第19話 巣穴の中へ (上)

 クラウンのヘッドライトが夜を裂き、ナビに従って到着したのは高層マンションの前。都心部まで駅二つというところか。近くにコンビニがあったので駐車場にクラウンを駐め、ジローを連れてエントランスへと向かった。肥田久子のメモによれば、海崎志保の部屋は十二階の1208号室。問題はどうすれば部屋に入れてもらえるのかだが、迷ってはいられない。


 自動ドアからエントランスに入ると、内側にもう一つ自動ドアがある。しかし前に立っても開かない。ここから先は住人の許可がなければ入れない訳だ。


 自動ドアの脇にある操作盤のキーで1208を押し、最後に呼び出しボタンを押す。猛獣の巣穴の前に立つ気分。時刻はもう午後九時に近い。部屋にいる可能性は高いものの、こんな時間の来訪など、普通の人間なら警戒する。居留守を使われたらアウト、それどころか警察に通報される危険さえある。やはり明日にすべきだったか。


 だが虎穴に入らずんば虎児を得ず。善は急げ。いや、善でなくても虎穴に急げなのだ。とにかく後回しにすることにメリットはない。巧遅よりも拙速と言う。金が欲しいのなら、可能な限り急ぐことだ。チャンスをつかむのにベストタイミングなどない。誰よりも速いヤツが、誰よりも金を手にすることができる。それがこの世の中の真理である。そんなことを考えていると。


「はい」


 操作盤パネルのスピーカーから、女の声が応じた。思わず声を上げそうになる自分を抑える。落ち着け、落ち着け、不審に思われたら最後だ。俺はできるだけ低い声で、意識的にゆっくりと話した。


「……海崎志保さんのお宅でしょうか」

「どちら様でしょうか」


 さて、ここで何と答えるべきか。一瞬迷ったが、こんなところで長々と自己紹介をしても始まらない。俺は覚悟を決め、思い切ってこう口にした。


「亡くなったお父さんのことでお話が」


 しばしの沈黙。そして。


「どうぞ」


 巣穴へと続くガラスの扉が開いた。




 エレベーターで十二階まで上がった俺たちを迎えたのは、暗く輝く長い廊下だった。その左右に、交互にドアが見える。中庭の空間などはない。ぎっしり部屋が詰まっているのだ。


 多少の圧迫感を感じながら1208号室を探す。と、廊下の中ほど向かって左側の部屋のドアが開いて人が出て来た。黒いジャージにサンダル姿。女だ。黒くて長い髪をポニーテールにしている。


 その女が、こちらに向かって無言で会釈をした。さすがの俺の胸にも、やや感慨めいたものが湧き上がる。とうとう実物に会えた。コイツが海崎志保なのか。




 歳は二十九になるはずだが、大学生と言っても誰も疑わないだろう。少し垂れ目気味で儚げな印象はあるが、大きな瞳の整った顔立ち、スタイルの良さはダボダボのジャージの上からでも見て取れる。なるほど、男子高校生には目の毒だ。


 海崎志保は窓のない応接室に俺たちを招き入れ、低いコーヒーテーブルにカップを三つ置くと、ソファに身を沈めた。これといって何もない質素な部屋。肥田久子の家の客間を思い出す。だがよくよく見れば、似て非なるまったく違うモノであることがわかる。


 たとえばソファ。こっちは間違いなく本革だ。真ん中のコーヒーテーブルを囲むように四つ並んでいる。そして書棚。四方のうち三方の壁はみな書棚で覆われているが、それ自体はさほど高そうなものではない。しかしその中にはハードカバーがびっしり詰まっている。


 ざっと見ただけでも「枕草子」「源氏物語」「徒然草」が見える。「史記」と「論語」と「十八史略」もある。あとはその隙間に、高校化学と書かれた本が何種類も。残る一方の壁は、これはおそらくクローゼットか。奥行きまではわからないが、ドアは普通の四枚扉だ。


 他に目に付く物は何もない。高級な調度品など見当たらない。せいぜい床の絨毯の毛足が足が隠れるほど長いくらいで、大富豪の遺産を独り占めにした女の部屋としては、何とも質素な佇まい。それなのに、わびしさを感じないのは個々の要素の質の違いか。


 角がヨレヨレになった俺の名刺を、自分の前のテーブルの隅に置きながら、海崎志保の目はジローを見つめていた。ジローはいつもの通り膝を抱えながら、海崎志保から見て右手、俺から見て左手のソファに座っている。その目は誰もいない真正面の席をじっと見据えていた。


