第2話ようじょ、黒猫のワインと出会う


 部屋の明かりを付け、まずはジャブジャブ手を洗って、ごろごろとうがい。

この習慣のおかげなのか、これまで殆ど病に伏したことのない寧子は、20歳になってもこれはちゃんと続けていこうと思った。

 そうして準備を終え、買い物袋から6Pチーズや、薄切りサラミ、クルトンと粉チーズがまぶされている野菜サラダを、布団を取り払った炬燵の上へと並べてゆく。


いかにも”おつまみ”を並べて満足した寧子は、万応じて、買い物袋から今日の主役たちを取り出した。


レジ袋から登場したのは350ml缶が2本に、その倍くらいの細長いガラス瓶が一本。

 銀色の350ml缶に記載されている【これはお酒です】【お酒は20歳になってから】の記載を見て、寧子は満足げに鼻息をふふんと鳴らした。

 昨日まではこの記載が畏れ多く、手に取ることさえ憚れていた。


 しかしどんななりであろうと、例えどこからどう見ても「ようじょ」な寧子であっても、書類上でも年齢上でも彼女は間違いなく成人、二十歳。


(もう誰にも子供っぽいとか、そうみえないとか言わせないのです! だって今日からわたしは成人! お酒が飲める歳なのです!)


 寧子は勢いよく”生ビール”の記載がある、未成年だった自分でも良く知っている銀色の缶を掴んだ。

緊張で震える指先でプルタブを手前へ引くと、プシュッとコーラのような軽快な音が響く。

 そして恐る恐る蕾のような唇を缶に当て、子供のように血色の良い口腔へ、黄金のビールを流し込んだ。


「に、苦いッ!!」


 苦みが舌を突き指し、浸食するように広がってゆく。

 液体を吐きだす訳には行かず、とりあえず口に含んだビールを飲みこんで缶を口から放した。

 炭酸はコーラに比べて柔らかく刺激は少ない。それは良かったのだが、想像以上の”苦み”が舌の上で踊り狂っていた。

 念のためにと買っておいたミネラルウォーターのボトルを開けて、下の上に残る苦みを消し去るためにゴクリゴクリと飲みこみ口の中を洗い流す。


(こ、これが大人の、味なのですか……みんな良くこんなものを美味しそうに飲めるのです……)


 やはり大人の味は未だ自分には早かった。悔しいが仕方がない。

人間やせ我慢をするよりも、ダメなものはダメと認めてるのが正しい。

そう自分自身へ言い聞かせ、次の缶へ手を伸ばす。


 寧子は何を隠そう、みかんが大好物。

そのお酒ならば美味しいはずとブラッドオレンジ果汁を使った”缶酎ハイ”を購入していたのだった。


 ビールよりも遥かにジュースに近いそれは手にとっても緊張せず、プルタブを押し込んでも炭酸飲料となんら変わりのない軽快な解放音が沸き起こる。


 これならば大丈夫な筈。

今度こそは大人の階段を昇ろうと、ブラッドオレンジ味の缶酎ハイを一口グビリ。


「……な、なんですか、これは!? ぐへぇ~……」


 とりあえず勿体ないので液体は飲みこみ、あまりの味に耐え切れずに部屋で一人叫んでしまった。

急いでミネラルウォーターで口の中を洗い流すが、それでも最大の敵”人工甘味料”のしつこい香りが口の中を支配し、更に鼻の奥までをも己が領地にしようと侵略してきている。


 ジュースのように甘く、しかし苦くて、更に甘たるい人工甘味料の匂い。

まるで駄々をこねる子供へ無理やり薬を飲ませるために製造されたシロップのような、想像を絶する味わいは寧子の心を粉々に砕いていた。


(大人はこんなものを飲まなきゃいけないのですか……なんでこんなまずいものをみんな喜んで飲んでいるのですか……)


 寧子の中から大人への憧れが遠のき、子供な自分が向こう側から”戻っておいでよ”と囁きかけている。


(やっぱり、わたしは二十歳で成人でも、見た目通り子供なのですか。お酒も飲めないお子様に収まるしかないのですか……)


 しかしまたビールや缶酎ハイを手に取る気にはなれなかった。

もうおとなしく、おつまみとして買ったチーズやサラダで腹を満たして寝てしまうのが正解なのか。


 そんな中、炬燵の上に置いたスマホがピコリ~ンとアラームを響かせる。


緑の枠で囲われた会話アプリのウィンドが勝手に展開される。



●クロエ

『ネコちゃん、ケーキなうネ!』


 ウィンドをタップすると、青目でフワフワとした金髪の少女と、フルーツのたくさん乗ったケーキのツーショットが映し出された。


●クロエ

『このケーキ、ボーノボーノ!』


●クロエ

『素晴らしいこの味はこの世のパラダイス!』


●クロエ

『アモーレ! 一緒に食べようよネ! にゃんにゃん! ネコちゃーん!』


スタンプ

*にんまり微笑む可愛くない黒猫




 相変わらず友達のクロエからのすこしおかしなメッセージがびっしりと並んでいた。

 恋人アモーレに少しうすら寒さを感じた寧子はベッドへスマホを投げ捨てるのだった。


(やっぱりクロエとケーキを食べた方が良かったですかねぇ……)


