強請り屋 悪魔の羽根顛末

柚緒駆

第 1 話 五味民雄 (上)

――人間じんかん五十年、化天げてんのうちを比ぶれば、ゆめまぼろしの如くなり




 そのとき針矢純一郎の目には、縄張りに侵入された猿の如き怒りと軽侮が浮かんでいた。


「何してるんだ、こんなところで」


 大帝邦製薬の先端薬剤研究所。地下にあるシステム操作盤室の前に見知らぬ男が立っている。今日は本社のお偉方が視察に来ているため、万が一に備えてシステムを止め、地下勤務の人員は全員、上の連中のサポートに回っているのだが、うっかり忘れ物をしてロッカールームに戻ったところ、この男と出くわした。


 男の作業服の色は青。年齢は自分の父親ほどではないかと針矢純一郎は思ったものの、そこに年長者に対する敬意は浮かばない。


「その作業服、サイノウからの出向だよな。このフロアに用はないはずだ」


 男の胸の名札には「本木崎」と書いてある。


「何とか言えよ、本木崎」


 息子のように若い正職員に声を荒げられても、本木崎は表情一つ変えなかった。静かに、憐れむかのように見つめている。それが針矢純一郎には気に入らない。


「ここはおまえらみたいな下請けの出向組がデカいつらできる場所じゃないんだぞ。何ならいますぐサイノウの担当者に連絡して、おまえをクビにでもしてやろうか。それが嫌なら、ここにいる理由を説明しろ。いったい……」


 そこでようやく針矢純一郎は気付いた。あまりにも慣れ親しみ過ぎて、いままで聞こえていることに何ら不自然さを感じなかった音に。


「圧力ポンプの音?」


 今日は停止され、本来聞こえるはずのないその音が、段々と大きくなって行く。誰かが動かしたのだ。誰が。考えるまでもない。


「本木崎、おまえが動かしたのか」


 それでも本木崎は答えない。静かに、ただ静かに立っている。針矢純一郎は不気味さを感じはしたのだが、いまはそれどころではない。すぐにポンプを停止しなければ、自分まで上司から責められるだろう。急いで操作盤室に入ろうとした彼の前に、しかし本木崎が立ちはだかる。


「悪いな」


 本木崎が初めて口を開いた。けれど、もうそんなことはどうでもいい。針矢純一郎の意識は、どんどん大きくなるポンプの音と、操作盤室の中からけたたましく響く警報音に向けられている。


「何をした。何をしてる。そこをどけ!」


 針矢純一郎は本木崎につかみかかり、必死にドアの前から引き剥がそうとした。なのに年老いた本木崎は岩の壁のように動かない。


「悪いな」


 同じ言葉を繰り返した口元に笑みが浮かんだとき。


 どこかで何かが砕け、破裂する音がした。



 ◆ ◆ ◆



 チャレンジ二日目。月曜日。


 六時十六分にセットした、スマホのアラームで目が覚める。七時になれば母さんが起こしに来る。それまでの間、キャプテンに指定された動画を見なければならない。


 たぶん外国のホラー映画なのだろうとは思うけれど、人が殺されてバラバラにされる映像。グロい。気持ち悪い。正直こういうのはあんまり好きじゃない。でも頑張って見ないと。


 左の腕がちょっと痛い。Tシャツをめくって見たら、赤く腫れ上がっている。昨日コンパスの針で彫った616の文字。母さんに見つかったら何て言われるだろう。


 でもキャプテンは褒めてくれた。


「クズ同然の醜いおまえに残った最後の勇気だ」


 別に勇気なんて必要なかったと思う。けどもしかしたら、こんな醜い私にも勇気があるのかな。これくらいのちょっとした勇気で見られるのかな。この目の前に現われてくれるのかな。


 いつか、悪魔が。



 ◆ ◆ ◆



 その小柄な若い男は髪を綺麗に七三に分け、紺色のスーツに黒い革靴、黒いカバンで、顔には営業スマイルが貼り付いている。警察官というよりは安物の銀行員に見えた。


「県警財務課の清水と申します。鹿沼敏一さんのお母様でいらっしゃいますね」


 玄関先に立つ鹿沼トシ江は、沈痛な面持ちで白髪頭を深く下げた。


「どうも、息子がご迷惑をおかけして」

「いえいえ、こちらは仕事ですのでお気遣いなく」


 鹿沼トシ江は顔を上げると、清水の取って付けたような笑顔をのぞき込むように見た。


「あの、息子はいま」

「はい、敏一さんは現在取調中です。まあ逃亡のおそれもないようですので、じきに釈放されると思いますよ」


「ありがとうございます、何と申し上げていいか」


 昼食の用意をしていたとき、知らない番号から電話がかかってきた。出てみると息子の敏一からで、いま警察だ、車で人身事故を起こしてしまって示談金が必要だ、と早口でまくしたてられた。それで慌てて銀行から金を下ろしてきたのだ。


