第34話 ガス燈 (上)

 チャレンジ十日目。火曜日。


 今日のキャプテンからの指示は、いつもと違った。雰囲気が違う。何だか文章の書き方が別人のようだ。何か焦っているようにも思える。


「繁華街の裏、雑居ビルの四階にある事務所だ。写真を撮って来い。中にいるヤツまで撮影できたら高ポイントをやる」


 内容も、ちょっとこれまでとは違う。住所がメールで送られてきて、ここを捜せというのだ。場所はネットで検索してみたらすぐ見つかったけど、直接行って写真を撮って来ないといけない。


 どうやら駅二つほど離れた街の、路地を入った裏通りらしい。行ったことがない場所だけど、怖いところじゃないだろうか。


 迷った。これ、キャプテンじゃないのかも知れないとも思った。キャプテンの真似をした誰かのイタズラなんじゃないかと。


 でも行かないと。


 もし自分の勘違いだったら、キャプテンを本当に怒らせることになる。それは嫌だ。


 今日の指示はこれだけだから、学校が終わってから行って来よう。勇気を持て。勇気を持て。何としてもクリアするんだ。


 だけど何するところなんだろう、興信所って。



 ◆ ◆ ◆



 朝一番、九時前の芦則精神科。急ブレーキの音と共にクラウンを駐車場に突っ込ませると、俺は紙袋を手に飛び出した。築根麻耶が、笹桑ゆかりが、そしてジローが下りてくるのを待ちきれずに、ガラス扉の中に走った。待合には、当たり前のように誰もいない。叩き付けるように診察券を出すと、受付の丸い大きな看護師は、驚いた顔を見せた。


「あら、また来たの」


 俺は紙袋の中からチェック表を出し、看護師に見せた。


「今日は書いて来たんでね。すぐ先生に会わせてもらえますか」

「ちょっと待ってね。確認してきますから」


 看護師が奥に消えると同時に、ジローたち三人が中に入って来た。そこに看護師が戻ってくる。


「それじゃ、入ってください」


 いささか不服そうな言い方を気にする間もなく、診察室にジローを引きずり込む。


 芦則老医師は、相変わらず大きな顔とチョビひげと小さな身体に羽織った白衣で俺たちを迎えた。俺はチェック表をその机に押し付けるように置くと、上に茶色の瓶をドンと乗せる。昨夜近所の酒屋で買っておいた最高級のスコッチだ。そして芦則佐太郎の目の前の椅子に座る。ジローを立たせたままで。


「なんじゃね、今日は美人を二人も連れて、エラい勢いだな」


 しかし、こういう患者もいるのだろうか、芦則佐太郎は慣れた様子で笑顔を見せた。


「昨日のこと、覚えてますよね」


 全身に血と気力がみなぎる感触。もしかしたら、俺の顔は殺気立っていたかも知れない。


「昨日? ああ、海崎と篠生のことか」


 芦則佐太郎はまた苦そうな顔をした。だが。


「いいや、そのあとです」


 俺の言葉に目を丸くする。


「あと? 他に何か話したかな」

「ええ、『さすがにチョチョチョイっとはいかんな』。先生はそう言いました」


「覚えとらんな」

「いいや、言いました。確実にね」


 ジローを振り返る。別に返事をする訳ではないが、昨日の夜に「復習」はしてある。間違いなく芦則佐太郎はそう言ったのだ。


「それが何か重要なのかね」


 この展開には、さしもの芦則佐太郎も戸惑った顔を見せている。


「ええ、重要ですよ。チョチョチョイっとはいかないってことは、つまり時間をかけ、手間をかければ、人間を病気にすることも可能ってことになりますよね」

「病気? 風邪でもひかせようというのかね」


「たとえば、人間がロボットのように操られてしまうとか、できるんじゃないですか」


 芦則佐太郎は呆れ顔で一つため息をつくと、スコッチに手を伸ばした。栓をねじ開け、ビーカーに一口分注ぐ。


「そんなことを聞いても意味がないぞ。誰にでもできる訳ではないからな」

「俺にできる必要はないんですよ。専門知識のある人間にさえできればね」


 一瞬ちゅうちょしたものの、芦則佐太郎はそのスコッチを一気にあおった。


「くーっ、キツいな」

「先生」


 苛立つ俺を押さえるように、老医師は右手を前に出す。そして、いまましげな顔でこう言った。


「……心理的虐待の手法のひとつに『ガスライティング』というヤツがある」

「それを使えば人を操れる?」


「ある程度はな。程度問題だよ。人によるとしか言えん」

「具体的には何をするんです。ガスを使うんですか」


 この質問があまりに初歩的すぎたのだろう、芦則佐太郎は小さく笑った。


「ガスは使わんよ。ガスライティングという名称は、大昔の『ガス燈』という映画の中で、主人公の女がこの手法を用いられて、夫に徐々に追い詰められていくことから名付けられたものだ」


