第29話 616 (上)
チャレンジ九日目。月曜日。
また学校だ。行きたくない。でも行かなきゃ母さんが変に思う。母さんの前で泣きたくはない。それは何かに負けたことになる気がする。それが何かはわからない。わからないけど、負けたくない。母さんは私の前で泣かない。だから私も泣かない。
今日の指示は、またリストカットだ。今度は三回目だから三箇所、またキの字を書いて、写真をキャプテンに送らなければならない。もう左手首は無理だ。これ以上傷口を広げたら、母さんにバレてしまう。右手首を切るしかない。
長袖なのに、両手にリストバンドをしてもおかしくないだろうか。笑われるのは嫌だ。これ以上馬鹿にされるのは嫌だ。でもキャプテンに無視されるのはもっと嫌だ。だったらやらないと。これくらいやり遂げないと。
頑張れ、頑張れ、頑張れ。
勇気が欲しい。もっともっと勇気が欲しい。何も怖い物がないくらいに。
◆ ◆ ◆
「だいたい、五味さんはなってないんすよ!」
笹桑ゆかりはそう言い放った。起き抜けの午前六時、俺の事務所で。
「……何でおまえがここにいる」
「そんなの決まってるじゃないすか。あれから家に帰らなかったんすよ」
まだ頭がボーッとしている。コーヒーを飲もう。タバコを吸おう。
「普通の男の子なら、こういうとき自分はソファに寝て、女の子をベッドに寝かせるもんじゃないすか。なのに何すか五味さんは。自分だけベッドに寝て、こっちはソファで寝たんすからね」
わめく笹桑ゆかりを横目に、俺はヤカンをコンロにかけた。ついでにガスでタバコにも火を点ける。
「で、何でおまえがここにいるんだ」
「だから帰らなかったんだって言ってるじゃないすか」
「だから何で帰らないんだよ。帰れよ」
「そんな、帰れって言われてそのまま帰ったら、負けたみたいじゃないすか」
「何の勝負だよ。全然わかんねえわ」
おれはタバコを思いっきり吸い込んだ。少し頭がハッキリする。そう言えば昨夜はすっかり疲れ果ててしまって、コイツを追い出した記憶も、ドアに鍵をかけた記憶もない。
「だいたいおまえ、仕事はどうした。今日、月曜日だろ」
「いやだなあ、五味さんったら。雑誌記者に土日も平日も関係ないっすよ」
そう笹桑ゆかりは屈託なく笑う。いやいやいや。
「だったら余計おかしいだろ。おまえ昨日から会社サボってるのか」
「大丈夫っすよ、有休いっぱい貯まってるんすから」
「パシリのペーペーがそんな簡単に有休取れるのかよ」
「もちろん事後申請っす」
痛い。何故か俺の頭が痛い。
「おまえ絶対クビになるぞ」
「別にいいっすよ。クビになったらなったで、自分は人脈使って再就職しますから。ああ、五味さんがどうしてもお願いって言うんなら、永久就職もアリっすけど」
ヤカンの笛が鳴った。マグカップにインスタントコーヒーを適当にぶち込み、湯を入れる。まったく、この脳天気な自信はいったいどこから湧いてくるのだろう。あやかるには爪の垢でも煎じて飲みゃいいのか。もちろん飲む気は毛頭ないが。気のせいかな、何だかコーヒーがいつもより苦い気がする。
「それで。つまりは何の用だ」
俺は笹桑ゆかりをにらみつけた。築根麻耶の警察手帳と拳銃は見つかった。もう俺に用はないはずだろう。だが相手はワクワク感を抑えきれない顔で、楽しげに笑っている。
「そりゃあもちろん、海崎志保を殺した真犯人を捜すんすよ」
「……あ?」
「捜すんすよね、真犯人。だってそうすれば、五味さんもっと儲かるんでしょ」
「おまえ、意味わかって言ってんのか」
「手伝いますよぉ。こう見えてゆかりちゃんは結構頼りになる相棒っすからね」
殴りてえ。ぶん殴りてえ。だがマジで殴っちまったら、後で余計面倒な話にならないとも限らない。俺は湧き上がる暴力衝動を必死で抑えた。ここはとりあえずコーヒーを飲んで気を落ち着かせよう。
「とにかく、俺の邪魔はすんなよ」
「はい、しないっす。したこともない」
敬礼する笹桑ゆかりを無視して、俺はジローの寝室に向かった。
「起きろジロー。立って歩け。飯食うぞ」
のそのそと起き出したジローがいつもの場所で膝を抱えて座るのを見て、俺は丼にパック飯を入れ、レトルトカレーをかけ、電子レンジを五分回す。すると笹桑ゆかりが手を上げた。
「五味さん、私はトーストとハムサラダとレモンティーでいいっす」
「トースト以外却下だ」
「えー、朝食はヘルシーに行きたいのに」
「うるせえ」
オーブントースターに六枚切り食パンを四枚入れて二分回す。レンジとトースターを同時に使ってもブレーカーは落ちない。安さが売りのボロい賃貸だが、この点だけは気に入っている。
トーストが先に焼き上がったので、皿にのせてテーブルまで持って行き、一言釘を刺す。
「わかってるだろうが、おまえの分は二枚だけだからな」
笹桑ゆかりの胃袋のデカさは、昨日嫌というほど見た。コイツは要注意だ。そのときレンジが電子音を鳴らした。スプーンを放り込んだ熱々の丼をジローの前に置き、「食え」と言えば、飢えた野良犬のように飛びついてカレーライスをむさぼり食う。それを横目にまたコーヒーを入れ、バターケースを冷蔵庫から取り出す。さて、とりあえず食事を開始するか。
