第9話ようじょ、自分の趣味のためバイトを始める
(このままではいけないのです……!)
とある平日の午後。授業が午前中だけで、家に帰った寧子は頭を抱えていた。
ワインにはまってからというもの、ブラウザのブックマークには、飲んでみたいワインの銘柄でびっしりと埋め尽くされていた。
両親からは普通の生活を送るのに事欠かないくらいの仕送りは受けている。
しかし今飲んでみたいワインを購入してゆくとなると、明らかに足りない。
というか、生活のために送ってもらっている仕送りを趣味で使いまくるのはどうかと思った。
それでも色々飲んでみたいという欲は収まらず。
(趣味のお金は自分で稼ぐです!)
善は急げ、決めたら即日。
その信条に従って寧子は通販サイトのウィンドを閉じ、検索エンジンに”アルバイト”と打ち込んだ。
最近は便利なもので、GPSの位置情報を基に、アルバイトと打ち込むだけで近隣の求人情報がずらりとならぶ。
それでも検索数は万を超えていた。
(なんのバイトをするですかね?)
ベターにコンビニか、ファミレスか、焼肉チェーンか、ドラッグストアか。
ネームバリューから真っ先にそれらのアルバイトが浮かんだが、思い留まる。
場所や経営者にもよるのだろうが、有名なところほど、案外業務がきついと聞く。
結果講義は寝てばかり、昼夜が逆転し、学生生活に多大な支障をきたしている学生が多数いるらしい。人それをブラックバイトという。
それでは本末転倒。よって却下。
とりあえず条件として、日が変わるまでには確実に閉店し、時給も怪しげな四桁のものは除外し、そこそこのものののみ閲覧することにした。
(OSIROで募集していれば最高なのですが……)
趣味と実益をかねるとそうなる。
初めてのアルバイトなので顔見知りである佐藤が先輩としていてくれることも心強いと思う。
しかし残念なことにOSIROでのアルバイト募集は出るのだが、それは既に過去のものであった。
さていよいよどうするかと思っていたところ、寧子の猫目がとある一文が捉えた。
【ワインバー補助業務】
電流のような衝撃と共に、寧子は迷わず人差し指でタップした。
営業時間は23時まで。時給も三桁台でそこそこ。ワインの知識も不問。さらにまかないもつくらしい。
それが【ワインバー:テロワール】の求人条件であった。
「これです……!」
これは運命だと思った。酒の神バッカスより天啓が下ったのだと信じて疑わなかった。
寧子は迷わず、電話番号をタップした。
「こ、こんにちは! アルバイトの求人をみて電話しましたです。担当の
●●●
ワインバー:テロワール
そこは案外、寧子のアパートの近くにあった。
坂を下って駅前に出た、北口の雑居ビルの地下一階。
しんと静まり返った、少し薄暗い地下道は、かつて愛読していてファンタジーラノベのダンジョンと彷彿とさせる。
そんな現代のダンジョンの壁にひっそり掲げられた、小さな看板。
真新しい看板には筆記体で【ワインバー:テロワール】
寧子は控えめだが、きちんと音が響くように木製の扉をノックした。
「はーい!」
扉の向こうから電話で聞いた、少し甲高い女性の声が聞こえてきた。
「い、石黒です! アルバイトの面接をお願いしました……」
寧子が言い終えるよりも早く扉が開く。
姿を見せたのは、黒いエプロンを付けた、クロエのような髪色がブロンドな可愛らしい女性だった。
背は寧子ほどではないが小さく、瞳は薄いブラウン。
しかしエプロンの胸の辺りはしっかりと隆起していて、むしろ大き目な方だった。
寧子とは比べ物にもならず。
ようじょではないが、それでも愛らしくて、少し幼さの残る容姿。
まるで子犬のような。
それが店主である”菅原さん”の第一印象だった。
「待ってたよ、ささっ、入って入って!」
菅原さんに促され、生まれて初めてワインバーへと踏み入る。
ランプの炎のような暖色の照明が、落ち着いた店内を優しく照らしていた。
8席ほどのカウンターと、ボックス席が六つほど、外からの見た目に反して広々としていた。
カウンターの上には色んな形のワイングラスが逆さ吊りにされていて、クリスタルのような輝きを放っている。
気取ってはいないが、それでも大人を感じされる落ち着いた光景が広がっている。
寧子は少々自分には場違いなんじゃないかと思った。
「どうぞ、座って」
しかし凄く親しみやすい菅原さんの声が聞こえて、ホッとした寧子は促されるがままボックス席の、丸椅子に腰を下ろす。
菅原さんは
「では改めまして、ここのお店の責任者をやってます”菅原 ラフィ”っていいます!」
「あ、えっと……石黒 寧子です! 今日は宜しくお願いしますです!」
「宜しくね、石黒さん。早速だけど履歴書みせてくれる?」
「はいなのです!」
生まれて始めて記入した履歴書を菅原さんは受け取って、目を落とす。
なんとなく菅原さんに尻尾があったら、後ろでブンブン振れているのではないかと思った。
なんでそんな変なことを思ったのかは分からないが。
「石黒さん、本当に聖華の文学部なんだ」
「え、ええ、まぁ……」
「気を悪くたらごめんなんだけど、最初は本当に成人なのかなぁって思って」
「気にしないでください。慣れてますです」
そういう菅原さんも結構な童顔だと思ったが、今はどうでも良い話なので黙っておいた。
「よし!」
菅原さんがちょっと張りのある声を上げた。
恐らくここからが面接の本番。
志望動機などはあらかじめ用意して準備万端。
なんで「うちで働きたいの?」なんていう少しいじわるな質問にも解答は用意している。
ネット上で確認した面接のノウハウは大体読みこんだし、応答も十分に準備できている。
(さぁ、来るです! なんでも来いなのです!)
