第17話 道部久里子 (上)
雨は降らないって予報だったが本当かね。上空の雲の色を見ている限り疑わしい。
市街地から離れた緑の多い郊外に、サイノウ薬品の本社はあった。中堅の製薬企業というからもっと中小企業っぽいイメージを持っていたんだが、建物は他業種なら大企業と言われてもおかしくないレベルの規模はある。
しかも、クラウンで正門から敷地に入るのは難しそうだ。フロントガラスの内側に許可証を掲示していない車は、即追い返されている。社員でも取引業者でもない探偵の車が入り込める手段など、一切ないと見ていいのかも知れない。自爆テロでも警戒してんのかって次元のセキュリティだ。
とは言え、いまは通勤時間帯である。土曜日だというのに、ここだけ平日みたいな混雑ぶりだが、出勤組の車列が消えれば近付くチャンスはあるのではないか。本社近くのコンビニの駐車場から正門を眺めながら、俺は時間の経つのを待った。
クラウンの助手席ではジローがじっと座っている。
おでんにチキンに惣菜パン、コンビニでかなり散財したのだ、駐車場に長居するくらいは勘弁してもらいたい。一時間半ほど経ったろうか、正門の前からは車列が消え、人の列もなくなった。チャンス到来。
ジローを連れて歩いて近付けば、正門には車止めのチェーンが張られ、その両脇にしかつめらしい顔の警備員が二人立っている。顔を見るに若いのと中年のコンビだ。俺はその中年の方に声をかけた。
「あのう、すみません」
「何か」
俺よりだいぶ年上だろう警備員は、猜疑心丸出しの顔でにらみつけている。こりゃここの職場以外じゃ働けないタイプだな。余所で働いたら毎日問題を起こすだろう。しかし、いまこの男の再就職を心配してやる必要も理由もない。
「ここの職員さん、呼び出してもらうことってできますか」
「そりゃできなくはないが、何の用だね」
俺は隅っこがヨレヨレになった名刺を渡し、こう言った。
「営業の金浜さんに伝えて欲しいんですけどね。本木崎才蔵さんについてうかがいたいことがあると言ってもらえれば」
警備員はしばらく疑わしげにこちらをにらみつけていたが、さも大仰そうにため息を吐くと、入り口脇のブースに入っていった。何気なくもう一人の警備員を見れば、こちらに向かって困ったような笑顔で会釈する。アンタも大変だな、と口に出そうになるのを抑えて俺も会釈を返したとき、ブースの窓から声が聞こえた。
「金浜さんはすぐ来るそうだ! そこで待っといてくれ!」
金浜に案内されたのは、会社近くの喫茶店。チェーン店ではない純喫茶は昨今珍しいうちに入るだろう。小さなログハウス的なイメージの店の一番奥の席に俺たちは座った。
「いやあ、会社のお客さんなら社内の喫茶室が使えたんですけどね。個人的な用向きで使う訳にも行かなくて、こんな店で申し訳ない。しかし今週は土曜シフトに入っていて運が良かったと言うべきでしょうな」
初対面の人間に、店の者に聞こえたら気を悪くするんじゃないかと思えるような話を大声で、しかも脳天気なほどペラペラと喋る。なるほど、警察相手でもお構いなしに話しかけそうな感じだ。
年齢は五十前後か。それなりの役職についていてもおかしくない年代だが、肩書きが係長なのは触れるべきではないのだろう。ただ大柄で笑顔は若々しい。人柄だけなら評判もいいのかも知れない。
ウェイトレスが注文を取りに来たのでブレンドを三つ注文する。もちろん俺の隣のジローはコーヒーなど飲まないが、それをいちいち説明するのも面倒だ。
「早速ですが、お話を聞かせていただけますか」
俺がメモ帳とボールペンを取り出すと、金浜は珍しそうにのぞき込んだ。
「おや、随分アナログですな」
「ええ、まあ」
何なんだ。最近の流行りか。俺は笑顔を引きつらせながら話を始めた。
「それでですね、私はいまあるトラブルに関して依頼を受けて調査しているのですが、その線上に本木崎才蔵さんの名前が浮かんでいる訳です。しかし、この人物がどうもよくわからない。それで『ある筋』からあなたが本木崎才蔵さんを偽物ではないかと疑っていると聞きまして」
「なるほど、ある筋ですか」
金浜は口元に意味深な笑みを浮かべてうなずいた。俺も明確には言わないが、小さくうなずく。
「ええ、ある筋です。詳細は言えませんが」
この言い方なら、あたかも俺の背後に警察がいるかのように相手には伝わるだろう。そう思ってもらった方が話も早い。
「本木崎才蔵は、中一のときの同級生なのです」
金浜はそう話し出した。
「決して親友だったとか、そういう関係ではないのですが、とにかく印象的な名前でしょう、この歳になっても覚えていた訳です。その本木崎才蔵がうちの会社に中途採用で入社し、私としてはビックリしたのですな。何せ故郷は山陰です。こんなところで巡り会うものかと」