「精神的に追い詰めるやり方ってことですね」


「まあ大雑把に言ってしまえばそうだ。日常の些細な行動を否定することによって、心理的に安定している足下を崩して行くのだな。たとえば対象の人物に、車の鍵をいつもの場所に置いていないぞ、と注意する」


「鍵?」


 俺は一瞬、ポケットの中に意識を向けた。


「そう、注意された方は、ちゃんと置いたはずなのに、と不思議に思う。一回だけならな。だがそれが毎日続き、毎日叱られるようになると、最初は反発もするが、もしかすると自分がおかしいのだろうかとだんだん不安になってくる。そうやって足下を崩された対象は、意味もわからず心が闇の中に放り出されてしまうのだ。こうなれば第一段階は成功、後は同様のことを様々な種類行い、繰り返し、やがてまったくの嘘を吹き込み、徐々にスケールを大きくして行く。周囲の人間も巻き込むことで対象を孤立させ、心理的足場を完全に崩してしまう訳だ」


 芦則は淡々と話す。その淡々さ加減が、怖いほどの切迫感を呼ぶ。


「そして対象人物が恐怖、孤独、無力感、そういったものにさいなまれて不安の極限に達したとき、そこに救いの手を伸ばしてやれば、相手はこちらに全幅の信頼を寄せるのだ。ここまで来れば後は簡単。自分を助けてくれた者が、どんなことを言っても疑わない。場合によっては、理不尽な指示にも喜んで従うようになってしまう。たとえそれが、自分を追い詰めた存在であっても、だ」


「あれっ」


 後ろから笹桑ゆかりの声がした。


「それって悪魔の羽根と同じじゃないすか」

「いいや、少し違うな」


 しかし芦則佐太郎は首を振った。


「人間の心理の弱さにつけ込んで、意のままにコントロールする、と言う点では似ているが、同じではない」

「つまりどの辺が?」


 納得できない笹桑ゆかりの問いに、芦則佐太郎はまた淡々と答える。


「精神的に未成熟な若者や、極端なコンプレックスを持っている者、あるいは精神面に病的な問題を抱えている者に狙いを定めているのが、悪魔の羽根のような自殺サイトだ。つまりは人を選ぶ。だから実際にウェブサイトを見ても、大多数の人間には不快なだけで、たいした害はない。ところが、ごく一部の人間には猛毒なのだ。千人に一人くらいは引っかかると言われているな」


 海蜃学園高校は、全校生徒千二百人ほどだ。なら確率的に、一人か二人は引っかかる計算になる。


「一方、ガスライティングは精神的に自立し安定した者を狙う。自立しているという自覚があるからこそ、急に足下を崩されるとうろたえ、誰かにすがりつく訳だ。言わば力尽くであり、相手を選ばない。人間ならば誰でもターゲットになり得ると考えていいだろう」


「うわあ、そりゃ怖いっすね」


 怖いと言ってはいるが、笹桑ゆかりの言葉に緊迫感はない。


「そのガスライティングは、医者なら誰でも使えるんですか」


 いままで黙っていた築根麻耶がたずねた。芦則佐太郎は困ったように笑う。


「医者は魔法使いではないよ。知識のない分野においては、医者もただの人間だ。ガスライティングを使うには、それなりに専門的な知識が要る。あるいは経験だな。だが言い換えれば、専門的な知識や経験さえあれば、医者でなくとも使えるさ」


「篠生幸夫には専門的な知識がありますかね」


 俺のストレートな問いに、芦則佐太郎は両手を挙げた。お手上げということらしい。


「それは本人に聞いてくれ。わしは知らん」




「わかったぁっ!」


 俺は銀色のクラウンのアクセルを踏み込んだ。ジローはいつも通り助手席で膝を抱えて虚空を見つめ、築根麻耶と笹桑ゆかりは半信半疑で後部座席に乗っている。


「おい、本当にわかったのか」

「うるせえ、黙って見てろ!」


 この期に及んで築根麻耶の意見など、どうでもいい。俺にはもうすべて謎が解けている。あらゆる解決が見えている。そして何より大事な、金へのアクセスルートまで頭の中にでき上がっていた。


 もはや一刻の猶予もならない。急ぐのだ。急ぐしかないのだ、篠生メンタルクリニックに!

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