第18話 道部久里子 (下)

 事務所に戻ってジローにカレーを食わせ、一服すればもう次の予定がやって来る。今日は何だかバタバタと落ち着かない。貧乏暇なしに終わらなきゃいいのだが。




 朝方に比べれば随分明るくなったとは言え、曇り空の十月の午後は涼しい。天気予報では寒気が流れ込んでいると言っていた。確かに風の向こうに冬の気配が見えるようだ。ジローはいつものように、膝を抱えて銀色のクラウンの助手席に座っている。事務所の前の路肩、笹桑ゆかりはそれをしばらく呆けたように見つめていたかと思うと、小さくつぶやいた。


「……可愛い」


 そして突然、こう宣言した。


「私、この子のママになるっす!」

「うるせえよ。さっさと乗れ」


 俺は運転席に乗り込み、エンジンをかける。笹桑ゆかりは後部座席に乗り込んで来たかと思うと、ベルトもせずに座席の間から顔を出した。


「ねえねえ、ジロー君はお昼ご飯何食べたっすか」

「カレー」


「もう、五味さんには聞いてないっすよ」

「こいつは何聞いても答えねえんだよ。しょうがないだろ」


「じゃあじゃあ、晩ご飯は何食べるっすか」

「カレー」


「そんな、犬の餌じゃないんだから、栄養偏るっしょ」

「他に食わねえんだよ。しょうがないだろ」


「もう、パパはしょうがないばっかりっすねえ」

「おまえな」


 俺がにらむと、ようやく笹桑ゆかりは座席に着いてシートベルトをした。


「ハイ、準備完了っす」


 後部座席の敬礼を無視してクラウンは走り出す。道はそれほど混んでいない。


「それで、相手に連絡はついてるんだよな」

「はい、みちのべさんっすね。道部久里子さん。海蜃学園高校三年生で新聞部の部長さん。あ、もう引退したんでしたね。入試まで時間ないっすもんねえ」


 しかしすぐに赤信号に捕まる。俺は胸ポケットからタバコを出し、一本咥えた。


「新聞部ね……大丈夫なんだろうな」

「あれ、推理研究会の方が良かったっすか」


「それは勘弁してくれ」


 シガーライターで火を点ける。笹桑ゆかりは何も言わず窓を開けた。


「大丈夫ですってば。私は五味さんと違って、人脈作りはちゃんとやってますから。相手も選びますし、信頼してもらっていいっすよ」

「人脈っても高校生だろうが」


 俺の呆れた声に、笹桑ゆかりはさらに呆れた声を重ねた。


「やだなあ、その高校生に泣きつこうとしてるのに」

「おまえ、かなり俺を馬鹿にしてるよな」


「何言ってるんすか。欠点を受容することこそ愛なんすよ」

「おまえの愛は信用ならん」


「心外っすねえ」


 信号が青に変わった。豪快にアクセルを踏み込みたい気分だが、さすがにそれはやめておいた。片道一車線の県道は、ほどほどに混み合ったまま流れて行く。




 待ち合わせ場所は、海蜃学園高校から一キロほど離れたファミレス。相手は先に来ており、笹桑ゆかりが目ざとく見つけた。地味なサマーニットを着た、三つ編みに眼鏡の女子高生。これで新聞部だというのだから、その手の趣味の人間にはちょっとした役満だ。


 笹桑ゆかりは道部久里子を紹介すると、その隣の席に着いた。向かいに俺とジローが座る。


「この人が昨日話した五味さん。これでも現役の探偵さんっす。隣は助手のジロー君」


 これでも、という部分がどうにも引っかかるが、いまは突っ込まないでおく。道部久里子は少し赤い顔をして、俺とジローの顔を交互に見ていた。人見知りなのかも知れない。


 注文を取りに来たウェイトレスにコーヒーを三つ頼み、手帳とボールペンを取り出した。


「早速だけど、いいかな」

「随分とアナログなんですね」


 驚いたような道部久里子の視線に、作り笑顔を返す。まったくどいつもこいつも。


「まあ、使いやすいからね。それで聞きたいのはまず、四月のボヤ騒ぎのことなんだが」


 すると道部久里子は、テーブルの上に置いてあったスマホを操作し、その画面を見つめた。ここに記録してあるのだろう。


「はい、四月の十五日の夜に、グラウンドの体育倉庫でボヤが起きました」

「それは何時頃」


「火災報知器が鳴ったのが二十二時少し前、警備員さんが駆けつけて消火器で消し終わったのが、それから十分後くらいですから、おそらく二十二時過ぎです」

「ボヤの原因は」


「現場にウォッカの瓶とタバコが落ちていたので、おそらくそれではないかと」

「それは消防が?」


「はい、現場を確認した消防署の担当者からの回答だそうです」


 ウォッカねえ。ウォッカはあまり不良高校生が、しかも深夜に、それもわざわざ体育倉庫で飲むイメージじゃないが、絶対に飲まないとも言い切れないか。ただ、タバコとウォッカを使えば簡単な時限発火装置が作れるな。