「五味総合興信所……興信所ということは、誰かに私の家を調査しろと言われたのかな」
ジローが海崎惣五郎のコピーを出している。とりあえずは「復習」だ。確かに海崎志保は死んだ。金を強請り取ることも、もうできない。しかし海崎志保を樹の幹に例えるなら、そこからは何本も枝が出ている。海崎惣五郎も篠生幸夫も、その枝の一本だ。そして上手くすれば、枝が次の幹になるかも知れない。だから海崎志保のことをもっと理解しておく必要があるのだ。
「五味さん、テレビ点けてもいいっすかね」
笹桑ゆかりがリモコンを手にたずねて来る。観る気満々だ。
「邪魔すんなって言ったろうが」
すると今度は新聞を手に持って、ピラピラと振り回す。
「だって一般紙の一面トップっすよ、海崎志保。こんなのワイドショーでも絶対トップっしょ」
そのうるさい新聞を取り上げ、テーブルの上に置いた。
「今の段階でマスコミの知ってることなんざ、警察発表と過去の発言だけだろ。俺らの方が情報を持ってるくらいだ。観る値打ちはない」
「でもあの死体から警察が何か見つけてるかも知れないっすよ。五味さんは警察を過小評価してるんじゃないすか」
それほど馬鹿じゃねえよ、と言いたがったがやめた。別に笹桑ゆかりの言葉に一理あると思った訳でもないが、一応観るだけは観ておくか、と思ったのだ。
「ジロー、やめだ。しばらく休んでろ」
俺がそう言うと同時に、テレビが点いた。ちょうど始まったばかりらしい。司会者連中が立ち話をしている。笹桑ゆかりは次々にチャンネルをザッピングして行く。各局を三周くらいしたところで、画面の隅に白いテロップが見えた。
――616の謎
「あ」
ザッピングの手が止まった。そこに映る海崎志保の顔。それはほとんど報道されなかった、海蜃学園の生徒が、すなわち篠生幸夫の娘が自殺したときの謝罪会見の映像だ。次にスタジオが映され、フリップを手に持った若い男が何やら話している。その内容をざっと要約すると、昨日見つかった海崎志保の遺体の腕に、「616」の数字が書かれていたらしい。これは警察からのリークだろうか。昨夜はそこまで細かく見なかったからな。
「悪魔の羽根だ」
笹桑ゆかりが画面を見つめたままつぶやく。
「悪魔の羽根がどうした」
俺の言葉に、しかし笹桑ゆかりは顔を動かさず、言葉だけを返した。
「腕に616を彫るのは、悪魔の羽根を始めたとき、一番最初に出されるチャレンジなんすよ」
「その616ってどういう意味だ」
「悪魔の数字っす」
「悪魔の数字?」
「ほら、『オーメン』って映画あったじゃないすか。あれで666が有名になったっしょ。でもよくよく調べてみたら、666じゃなくて616が正しい悪魔の数字だったんじゃないか、って説が出てきたんすよ。で、悪魔の羽根は616説を取ってるみたいなんす」
思わず「けっ」と言いかけた。そんなもん、どうでもいいじゃねえか。何だよ正しい悪魔の数字って。それは何において正しいんだ。正しいかどうか悪魔に聞いたのか。くだらねえ。だいたい616より666の方が意匠的にもインパクトの面でも優れてるだろうが。少なくとも現代では666の方が一般的なんだ、だったら現代の悪魔の数字は666で何の問題がある。
などと言いたい気持ちが湧いたが、ここでは脇に置いておいた。いま重要なのは、その数字の意味でも正確性でもなく、それが海崎志保の死体にあったという事実だ。つまり海崎志保は、自殺サイト「悪魔の羽根」に参加していた可能性がある。テレビの中でもそれに触れている。だが、本当にそうだろうか。
俺はつぶやいた。
「海崎志保は海蜃学園高校のSNSを乗っ取って、悪魔の羽根を広めようとした。それは自分もそこに参加していたからだ、と考えれば話としてはつながるか。だが」
「つながらないっすよ」
笹桑ゆかりは、ようやくこちらを向いた。
「だってSNSの乗っ取り事件から、もう五十日以上経ってるじゃないすか」
いつにも増して自信に溢れた断言。俺はたずねた。
「その五十日ってのが重要なのか」
「悪魔の羽根のチャレンジは最大五十日までしかないんす。五十日目の最後の指示が『飛び降りて死ね』なんすから。だから五十日以上前に海崎志保が悪魔の羽根に参加してたとは思えないっすよ。もし参加したなら最近です。SNS事件よりもずっと後」
だとすると、どうなる。海崎志保は何故616と腕に書いた。笹桑ゆかりの言うようにSNS乗っ取り事件より後、いまから五十一日前の時点で悪魔の羽根に参加したのか。いや、待て。そもそもこれを海崎志保が自分で書いたと言い切れるのか。もし海崎志保以外の誰かが書いたのだとすれば、それは誰だ。
考え込む俺の横顔を、笹桑ゆかりが嬉しそうに見つめている。
「何だよ」
「ね、やっぱり頼りになる相棒っしょ?」
そう言って白い歯を見せた。
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