランスを取る。
飲み込んだ後に、ほんのわずかに残る苦みは、大人な後味を演出してくれた。
「セ ボン……アメージング……! これがネコちゃんが好きになった味なんだね。凄く美味しいネ……」
寧子よりも先にクロエは美味しさに歓喜の声を上げる。
「本当に美味しいですねぇ」
寧子もまた芳醇なマスカットの香りと、大人な味のバランスにうっとりと浸る。
三角に切り分けられたケーキにフォークを入れて、真っ白な生クリームを纏った黄金のスポンジケーキを、エメラルドのように輝くシャインマスカットと一緒に頬張った。
ケーキの上品な甘みとシャインマスカットの芳醇な香りを口の中で楽しみ、そしてグラスの中で綺麗な泡を上げ続けるアスティスプマンテを一口。
「「ボーノ!」」
寧子とクロエは声を揃えて、叫んだ。
口の中に残ったケーキとマスカットの風味が、アスティで増幅され、口いっぱいに広がっていた。
「これがマリア―ジュだネ」
「まりあーじゅ? 結婚的なものですか?」
「うん。お料理とお酒が出会って、交じり合って、一つの形を成す……ワタシとネコちゃんみたいネ? このボトルの天使たちもネコちゃんとワタシみたいネ!」
「別にクロエと結婚する気はないですよ?」
「オーマイガッ!」
寧子はすっかりいつもの調子に戻った親友とケーキを食べて、お酒を交し合う。
こうして誰かと食事を一緒にして、酒を酌み交わすのって本当に幸せで楽しい。
そう思う寧子なのだった。
「ネコちゃーん、アモーレ! ワタシとマリア―ジュしよネー!」
「ちょ、ちょっと、クロエ酔ってますか!? くっつかないのです!」
「ネ、ネコちゃん、ワタシ、もう我慢できないネー!」
「だからクロエ、変なところ触……ひゃう!!」
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