 少し不審げに、上目遣いでこちらを見ている道部久里子を、俺は見つめ返した。


「その夜、理事長が学校に来てるよね」


 何故知っているのだろう、驚きの表情はそう語っていた。


「は、はい、来てます」


 そこにコーヒーがやって来た。テーブルにカップが三つとオーダー伝票が置かれ、ウェイトレスが離れていく。それを待って話を続けた。


「理事長が顔を見せたのは何時頃」

「警備員さんは二十二時半までの間に、理事長と校長と教頭に電話を入れています。理事長は一番先に、二十三時前に現場に顔を見せたそうです」


 いい答だ。思わず口元が緩んだ。


「このボヤ騒ぎで警察は来たのかな」

「はい、一応警察の人も調査に来たそうです。ただ警察沙汰にはしないと、後日理事長名義のメッセージが学校のSNSから回って来たので」


「それについて理事長からの説明はあった?」

「いえ、特には。まあ進学率とか志望者数とかに関わるんだろうって、生徒の間では話題になりましたけど」


 たとえ進学率がどうなろうと、志望者数が激減しようと、警察沙汰になどできる訳がない。何故なら火を放ったのは――少なくともその計画を立てたのは――理事長自身なのだから。


 では海崎志保は体育倉庫を燃やして何がしたかったのか。その理由は一つ。警備員を現場に釘付けにして、職員室に自由に出入りすること。


 理事長なら学校の鍵を一通り持っていても、さほど不思議はない。そうでなくとも入手するチャンスは過去に何度もあったはずだ。


 職員室に入り、教頭が管理する棚からSNSの管理用パスワードの書かれたファイルを捜し出し、それを書き写すなりコピーするなりできるくらいの時間的余裕はあったろう。おそらく警備員は理事長に連絡するとき、スマホに電話したに違いない。そのとき当の理事長は、すでに学校内にいたとも知らずに。


「……五味さん?」


 笹桑ゆかりの声に意識を戻される。少し考え込んでいたらしい。


「ああ、すまん。それでそのボヤの三日後、学校のSNSが乗っ取られているよね」

「はい、意味不明なメッセージとかURLとかが送られて来ました」


「それは記録してある?」

「一部は。全部は無理でした」


 道部久里子は申し訳なさそうに、うつむいてモジモジしている。だが続く俺の言葉に、その顔はハッと上がった。


「送られて来た中に『悪魔の羽根』のURLがあったね」

「何で……知ってるんですか」


 確認は取れた。これで海崎志保が真っ白じゃないことは確定だ。海崎志保が学校のSNSを乗っ取り、悪魔の羽根のURLをバラ撒いた。そしてそれを見た篠生幸夫の娘が悪魔の羽根にハマり、結果として自殺したって流れだ。俺が食いつく余地は充分にある。


 ただ問題は、何故そんなことをしたのかが不明だってところか。まさか篠生の娘を殺すためにSNSを乗っ取った訳じゃあるまい。そんなピンポイントな理由ではないはずだ。いまの段階で強請っても、とぼけられておしまいだろう。金を出させるには、まだ説得力が足りない。


「理事長って、学校内ではどんな評判なんだい」


 少しぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。薄くはないが、随分苦いな。ミルクを入れるか。


「どんなって言うか、良くも悪くも存在感はあまりないです」


 道部久里子は自分の前のカップを両手に持っている。紅茶が少し入っていた。いままで気がつかなかったのは何故だろう。緊張していた訳でもあるまい。いや、していたのか。海崎志保の尻尾がつかめるかも知れないという期待に。


「存在感がないっていうのは、学校内のいろんなことに積極的に参加しないってことだろうか」


 コーヒーにミルクを入れ、混ぜずに飲む。苦みと甘みの一体感のなさが心地良い。


「そうですね、SNSを導入して校内のコミュニケーションを合理化したりはしましたけど、それ以外は功績らしい功績もないですし、学校行事にもほとんど参加しませんし。でも横暴なことを言ったり、悪目立ちもしない人です」


「結構手厳しいな。けどそれなら、校内にはこれといって敵も味方もいない感じだね」


「海蜃館大学の総長のお孫さんですから、学校的にはいないよりいてくれた方がいいのだと思います。でも先生方から見ればただのお飾りで、生徒から見ればよくわからない大人の人ですね。綺麗な方ですから、男子には人気があるみたいですけど」