お酒への憧れや想像が強かったがために、現実を叩きつけられた衝撃は思いの他強烈だった。


そうしてようやく、自分が三本目を買っていたことを思い出した。

 

 細長くガラス製の、深い緑色をした瓶。

ラベルには可愛らしい”黒猫”が描かれ、黄金の瞳をあさっての方向へ向けている。


 ドイツ語表記で大きく書かれた”ツェラー シュヴァルツカッツ”という表記。

大学で一応ドイツ語の授業を取っていて、なおかつ中学の時はすっかり”中二病”を患っていた寧子さん。

シュヴァルツカッツ”という意味だけは理解し、その名前にかつての中二病が疼いてしまっていた。


 アルコール度数は9%程度。裏ラベルには日本語で”フルーティー”や”飲みやすい”などという、実に初心者向けの文句が躍っている。


 これは【ワイン】という酒らしい。ワインと云えば、とても偉そうな人やお金持ちが「これは何年ものだぁ!」とか「ああ、みえる! 風光明媚な草原の中に独り佇み、優雅なひと時を過ごす風景が!」なんて表現をするとてもお高いイメージが支配的であった。


 しかしこのシュヴァルツカッツというワインは、コンビニのワインコーナーの、しかも棚の舌でひっそりと埃を被って居いた。

値段も一本800円程度。

なによりも目を引いたのが”黒猫”のイラストであった。

かつてネット上でのハンドルネームが【シュバルツカッツ】だった寧子にとって、そのワインの名前は他人事に思えなかった。

 そんな訳で買い物籠へ放り込み、そして今に至る。


 ラベルの上でじっとこちらをみつけている黒猫が、まるでお酒が飲めない自分を小ばかにしているんじゃないとさえ思えてくる始末。


(せっかく買ったんだし……)


 寧子は黒猫のボトルを手に取り、パキンと音を立てながらキャップを回した。

 一人暮らしを始めるときに、何かと心配性な父親が荷物に潜ませてくれた真新しい小さなワイングラスを炬燵の上に起き、黒猫のワインを注いでゆく。


 透明なグラスへ少しとろみを感じさせるレモンイエローの液体が注がれてゆく。

それはまるでボトルに描かれている黒猫の瞳のようにキラキラと輝いて美しい。

 その見た目から警戒心が薄れた寧子が鼻をグラスへ近づけると、


「あっ、良い匂いなのです……」


 思わず頬が緩み、自然とそう口走る。

匂いから甘い雰囲気は感じる。しかしそれだけではない。

しかしどこかで嗅いだ事ある様な匂いは、寧子に高校の頃の記憶を蘇らせる。


 高校時代、寧子は陸上部に所属していた。

炎天下での走り込み、厳しい練習の数々。

そんな中で、いつもマネージャーが出してくれた思い出の味。


 レモンの砂糖漬け。


 何の変哲もない輪切りにされたレモンに砂糖がまぶされたものである。

そんなシンプルなものではあったが、厳しい練習でくたくたに疲れた体には、レモンの酸味とそれをふわっと包み込むような砂糖の甘みが心地よかった。その時の記憶は今の昨日のことのように寧子の中で生き続けている。


(そうです。この香りはレモンの砂糖漬けです! 懐かしい!)


 そしていよいよ口の中へ。

まず訪れたのが優しい甘みだった。しかしすかさず、レモンよりも柔らかく、ミカンよりも強い酸味が訪れた。まるで甘みと酸味が支え合うように調和し、口の中が幸せ一色に染まってゆく。

 ゆっくり飲みこんだ後に、ほんのちょっぴり苦みが残るが、全然いやらしい感じはしない。


 レモンの砂糖づけような、レモンキャンディーと舐めているような。

とても心地よく、生まれて初めて感じる甘美な瞬間。


「美味しい……」


 頬が熱いのは感動なのか、ただ単にアルコールが回ったためなのか。

しかしいずれにしても、今の寧子の気持ちはほぐれ、五感が感動を覚えているのは確か。


「これで800円、しかもワイン。くふふ」


 思わず笑みをこぼしながら黒猫のワインを傾け、チーズをかじる。


 ずっと思い描いていた大人の時間を満喫しつつ、寧子の成人としての初夜は静かに更けて行く。



●クロエ

『ネコちゃん、既読スルー寂しいのネ』


●クロエ

『ああ、愛しのワタシのアモーレ、ジュリエット! どうか無視しないで欲しいのネ……』


●クロエ

『ネコちゃん!? ホント、無視しないで! ケーキ今度買ってくからネ! 一人で食べちゃったの謝るからネ! ワタシ、ネコちゃんのことイッヒリーベンリッヒ!!』



 そんなクロエからの情熱に満ちた愛のメッセージに寧子が気づいたのは翌朝のことだった。


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