第5話ようじょ、酒屋に立ち入る
長い長い夏休みが終わって早々、寧子は大学の大講堂で必修科目の授業を受けていた。
しかし講義内容は右の耳から入って、左に抜けて行くだけ。
放課後の楽しみもあるのだが、今の興味は講義そっちのけで、授業とは関係のない本を読んでいる”隣の席の彼女”へ、である。
青みがかった長い黒髪は艶やかで美しく、少し眠たげな瞳が可愛らしい。しかし背は高く、本に添えられた指先は長くて綺麗だった。身形もシンプルなタートルネックのセーターとロングスカートであるが、クールな雰囲気の彼女には良く似合っている。
これこそ女子大生。「ようじょ」な寧子とは大違い。
住む世界が全く違い、こうして隣に座っている寧子とはギャップがあまりに有りすぎる。
それでも寧子は、名前も知らない彼女にたった一つの共通点を見出し、興味を注いでいた。
正確には彼女が授業そっちのけで呼んでいる”本”へ、ではあるが。
【誰でも分かる! 初心者ワインガイド!】
絶対に住む世界が違うだろう彼女。
しかし”ワインへの興味”という点では共通している。
それがなんだか嬉しくて、大人びた雰囲気の彼女と一緒なようで、寧子は嬉しくてたまらなかった。
ちらりと横目で本の内容を盗み見る。
どうやらブドウのページを読んでいるようだった。
ページ一杯に同じようなエメラルドグリーンや、少し黄色がかったブドウの写真が掲載されている。
(シャル、ドネ? リースリング? ソーヴィニョンブラン……あっ、甲州なんて漢字のブドウもあるのですね)
「あの……」
気がつくと名前も知らない隣の席の彼女は、訝しげな視線で寧子を見つめていた。少し顔が赤いのは覗き見られた怒りのためか、否か。
「す、すみませんです! 気になってつい……」
寧子はそそくさと身を引き居住まい正す。
どうやら興味が先走り過ぎて、身を乗り出して彼女の本を覗き込んでいたようだった。
この先どう言い訳をしようと思っている時、万年講師が講義の終了を告げた。
講師が退出し、大講義室は堅苦しい空気から一瞬で解放される。
「えっと……」
「アモーレ! ネコちゃーん!」
名前も知らない彼女の声を打ち消す様に、甲高い声が響く。
そして体当たりのように柔らかい何かが、小さな寧子の背中へ思いっきりぶつかってきた。
「この間から気になってたですけど、クロエはいつからイタリア人になったですか? 相変わらず国籍がコロコロ変わる忙しい人ですね?」
努めて冷静に突っこむ寧子へ、
「ぐろーばりぜぇーしょんの昨今! 国籍も言語もたくさん覚える必要がありまーすネ! だけど母国フランスのマインドは忘れてないよ、ボンジュール!」
「いや、クロエはそもそも日本生まれの日本育ちの、お母さんがフランス人なハーフですよね?」
「ばれたネ」
「ばればれです。しかも言葉の使い方滅茶苦茶なのです。なんで最後がフランス語で、しかも挨拶なのですか?」
寧子が辛辣な本音を言っても、ニコニコと受け流す彼女は【田崎 クロエ】
フランス人形のみたいな青い目に、ウェーブがかった金髪と、花のようにふわふわとした私服が良く似合う、寧子よりも二か月先に20歳となった友達である。
「ごめんなさいです、クロエがうるさく……」
気が付くとワインの本を読んでいた大人びた彼女は居なくなっていた。
(お話したかったけど仕方ないですね……)
同じ大学だから、またいつか会えるに違いない。
その時は、是非声をかけてみようと寧子は思った。
「ネコちゃん元気ないネ?」
「そうですね。クロエが突然現れたせいで、ちょっと残念なことになってしまったのです」
「オー! それはソーリー! じゃあ、お詫びケーキ食べに行こ? 奢っちゃうネ!」
「魅力的なお話ですけど、今日は遠慮するのです」
「オーマイガット! ホワイ?」
「ちょっと行きたいところがあるのです。てかクロエ、今度は英語ですか? 忙しい人ですねぇ……」
寧子の遠慮のない突っ込みにも平然としているクロエなのだった。
●●●
クロエは寧子がずーっと行きたかった場所の看板を唖然と見上げていた。
「ここがネコちゃんの目的地……?」
「そうなのです!」
【リカーショップ:OSIRO《おしろ》】
寧子が住む県内に数店舗を構えるお酒の専門店である。
辛い僅かなお米&卵のみの生活を経て、ようやく支給された、実家の両親からの仕送りとしての福沢諭吉さんたち。
シュバルツカッツ、リープフラウミルヒ。
これら以上の逸品を探し出すべく寧子は生まれて初めてリカーショップ、すなわち”酒屋”の自動ドアへ向けて一歩を踏み出す、
「モンデュ! ネコちゃんがお酒を飲むような不良になったぁー!! おお、神よ、ネコちゃんを救いたまぇ!」