 最後のそれが一番気に入らない、と言っているようにも思えた。


「悪魔の羽根についてはどう。見た人は多いの」


 その問いに、道部久里子はまたうつむく。


「見た人は多いです。私も見ました。でも気持ち悪いって思っただけの人がほとんどみたいです。まさか、死ぬ人が出るなんて」


 まあ、こんなものだな。今の段階で他に聞くことも思いつかない。俺は胸ポケットから折れ曲がった万札を一枚取り出して、テーブルに置いた。


「参考になった。悪いがこれで支払っておいてくれ。釣りはとっておくといい」


 しかし突然のことに、道部久里子は焦ってバタバタしている。


「あ、いや、こんな、私そんなつもりじゃ」

「働いたら金をもらえ」


 俺は立ち上がりながら、万札を道部久里子の方に押しやった。


「タダ働きは害悪だ。腐った自己満足に過ぎん」


 そしてジローを振り返る。


「行くぞ、ジロー。立って歩け」


 ジローが無表情に立ち上がり、笹桑ゆかりも道部久里子に笑顔で挨拶をして立ち上がった。急いで事務所に戻るとしよう。俺は店の出口に向かった。手はタバコを探しながら。




 普段使われていない、事実上のチラシ掲示板と化しているキャスター付きのホワイトボードを、事務所の真ん中に持って来た。貼り付けてある紙をすべて引っがす。マグネットがバラバラと床に落ちるが気にしない。後で拾えばいいだけだ。


 メモ帳を開いて真っ白なボードの前に立ち、真ん中に黒いマーカーで「海崎志保」と書く。その周りに「篠生幸夫」「藤松秀和」「藤松勘重」「肥田久子」少し離れて「長畑房江」「谷野孝太郎」「海崎美保」と書いた。関係者はこのくらいだったか。おっと一人忘れてた。「海崎惣五郎」海崎志保の祖父じいさんだ。そして最後にトドメの一人、ボードの端っこに、「本木崎才蔵」と書いて、これでいいだろう。


 さて、頭の中をまとめよう。海崎志保を強請れるネタは、いまの時点で二つ考えられる。一つは大帝邦製薬の先端薬剤研究所が爆発した事故。ボードに「研究所」と書いて丸で囲む。もう一つは悪魔の羽根のURLをバラ撒いて、篠生幸夫の娘を自殺に追いやった件。「羽根」と書いて丸で囲む。


 海崎志保に、研究所で事故を発生させるような知識や技術があったとは、どうしても考えられない。だが海崎志保は藤松の家で孤立し、精神的に追い詰められていた。ならば夫の家族を殺して、藤松家を破滅させたいと思ったかも知れない。つまり動機はあるのではないか。


 一方、海崎志保が悪魔の羽根のURLをバラ撒いたことは、証拠はないがほぼ間違いない。それを切っ掛けにして、結果的に篠生幸夫の娘が自殺したのも事実だ。だがこちらには動機が思いつかない。こんなことをして、海崎志保にいったい何の利益があったというのだろう。


 と言うか、何だろうなこの違和感は。二つの事件は、まるで性格が違う気がする。もちろん人間はいろんな事をやる生き物だ。犯罪者が一種類の犯罪にしか手を出さない、なんてことはない。詐欺師が傷害で捕まったり、殺人を犯したりすることも、さほど珍しくはないだろう。


 だが寸借詐欺師がある日突然、ヤクザの組長になることはない。あるとしたらとんでもないレアケースだ。やはり犯罪にも、その本人の個性・人柄・キャラクターが出る。ならばこの二つの事件、どちらが海崎志保の人間性に合っているのだろう。まあ常識的に考えるなら、実行した可能性が高い悪魔の羽根の件ではないか。


 言い換えれば、研究所の件は海崎志保の犯行ではない可能性も出て来る。本当に単なる不幸な事故の可能性も。ただ海崎志保には動機がある。……いや、待て。ちょっと待てよ。


 俺の目はホワイトボードに釘付けになった。たとえ海崎志保に動機があるとしても、それがすなわち、海崎志保一人にしか動機がない、という意味にはならない。つまり、海崎志保以外にも動機があるヤツがいるんじゃないのか。その名前が俺の目に飛び込んで来る。


 本木崎才蔵


 サイノウ薬品から出向していた研究員で、偽物の可能性がある。死んでいた方が都合がいい存在。確かに、死んでなきゃおかしいヤツだ。そうだ、もしこいつが「それ」ならば辻褄が合う。綺麗に話が通るのだ。


「ジロー!」


 俺は早足で出口に向かいながら怒鳴った。


「立て! 歩け! 急げ! 今すぐ車に乗るんだ!」


 早い方がいい。いや、一刻も早く行かなければならない、そんな気がする。こういうときの嫌な予感は当たりそうに思えるのだ。


 俺はガキとオカルトが大嫌いなんだが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る