第35話 ガス燈 (下)
銀色のクラウンが篠生メンタルクリニックの駐車場に滑り込んだとき、午前の受付時間終了まで、あと二十分というところだった。ジローを引きずるようにクリニックの中に入れば、待合には患者らしきヤツらが三人座っている。四人連れの俺たちは、明らかに場違いだった。
受付に診察券を出すと、眼鏡をかけた白衣の女は首をかしげる。
「次の予約は明日じゃありませんでしたか」
俺は受付に顔を近づけ、小声で静かにこう言った。
「先生に急用でね、是非お会いしたい。あと、アンタにも用があるんだよ、長畑房江さん」
眼鏡の女が無表情にこちらをのぞき込む。パンクな目玉のTシャツばかりが印象に残っていたが、言われてみればこの顔は長畑房江だ。ジローがホワイトボードで指差した名前である。
「先生にお伝えしますね」
そう言って長畑房江は奥に姿を消した。まあ名前を呼ばれるまで、あと何十分かはあるだろう。その間に考えをまとめておこう。俺たちはジローの周りに座った。
◇ ◇ ◇
さて、どこから話したもんかな。とりあえず時系列順に行くか。
発端がいつなのかは俺にはわからない。おそらくは篠生先生、アンタが大学生の頃なんだろう。アンタは海崎惣五郎に恨みを抱いた。だが芽生えた復讐心は、一気には燃え上がらなかった。まだ自制心も、あるいは諦めもあったのかも知れない。何せ海崎惣五郎のおかげで大学に行けたのは事実だからな。
そうこうしているうちに時は過ぎ、何十年も経っちまった。海崎惣五郎は海蜃館大学の総長になり、アンタはいっぱしの医者になっていた。結婚して子供も出来た。娘は海蜃館大学の系列校に入学したが、それはたいした問題じゃないと思っていたんだろう。
だがそんなとき、偶然アンタは海崎志保と知り合った。いや、そのときはまだ藤松志保だったか。とにかくアンタの心の中には火が点いた。長い間くすぶり続けていた復讐の火種が燃え上がったんだ。
まずアンタは医者と患者という立場を利用して、藤松志保にガスライティングを仕掛け、混乱状態に突き落とした上で手を差し伸べた。旧家のしきたりの中で押さえつけられ、ただでさえ精神的にまいっていた藤松志保は、これでアンタの思い通りに動く人形になった。
次に藤松志保に家政婦を紹介した。長畑房江という女をね。彼女は藤松の家の中で、志保が心を許せる唯一の味方になった。アンタはいつでも藤松志保に自分の指示を伝えることができるようになった訳だ。
この時点で、もう復讐は成功したようなものだ。藤松志保はアンタの手のひらの中、その気になれば、いつでも殺せる。それはつまり孫娘を殺すことで、海崎惣五郎を絶望させられるということだ。その力と手駒をアンタは手に入れた。だがアンタは慎重だった。もしかしたら、まだ殺すことをためらっていたのかも知れない。
もし本当に藤松志保を殺しても、自分が罪に問われたんじゃ意味がない。別に人殺しと呼ばれたい訳じゃないからな。悪いのは海崎惣五郎だ。ならば藤松志保を殺しながら、自らは罪に問われない、いわば完全犯罪を成し遂げることこそが、海崎惣五郎に対する見せしめとなり復讐となる。アンタはそう考えたんだろう。
そのためにアンタが立ち上げたのが、自殺サイト『悪魔の羽根』だ。ただ、作ってすぐには使わなかった。これが世間に広がるまで、じっくり待つことにした。ウイスキーを寝かせるように。その最中に大帝邦製薬の研究所で爆発事故が起き、藤松志保は海崎志保に戻った。
そこでアンタは海崎志保を海崎惣五郎から引き離そうとした。これも復讐の一環だったんだろう。対して海崎惣五郎は、志保を海蜃館大学の系列校の理事長に就任させた。何としても自分の手元に置こうとしたんだ。それをアンタは逆に利用した。