「あの、それで息子がいてしまった方は」

「私は直接の担当ではないので詳しいことはわかりませんが、いま病院にいるそうです。命には別状ありませんが、全治三ヶ月くらいだそうで」


 敏一は鹿沼トシ江が三十五を過ぎて初めて授かった一人息子であった。夫と死別した後、親一人子一人で、三十余年一心同体で暮らして来た大事な息子なのだ。その息子の不始末は、母親の自分が片を付けなければならない。そう固く信じている。だから息子からかかって来た電話の内容を疑う気持ちなど、つゆほどもなかった。


「あの、被害者の方に謝罪にうかがいたいのですが、病院を教えて頂けませんか」

「そうですね、手続きが終了しましたら、また警察の方から連絡が来るかと思いますので、その際にでもお問い合わせください」


 清水と名乗った警察官は、いかにも事務的に――見ようによっては面倒臭そうに――そう言うと、大きくうなずいた。その奥が笑っていない冷たい目は鹿沼トシ江の両手に握られた白い封筒を見つめている。少し躊躇しながらも、母は息子のために銀行の封筒を差し出した。


「ではあの、これ、言われた通り三百万円入っています」

「はい、そのようにうかがっております」


「あの、本当にこのお金で」

「ええ、先方は規定の示談金さえお支払い頂けるなら、息子さんを訴えることはしないと約束されています。これで敏一さんには前科がつかないはずです」


 それを聞いて鹿沼トシ江の目には涙が浮かんだ。そして再び頭を下げながら、封筒を清水に手渡した。


「どうか、息子をよろしくお願い致します」

「はい、確かにお預かり致しました。では領収証をお渡ししておきます。県警の連絡先も書いてございますので、もし何かありましたらこちらへどうぞ」


 そして清水はカバンに分厚い封筒を入れると、そそくさと背を向け、振り返りもせず歩いて行く。少し離れた路肩に停められた白いセダンにその背中が乗り込むまで、鹿沼トシ江は見送り続けた。




 セダンは路地から国道に出るとすぐに右折し、角のコンビニの駐車場に入った。そしてエンジンを切らないまま、清水はスマホを取り出す。


「もしもし、オレ。受け取り完了。三百。それじゃ」


 短い通話を終えると、清水は再び車を出そうとした。だが、そのとき。ルームミラーに映る後部座席に突然人影が現われる。隠れていたのか。慌てて振り向こうとした清水の首に、後ろから腕が巻き付き締め上げた。


「騒ぐんじゃねえよ、お巡りさん」


 低い声がつぶやいた。


「あんた県警の財務課の人なんだろ。さっき婆さんと喋ってるの聞いてたよ。心配すんなって。俺だって警官に手出すほど馬鹿じゃねえからよ。まあ、アンタが本物の警官ならの話だけどな」


 清水は身体の動きを止め、ルームミラーを凝視した。年の頃は三十そこそこか。ボサボサの髪に無精髭を生やし、ヨレヨレのグレーのスーツに黒いネクタイを締めた男が一人。中肉中背、本当にどこにでもいそうな無個性な風貌。後で説明しろといわれたときに困るタイプだ。


「……おまえ、何だ。何のつもりだ」


 ようやく声を絞り出した清水に、男はミラーの中でニヤニヤ笑った。


「金だよ。金を出しな」

「金? 何の金だ」


「いいよ、とぼけなくても。心配すんなって。有り金全部よこせって訳じゃない。んな無茶は言わねえよ。一割でいい。三十万よこせ」

「何ふざけて」


 首を絞める男の手に力が入った。男は清水の耳元でささやく。


「ふざけちゃいねえんだな、これが。嫌ならこのまま警察呼ぶだけだ。どっちがいい。パクられて金も手に入らずに、この先ずっと仲間の報復にビクビク怯えんのと、三十万払ってここから逃げるのと。どうせおまえの取り分、二割くらいはあるんだろ。だったらここで一割払っても、まだ残るじゃねえか。悪い事は言わねえよ。三十万払って仲間のところに戻りな。今後のためにもな」




 男が後部座席から降りると、清水の白いセダンは急発進し、狭い路地の奥に向かって走り去って行った。この先には県道がある。おそらく最初からそっちに抜ける算段だったのだろう。


「毎度あり」


 男は胸のポケットを叩きながら、笑顔で見送った。

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