「いつから出勤できる?」
「へっ?」
気合十分な寧子から間抜けた息が漏れ、シックな店内に情けなく響き渡る。
「もしよければ、うちは今日からでも大丈夫だよ?」
「いやいや、そうじゃなくてですね!」
寧子は驚きのあまり声を上げるが、菅原さんは首を傾げた。
「うちで働きたくないの?」
「あ、えっと、それも違いまして……」
かなりしょんぼりとしている菅原さんに、寧子はしろどもどろになって答える。
なんとなく菅原さんに尻尾があったら、力なくたれさがっているような気がした。
何故だかは分からないが。
「なんでそもそもロクに面接もしないで即採用なんですか?」
「勘!」
「か、勘って……」
「だってそもそもワインバーのアルバイトをしようだなんて、きっとワインが好きなんだろうし。っていうか、人足りてないし……そんな時に想像以上に可愛くて、ワインに興味があって、うちみたいな不気味な店に迷わず応募してくれた寧子ちゃんを逃す訳ないじゃない!」
菅原さんは冗談のような言葉を、凄くまじめに叫んでいた。
きっと菅原さんに尻尾があったら、そこはピンと立って、勢いよくブンブン横に振れていたんだろう。
と寧子は、何故か思った。
「お願い寧子ちゃん、是非うちで働いて。お願い! わたしは寧子ちゃんのことが欲しいのっ! 心の底からっ! あなたの力が必要なのっ!」
菅原さんは懇願するように子犬のような純朴な瞳に寧子を写す。
少し妙な人だが、悪い人ではなさそうだった。
それに人生で初めて誰かに”欲しい!”と力強く叫ばれ、悪い気はしなかった。
「わ、わかりましたです。こちらこそお願いしたいです、菅原さん。不束者ですがどうぞよろしくお願いしますなのです」
「やったぁー! 宜しくね!」
ハイテンションな菅原さんは抱き着かんばかりの勢いで握手を求め、寧子もたどたどしくそれに応じる。
やっぱり菅原さんの肌はかなりすべすべで、手はぷりんとしていて、幼い印象だった。
「わたしのことはこれから気軽に”ラフィ”でいいからね。寧子ちゃんと沙都子ちゃんとわたしで”テロワールのテロワール”をもっと良くしようね!」
「てろわーるのてろわーる?」
菅原さんの言っていることが良くわからなかった寧子は首を傾げた。
「テロワールってのはね、、水や空気、日照時間や、土、その土地の文化をひっくるめてブドウが良く育つための環境を現す用語なんだ」
「へぇ」
「で、うちのお店の名前は”テロワール”。意訳すると、『このお店に寧子ちゃんって新しい環境が加わって、より良いテロワールになった。よってお客さんにとってより楽しくて美味しくワインが飲めるところになるはず』そんな感じ?」
「は、はぁ……」
わかったようなわからないような、しかし”テロワール”という用語の意味は何となく理解できた寧子さん。
いつの間にかラフィさんが、自分のことを”寧子”と呼んでいることは今更突っこんでも仕方がない。
(なんとなくラフィさんってクロエっぽい? もしかすると凄く気が合うかもですね)
そんなことを寧子が考えていた時のこと。
「おはようございます」
「おはよー
聞き覚えのある声が店の入り口から聞こえ、ラフィさんが元気よく答える。
「あっ!」
「あっ!」
思わず寧子は驚きの声を上げ、彼女もおなじリアクションを取った。
少し青みがかった長い黒髪に、凄く大人びた容姿。相変わらずすらりとした体躯にシンプルなタートルネックのセーターとロングスカートが凄く似合っていた。
寧子とは月とすっぽん。ウサギとカメ。
しかし遠い存在では無く”ワイン好き”という点で共通している。
どうやら以前寧子の隣の席でワイン本を読み、OSIROの店先で再会した彼女は”沙都子”と言う名前らしい。
そしてラフィさんの運営する【ワインバー:テロワール】で働いているようだった。
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