アンタは海崎志保に学校専用SNSを導入させた。その上でSNSを海崎志保に乗っ取らせ、悪魔の羽根のURLを生徒の間にバラ撒かせた。いずれ来る収穫のときを豊かにするために、畑を広げた訳だ。悪魔の羽根が広がれば広がるほど、有名になればなるほど、アンタはより安全になる算段だった。生徒の一人か二人は引っかかるはず、そう見込んでいたんじゃないのか。
しかし、まさかその一人が自分の娘になるとは、さすがに想定外だったろう。まあ娘のメアドを知ってる父親なんぞ滅多にいないだろうし、なに不自由なく育てた娘が自殺を考えるなんて、想像できる方がおかしいくらいだからな。だがアンタはその悲劇すら利用した。絶好の機会と捉えた訳だ。
アンタは計画通り自殺サイト撲滅キャンペーンを立ち上げ、娘を亡くして悲しむ父親であることを世間にアピールした。講演会を開き、遺された家族の怒りと悲しみを社会に訴えた。まさかそんなヤツが自殺サイトを運営している張本人だとは誰も思わない。結果、アンタは自分を安全圏に置くことに見事成功したんだ。
ここまで来れば、あと残るは海崎志保を殺すだけ。もはやアンタにとって、殺人はいつやるか、切っ掛けとタイミングだけの話だった。
そんなとき、海崎志保に接近しようとする探偵がいた。そいつはアンタに接触し、次に長畑房江に接触して来た。長畑房江は笑いたかったろう、何せ昨日顔を合わせているのに、探偵は何も気付いていないんだからな。恐るるに足らず、そう思ったんじゃないか。そこで長畑房江は、そいつにペラペラと喋ったんだ、知っていることをすべて話すかのように、しかし実際はほとんど意味のない、当たり障りのないことばかりを。だが、一つだけミスをした。
探偵が篠生幸夫という名前を出したとき、当然コイツは篠生幸夫が海崎志保のかかりつけ医と知っているのだろう、と思ったんだ。だからそう話した。だが残念、その時点でその探偵は、篠生幸夫の情報をほとんど持っていなかった。知らないと言われたら、すごすご引き返すしかなかったんだよ。長畑房江大先生はそこを見事にアシストしてくれたって訳だ。
そして、次に探偵は海崎志保を訪ねた。本木崎才蔵のことをネタにね。結果としては、探偵は海崎志保に適当にあしらわれた訳だが、帰るときにこう言った。
「もう一つのネタが固まるまで、アンタは自由だ」
それが不安の種になった。もう一つのネタというのが海蜃学園高校で悪魔の羽根のURLをバラ撒いた件だと、篠生先生、アンタにはすぐわかったろうからな。
さらには大帝邦製薬の研究所爆発事故を警察が再捜査し始め、刑事も海崎志保を訪れた。アンタはこう思ったんだろう。このまま海崎志保を生かしておいたら、いずれ自分にも火の粉が降りかかるんじゃないのか、と。
アンタはそれらをすべてその目で見ていた。あの日、1208号室で、ドアの隙間からね。いや、そもそも海崎志保が探偵や刑事を部屋に入れたのは、アンタの指示だったんじゃないのか。あのとき靴箱にはアンタの、つまり男物の靴が入っていたはずだ。
その後ノコノコ一人で戻って来た刑事を見たとき、アンタは一計を案じた。睡眠導入剤入りのコーヒーで馬鹿な刑事を眠らせ、拳銃と警察手帳を奪ったんだ。上手く行けば県警が不祥事をもみ消すついでに、事件の捜査も中断してくれるかも知れない。そう期待してたんじゃないのか。
そしてアンタはようやく決断した。海崎志保を殺そうと。
翌日、海崎志保には夜まで待ってから県営住宅団地に行くよう指示した。その五号棟。入居者が一番少なく、高齢者ばかりが住んでいる棟。人が落ちて死んでも、一番見つかりにくい棟だ。ここの患者に、あの県営住宅に住んでるヤツがいるんだよな。県警はそこまではつかんでたそうだ。
