第36話 終幕 (上)

 チャレンジ十一日目。水曜日。


 今日のキャプテンの指示は、どうなんだろう。これはどうなんだろう。本当にキャプテンの指示なんだろうか。文章が滅茶苦茶だ。慌ててわめき散らしているような言葉使い。いつもの自信に溢れたキャプテンじゃない。


 だいたいこんなこと、私に出来る訳がない。こんなことをしたら、大変なことになる。


 でも。だけど。


 だけど。


 だけど、やろう。


 リストカットだって、駅ビルの屋上に出る階段まで潜り込んだのだって、興信所の写真撮ったのだって、自分にできるはずなんてないと思ってたことをやったんだ。実際にやってきたんだ。


悪魔を見る。それは自分で決めたこと。


 そのために必要なら、何だってやれなきゃ。


 怖がっちゃいけない。勇気を持つんだ。もっと勇気を持つんだ。やれる、私ならやれる、やれるやれるやれるやれるやれるやれるやれるやれるやれるやれるやれるやれる!


 絶対にやれる。やれるんだ。


 よし、台所に行こう。



 ◆ ◆ ◆



 朝。笹桑ゆかりも築根麻耶もいない朝。やっと静かな朝だ。長かった。苦しかった。よく頑張った。だがもうそれは過去の話。俺は事務所で思いっきり伸びをすると、ソファに腰を下ろしてタバコを咥えた。ライターをのんびりと探し、ゆっくりと火を点ける。まだ午前六時前。篠生幸夫の元に行くのは九時過ぎでいいだろう。


 三百万。顔が自然とニヤけてくる。海崎惣五郎から分捕った二百万と合わせれば五百万になる。一年は余裕で遊んで暮らせる金額だ。これだけあれば、次の強請りネタを探すためにじっくり時間をかけられる。ああ、いい傾向だ。やっぱり世の中は金だな。金は外から金を呼ぶし、金があると物事はいい方向に循環する。ガキとオカルトは大嫌いだが、まあ固いことは言いっこなしだろ。


 しかし延々とニヤニヤ笑っていても仕方ない。まだ仕事は残っている。とりあえずジローを起こして飯を食わせるか、俺がそう思ったとき。


 インターホンのチャイムが鳴った。鳴った。鳴った鳴った鳴った鳴った。


 ドアに走った。誰が鳴らしているのかなど、モニターを見るまでもない。


「うっせえぞ笹桑ぁっ!」


 叩きつけるようにドアを開けたそこに立っていたのは、金髪の団子頭。築根麻耶だ。


「あ」

「いや、すまん」


 申し訳なさそうな築根麻耶の後ろから、赤髪のデカい女が飛び出した。


「おっはようございまーす!」


 俺は舌打ちをし、大きなため息をついて見せた。


「あれ、五味さんイラついてるんすか?」


 キョトンとした顔の笹桑ゆかりに、さらにイラつく。


「当たり前だ。いったい何の用だよ」

「いや、先輩が五味さんに話があるっていうもんで、連れて来たんすよ」


「こんな時間にか。おまえら常識ってもんを考えろ」

「でもでも、ジロー君を起こすのっていまくらいの時間すよね。だったら話は早い方がいいと思って」


「俺には話なんぞねえんだよ。あの件はもう終わったろうが」

「すまん、五味。入っていいか」


 築根麻耶が真剣な顔でこちらを見つめている。目の前でドアを閉めてやろうかと思ったが、意地でも入ってきそうな顔だ。ああ、面倒臭え。


「すぐ出て行けよ」


 そうなるように願いつつ――でもならねえんだろうなあ、と思いながら――二人を事務所に入れた。




 ジローの前に丼のカレーライスを置き、「食え」と言ってソファに腰を下ろした。タバコを灰皿でもみ消し、新しいタバコを咥える。ライターで火を点け、向かいに座る築根麻耶に目をやった。