「彼は、本当にあなたの助手なのですか」


 その声には非道を責めるかのような響きがあった。まあ慣れてはいるのだが。


「ええ、ジローは俺の助手ですよ。『極めて優秀な』という但し書きが付きますがね」


 俺はコーヒーを一口飲んだ。多少酸味を感じるが、今日飲んだコーヒーの中では一番飲みやすい。これならブラックでいい。


「ではお聞かせ願えますか。父が亡くなったとか」


 海崎志保は膝で手を組みながら、ややトゲのある口調でたずねた。ただその表情にトゲトゲしさはない。どちらかと言えば視線に力はなく伏し目がちだ。悲しみにうち沈んでいるのがありありと見て取れる。俺は口元を緩めた。


「そうです、アナタのお父さんは亡くなっています。亡くなっているはずです。そのことは、アナタが一番ご存じですよね」

「どういう意味でしょう」


 しかし視線は上がらない。じっと膝上で組まれた手元を見つめている。


「アナタはお父さんの谷野孝太郎氏と、三歳のときに別れています」

「ええ」


「その後、会ったことは」

「いいえ、一度も」


「それは嘘だ」


 海崎志保は沈黙した。やはり視線は上がらない。それがかえって俺のやる気に火を点ける。見てろ、俺の方を向かせてやる。


「アナタは最低でも一度、孝太郎氏に会っている。それも結婚した後に」

「何がおっしゃりたいのでしょう」


「出会ったとき、お父さんは別人になっていました。と言っても変わり果てた、という意味じゃない。文字通り言葉通り、別人の名前と生活を手に入れていたんだ。サイノウ薬品の社員、本木崎才蔵というね」


 再び沈黙。俺は続けた。


「そのときアナタは父親に話してしまったのではないですか、自分の藤松家における境遇を。どれほど孤独で追い詰められているのかを。それを聞いて孝太郎氏は、いや本木崎才蔵は激怒した」


「何のことかわかりません」


「やがて大帝邦製薬の先端薬剤研究所で事故が起こった。そのとき、その場所には、研究員として出向していた本木崎才蔵がいた。それが偶然じゃないことをアナタは知っていたはずだ。だから事故の第一報が入ったとき、思わずこう口にしたんだ『私が呪われているから』と」


「違います」

「いいや、違わないね」


 俺は手応えを感じていた。


「アンタは気付いたんだ。自分の口が発した『呪い』が藤松家を破滅に追い込んだってことに。あの日、事故の中心部で何が起きたのか、誰がどんな操作をしたのか、いまとなっちゃもう解明のしようがない。全部吹っ飛んじまったからな。だが本木崎才蔵がその場にいたのは間違いない。それはアンタが誰よりも知ってるはずだ」


 三度目の沈黙。今度はこちらも沈黙した。コーヒーを一口飲む。そして海崎志保の口が開くのを待った。時間にしておそらく十数秒、だが海崎志保にとっては何時間にも感じたかも知れない。


「……何が望みですか」

「話が早くて助かる」


 俺は右手の指を三本立てた。


「三百万。それで手を打とう。そんだけもらえりゃ、この話は俺が責任を持って墓の中まで持って行く。どうだい、アンタにとっちゃ安いもんだと思うがね」

「いいえ。高いですね」


 そう言いながら、ようやく海崎志保は視線を上げる。その目が笑っているように俺には見えた。


 そこに、まるでタイミングを見計らったかのように響くチャイム音。


「ちょっと失礼します」


 海崎志保は立ち上がり、インターホンの操作パネルに向かう。俺は小さく舌打ちし、残ったコーヒーを飲み干した。背後から海崎志保の声が聞こえて来る。


「はい……はいそうですが……わかりました、どうぞ」


 どうぞ? 俺は思わず振り返った。この状況でまた誰か招き入れるってことか? これには内心焦る。コイツ、何を考えてやがる。海崎志保は平然と元の席に戻って来たかと思うと、ソファに座り、俺を見つめた。


「県警の捜査一課の方が来られたそうです」

「なっ」


 思わず声が出た。ヤバい。県警には面が割れている。捜査一課だと、まさか俺を知ってるヤツが来るんじゃないだろうな。この状況で顔なんぞ合わせたら言い逃れが出来ない。


「私は別に構わないのですが、あなたは大丈夫なのですか」


 海崎志保の言葉。口元は笑ってはいない。だが目は口ほどに物を言うのだ。


「出口はエレベーターか非常階段ですが、エレベーターはいま警察の方が上って来ています。この子を連れて、階段で十二階下りられますか」


 そう言ってジローを見つめた。この女、状況を完璧に理解してやがる。まあジローはいざとなったら見捨てればいいが、十二階下まで階段で下りても、エントランスに刑事が待ち構えてたんじゃ、俺はタダでは済まない。


 だが、そこで海崎志保は予想外の行動に出た。不意に立ち上がったかと思うと、クローゼットに近付き、戸を引き開けたのだ。


「こちらへどうぞ。嫌だとおっしゃるのでしたら私は別に構いませんが」


 どういうつもりだ、とは思ったものの、実際のところ他に選択肢はない。俺も立ち上がった。

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