四階と五階の間の踊り場。そこでアンタは海崎志保に、睡眠導入剤入りの飲み物を飲ませた。と言っても、そのときアンタは現場にいない。代わりにそこにいたのは、長畑房江だ。
長畑房江の差し出す飲み物を、海崎志保が疑うはずがない。ましてアンタに指示されたなら、海崎志保にはもう飲む以外の選択肢などあり得ない。だから実際に飲み、その身体から力が抜けたとき、下へと突き落とされた。あとは用意していた針で、倒れている海崎志保の腕に616の文字を書き込むだけ。
そこに海崎志保からの留守番電話を聞いた、間抜けな刑事たちがやって来た。これで一件落着、アンタの完全犯罪は成立するはずだった。実際アンタが想定したように、警察もマスコミも、海崎志保の死と悪魔の羽根を結びつけた。それはすなわち、アンタの身が安全圏にあることを意味している。これで復讐は無事終わった。そう思ったんじゃないか。
ところが、アンタは大事なことを見落としていた。理解していなかった。それが何だかわかるかい。この世にはな、「三人寄れば文殊の知恵」って言葉があるんだよ。
俺が言いたいのはこれくらいかな。もし間違ってるところがあるんなら、言ってくださいな。篠生先生。
◇ ◇ ◇
診察室で腕を組み、篠生幸夫は俺をにらみつけていた。真っ赤な顔が白衣とコントラストを生み、こめかみには青く血管が浮いている。その隣に立つ長畑房江は対照的に、蒼白な顔でうつむきこう口にした。
「幸夫くん、もう諦めましょう」
「姉さんは黙っていてくれ」
篠生幸夫は抑えた声を吐き出した。ああ、そういう関係なのか。
「私は海崎惣五郎に人生を奪われた」
篠生は訴えかけるような目で俺を見つめる。
「人間として生きる時間の一部を、あの男に奪い取られたんだ」
「んなこたぁ俺の知ったこっちゃねえな」
俺はそう鼻で笑い、指を三本立てた。
「三百万。それで手を打ちましょう」
篠生は立ち上がった。全身が怒りに震えている。
「キミには、人間らしい心がないのか」
「人殺しに言われる筋合いはないね」
俺はにらみ返す。篠生は目をそらし、情けない声でこう口にした。
「そんな大金、いますぐには無理だ」
「じゃあ、明日まで待ちましょう。また明日来ますよ。それで用意できてなきゃ、警察に行かせてもらいます」
「キミにその金を払ったら、警察に話さないという保証はあるのか」
「アンタが拳銃と警察手帳を奪った間抜けな刑事が、いま待合室にいる。だけどこの場には入れていない。話の内容を聞かせていない。それが俺の誠意のつもりなんだがね」
「しかし、後で話すかも知れないじゃないか」
「信じる信じないは、アンタが決めてくれ。そこまで世話は見切れねえよ」
話は終わりだ。俺は立ち上がり、ジローを立たせた。だがあることを思い出し、うなだれる篠生幸夫に声をかける。
「ああそうだ、最後に一つだけ疑問があるんだが、教えてくれませんかね」
絶望と屈辱に満ちた顔を上げる篠生幸夫に、俺は笑顔でたずねた。
「アンタの娘が遺した言葉、『悪魔を見た。さようなら』の『悪魔』って誰のことなんだ」
篠生幸夫は答えない。ただ血走った目を見る限り、怒りの火に油が注がれたように思える。それこそが答だった。
「なるほどね。自分の父親のやってることに気がついたって訳だ。そりゃ死にたくもなる」
俺は背を向け、ジローを歩かせた。篠生幸夫と長畑房江を残して診察室から出て行く。待合室の笹桑ゆかりと築根麻耶が立ち上がった。
「明日だ、明日」
さあて、事務所に戻るとするか。
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