「で。何だよ話って」


 呪いでもかけられてるのかという勢いでカレーをむさぼり食うジローをしばらく見た後、築根麻耶は心の整理がついた顔で俺を見つめた。


「篠生幸夫の件、警察に任せる気はないか」

「ないね」


 即答した。断言した。言い切った。


「俺のやることに口は出さない。そういう約束だったはずだが」

「わかってる。だが、この件は大きすぎる。社会に与える影響を考えてみてくれ」


「それは俺の知ったこっちゃねえ」


 そう言い切って天井に向かって煙を吐く。しかし築根麻耶は食い下がった。


「篠生幸夫には法的制裁が加えられるべきだ。それが社会正義だろう」

「だから何だ。俺に何の関係がある。正義の味方になった覚えはないんでな」


「捜査に協力してくれれば、県警から金一封が出る」

「おい、本気で言ってるのか。そんなはした金で飯が食えると思ってんのかよ」


「篠生幸夫を捕まえて全容を解明しなければ、自殺サイトで死ぬ人間がまだ出るかも知れないんだ」

「ああそうかい、そりゃ大変だな」


 俺は上着を手に立ち上がった。もう我慢の限界だ。話は聞いてやったんだ、文句を言われる筋合いはない。ジローはカレーを食べ終わっている。


「ジロー立て。歩け。行くぞ」


 ジローが立ち上がり、築根麻耶も立ち上がった。


「待て、どこに行く気だ」

「ここにいたけりゃ勝手にしろ。あいにくと俺は忙しいんだ」


 そして玄関のドアを開けた。




 階段を下り、歩道を横切る。路肩に銀色のクラウンが駐まっている。とりあえずファミレスかどこかで朝飯を食うか。そう思いながらクラウンのドアに手をかけた。その腕を後ろからつかむのは築根麻耶の手。


「待て五味。まだ話は終わっていない」

「うっせえな」


 怒鳴りながら振り返った。我ながら相当頭に来てたんだろう、だからそのときまで気付かなかった。すぐそばに人が立っていることに。制服姿。女子高生だろうか。どこかで見覚えのある制服。朝の陽光に、振り上げた右手の尖った先端がきらめく。逆手に握られているのは、柳刃包丁か。妙にハッキリと見える。それはスローモーションのように音もなく俺の胸に向かって振り下ろされた。


 だが。


 包丁は空中で止まった。白いリストバンドを巻いた細い手首をつかまえているのは、ジロー。


 そして世界はスピードを取り戻す。築根麻耶が女子高生の右手をねじり上げた。アスファルトに落ちた包丁をつま先で蹴り飛ばし、女刑事は相手を地面に押しつけた。


「どういうつもりだ! 何をしてるのかわかってるのか!」

「痛い! だってキャプテンが、痛い、放して!」


 その一言で、コイツの言わんとしていることがわかった。「キャプテン」。ああ、なるほど。そういうことなのか。俺はしゃがみ込むと、女子高生に顔を近づける。


「おい、おまえ」


 そして続く俺の言葉に、暴れていた女子高生の動きが止まった。


「悪魔が見たいか」

「え……」


「悪魔の見方を教えてやろうか」

「何で、それを」


 築根麻耶に押さえつけられながら、女子高生が顔を上げる。目の下にクマが濃い。やつれて疲れ切った血色の悪い顔。その絶望に満ちた表情の中で、ただ瞳だけが希望を探してキラキラと輝いている。


「おまえには勇気がある。度胸がある。凄いな。だから悪魔の見方を教えてやるよ」


 俺は満面の笑みを浮かべてこう言った。


「悪魔を見たくないと思え。悪魔なんて死んでも見たくないと心の底から思え。そうすりゃ向こうからスキップで姿を見せに来やがる。悪魔ってのはそんな連中なんだよ」


 その後、女子高生がどんな顔をしたのかは知らない。俺は背を向けて立ち上がったからだ。


「ジロー、車に乗れ」

「おい、待て五味!」


 築根麻耶の声を無視してクラウンに乗り込むと、エンジンをかける。篠生幸夫だ。ヤツが悪魔の羽根を使って、俺を殺せとあの女子高生に命じたに違いない。だからガキとオカルトは大嫌いなんだ。


 クソ野郎、タダじゃおかねえ。アクセルを踏み込むと、後輪がホイルスピンを起こしてスキル音を上げる。そしてクラウンは、銀の弾丸のように道路に飛び出した。

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