クロエは珍しくフランス語で”なんてこった!”と叫んだ。
成人になってもお酒に全く興味を示さないクロエにとっては、酒屋に立ち入ることなどナンセンスなのだろう。
しかし不良とは聞き捨てならなかったが、そんなことで突っかかっても仕方がない。
そういう訳で、見た目は「ようじょ」な寧子は、クロエの言葉など無視して生まれて初めて、酒屋の自動ドアを潜ってゆく。
硝子の自動ドアは左右に開いた途端、ひんやりとした空気が寧子を撫でた。
今年は珍しく10月の上旬からずっと肌寒く、エアコンを使う必要など全くない。
しかし酒屋の店内はまるで盛夏の最中のように、冷房がガンガン利いている。
内装はスーパーやコンビニと大差無く見えるが、並んでいるは色どりどり、大小さまざまな型をした瓶ばかり。
スーパーのお酒コーナーが酒の砦ならば、酒屋はお酒のお城。OSIROだけに。
「しゃせー」
「佐藤さん!!」
ずらりと酒瓶が並ぶ異空間で見知った顔をみつけた寧子は、レジへ向かって飛び出してゆく。
「おっ……?」
するとレジで佇んでいた黒髪で長身の彼の仏頂面が僅かに崩れて、顔へ僅かに朱色が差した。
「覚えてますですか?」
「この間、スーパーに来てたよな……?」
「はいです! よかった覚えててくれて! しかもここで佐藤さんにまたお会いできるなんて最高なのです! ここでもバイトしてるですか?」
「お、おう。殆どこっち……」
「だれだぁー! 貴様あぁ! ワタシのネコちゃんとどんな関係だぁ! 名を名乗れネ!」
と、背後からかなりお怒り気味のクロエの叫びが聞こえてくる。
「クロエ、お店の中で叫んじゃダメなのです。ちょっとうるさいのです。この方は佐藤……」
「よ、ようた。太陽を反対に読む……」
親切に答えてくれた”佐藤陽太”へ、寧子はお礼をの笑みを贈る。
すると彼の顔が更に赤くなって、何故か視線を逸らされた。
「で、その佐藤陽太くんがなんじゃい! ワタシのアモーレ、ネコちゃんとどんな関係じゃいネ!」
「ちょっとクロエ、失礼なこと言わないのです! 佐藤さんはわたしの恩人なのですよ!?」
たぶんオンデマンドでみた任侠映画に影響されてるだろうクロエを寧子は制した。
「恩人? ホワイ?」
「佐藤さんはその……わたしをお、大人にしてくれた方です……彼がわたしを大人と認めてくれたです」」
「はっ……?」
突然佐藤の間の抜けた声が背中に響き、
「オーマイガっ! マンマミィーアッ!!」
「ちょ、ちょっと、クロエ! お店でそんな大声……」
「ネコちゃんが、ワタシのネコちゃんが、大人になっちゃたぁ~! しかもワタシ以外の人と!」
「なにわけのわかんないこと言ってるですか!」
さすがにふざけが過ぎると思った寧子は、クロエの女の子らしい華奢な肩を掴む。
「うっ、ひっく……」
「クロエ……?」
クロエの蒼い瞳から、涙が零れ落ちた。
ただならない雰囲気に、寧子は気おされ、クロエの肩を掴む指から力が抜ける。
「あ、ちょっと、クロエ!?」
寧子の静止も効かず、クロエは酒屋の自動ドアを飛び出してゆく。
幸い、店内には他の客も居なかったため、被害は最小限だった。
「あ、あのさ、石黒さん……なんつぅーか……」
何故か佐藤も、顔を赤く染めて言い淀んでいる。
「佐藤さん?」
「べ、別に俺、アンタが成人だって思ったから年齢確認しなかっただけだよな? でも、顔を真っ赤に染めて、大人に、なんていうとよ……」
一瞬、佐藤が何を言いたいのか分らなかった寧子さん。
しかしゆっくり、冷静に考えてみると、実は自分がとんでもないことを口走ったと思い至る。
寧子の台詞、顔の様子に、佐藤という青年が足し算されれば、否応なしにまるで”そーいうことをした”と誤解されても仕方がない。
「ううっ~、ご、ごめんなさいなのです、佐藤さん……」
「いや、仕方ねぇよ。石黒さんも気づいてなかったっていうか……」
「ああ、もう最悪ですぅ……これじゃまるでわたしビッチなのですぅ……!」
穴があるなら今すぐにでも入って姿を隠したい寧子さん。
しかし目下は生憎てかてかと輝くタイルなので、穴を掘ることはできそうもない。
「な、なぁ! 石黒さん、ここに来たってことは酒買いに来たんだろ!? なんかお勧めが欲しかったら案内しようか?」
佐藤の一声で寧子はわざわざ酒屋にやってきた目的を思い出す。
クロエへのフォローは一旦後回しにして、まずは目的を果たそうと思った寧子は、
「じゃあ、あの……アスティスプマンテ、置いてますですか?」
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