そこにウェイトレスがコーヒーを三つトレイに乗せて持ってきた。三人の前にコーヒーを並べてオーダー伝票を起き、去って行くのを待って俺はたずねた。
「同姓同名の他人って可能性は」
「もちろんそれは考えました。それで……本当はこれは部外者に話してはいかんのですが、まあ仕方ない。人事部に同期の友人がおりましてね、それでちょっと履歴書を見せてもらったのです。すると出身中学が私と同じで年齢も同じ、つまりどう考えても、彼は私の知っている本木崎才蔵な訳です。ところが」
「あなたの記憶にある本木崎才蔵と重ならない」
「そうです。私の知っている本木崎才蔵はもっと豪放磊落な男でした。筋肉質で岩石のような顔をしていたように思うのに、我が社にやってきたのは品行方正で都会的な、まあ言っちゃ何ですが優男に近い。あまりにギャップが大き過ぎるのです」
俺は一口コーヒーを飲んだ。えらく薄いな、これブレンドか? まあいい、いまはそれどころじゃない。
「しかし人の外見は変化するものだし、記憶が間違っている可能性もありますよね」
俺の言葉に金浜はうなずく。
「そう、私もそう思ったんです。だがどうにも心のモヤモヤが晴れない。だから思い切って本人に聞いてみた。昼休み、食堂の隅で一人で弁当を食べてるときに話しかけて、母校の先生について覚えているかと」
「どうでした」
「本木崎が言うには、若い頃に事故に遭って昔の記憶がないのだそうなのです」
なるほど、そう来たか。俺の苦笑に金浜も気付いて、つられたように笑みを浮かべた。
「まさか嘘をついているだろうと胸倉つかむ訳にも行きませんからな、そこではそれ以上の話はできなかったのですが、その本木崎が大帝邦の研究所に出向になって、半年ほどであの事故です。何も関係がなかったのだろうかと心配にもなるというものでしょう」
そりゃあ心配にもなるわな。普通に考えて本木崎才蔵の言動は不自然だ。偽物と見た方が筋が通る。そんなヤツがお得意様の研究所で、もし何かしでかしでもしていたら。営業の人間ならゾッとするだろう。
「この研究所への出向は、会社から命じられるのですか」
「その場合もありますが、本木崎は自ら進んで強く出向を希望したらしいです」
「希望すれば誰でも出向できる?」
「誰でもとは行きません。出向させる以上、研究者としての技術や能力も要求されますからな。ただ、出向したところで給料が上がる訳でもないのです。好き好んで出向を希望する者は珍しいでしょう」
つまり会社としてはある意味、願ったり叶ったりの部分もあった訳だ。だが本木崎才蔵は何故そうまでして出向を希望したのだろう。何らかの目的があったと考えても無理はない。そもそもサイノウ薬品に入社したのは、先端薬剤研究所に潜り込むためだったのではないか。
「なるほど、それでは不安に思われるのも当然ですね。とは言え、さすがに警察沙汰にするほどの確信はなかった、てとこですか」
俺の言葉に金浜はうなずく。
「証拠がある訳でもない、記憶頼りの疑惑ですからな。果たして真相はどうなのか、あの本木崎才蔵は誰なのか、このままわからないまま終わるのか。ねえ探偵さん、もし何かわかったら、話せる範囲で構わないんで教えてもらえんでしょうかね。あれ以来どうも寝付きが悪くて、晩酌の量が増えとるんですわ」
そう言って笑うと、金浜もコーヒーを飲んだ。「何だこりゃ、えらい薄いな」とつぶやきながら。
◆ ◆ ◆
チャレンジ七日目。土曜日。
今日も朝からずっとベッドの中で、グロ動画を見続けている。気持ちが悪い。もうすぐ昼なのに食欲がない。母さんは仕事に出る前、炒飯を作ってレンジに入れてあるって言ってたけど、食べられないかも知れない。
何でこんなのを見なきゃいけないのだろう。意味はわからない。でもちゃんと見ないと、嘘をついてもキャプテンにはバレてしまう。何でもすべてお見通しなのだ。だから今日は怒られないようにしたい。
何故だろう、最近父さんのことを思い出す。女を作って出て行った、養育費も払ってくれないクズな父親のことを。懐かしい訳じゃない。寂しい訳でもない。ただ何となく思い出すのだ。そんな自分が、たまらなく嫌になる。
父さんがもし、いまでも家にいたら、私はこんなに醜かったろうか。父さんがいてくれたら、こんなチャレンジをしていただろうか。
ああ、もう忘れよう。いまはチャレンジのことだけ考えるんだ。この土日でいままでの分を取り返す。高いポイントでクリアして、そしてキャプテンに褒められるんだ。何としても。
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