第20話 巣穴の中へ (中)
「ジロー、立て。その中に入れ」
ジローを先にクローゼットに押し込め、俺も入って座る。海崎志保が戸を閉めた後、二人揃って暗い中で膝を抱えていると、再びチャイムが鳴った。海崎志保は部屋のドアを開けっぱなしで玄関に向かったらしい。音がすべて聞こえている。玄関ドアの開く音、そして聞き覚えのある女の声がした。
「県警捜査一課の、
フォックスかよ。俺は危うく声を上げそうになった。フォックスは築根麻耶の仇名だ。主に捕まる側が口にする仇名だが。よりにもよって何でこいつが。
「はあ、それで何の御用でしょうか」
「大帝邦製薬の先端薬剤研究所爆発事故について、おうかがいしたいことがあります。こんな時間に申し訳ありませんが、ご同行願えませんでしょうか」
「お断りします」
静かでおとなしげな、しかし断固とした言葉だった。
「おい、あんた」
これは原樹の声だろう。だがフォックスに止められたのか、黙り込んでしまった。
「同行できない理由でもあるのでしょうか」
フォックスは落ち着いた声だ。この女刑事はしぶとい。しかし。
「警察にはもう何度も取り調べを受けました。お話しできることはすべて話しました。いまは体調も崩しがちになっておりますので、これ以上協力はいたしかねます」
海崎志保も淡々と、けれど一歩も引かない。
「これは極めて重要なことです。後々あなたが不利になるかも知れません」
だがフォックスは押す。すると、海崎志保はこんなことを言い出した。
「それでは、中でお話しください。私は一人暮らしですし、このマンションは防音もしっかりしています。秘密が外に漏れることはないと思いますよ」
おいおいおい、ちょっと待てよ。この部屋に入れる気なのか。マジか……いや、この女まさか最初からそのつもりだったんじゃ。
「いいでしょう、ではこちらでお話をうかがいます」
この馬鹿、易々と挑発に乗りやがって。靴を脱ぐ音がする。フォックスと原樹が入って来たのだ。俺はジローを見た。だがピクリとも動かない。まあそうだろう。この状況で音を立てる可能性があるのは、どう考えても俺の方だった。
「誰かここにいたのですか」
部屋に入ってくるなりフォックスがたずねた。しまった、忘れていた。コーヒーのカップがそのままだ。あと名刺も。しかし海崎志保の声に動揺はない。
「ええ、マンションの中のお友達が二人、ついさっきまで」
「タバコを吸われる方のようですね」
「はい、この部屋の中では喫煙禁止ですけど」
そんなに
「コーヒーを飲んでいない方も一人」
築根の気付いたのはジローのカップだ。
「出された物は全部口に入れるような環境で育った方ばかりではありませんし」
と冷静に、かつ余裕
柔らかいソファが沈み込む音。海崎志保が自分の席に着いたのだろう。
「どうぞ、おかけください」
「失礼します」
フォックスが座る音がした。だが三つ目の音はない。おそらく原樹は立ったままなのだろう。そしてフォックスは事務的な口調で話し始めた。
「早速ですが、まずあなたには黙秘権が認められています」
「はい、その辺の前置きはもう何度も聞きました」
丁寧な嫌味。品のある拒絶。しかしそれに怯むフォックスでもない。
「それでは単刀直入にうかがいます。本木崎才蔵氏をご存じですね」
俺の背筋に冷たいものが走る。けれど海崎志保は当たり前のように、こう答えた。
「いいえ、存じ上げません」
知らん訳があるか。さっき聞いたばかりだろうが、と俺は心の中で突っ込んだ。何てこった、俺はこんな図太い女を相手にしてたのかよ。とは言え、フォックスがこの程度で諦めるはずがない。
「サイノウ薬品の社員だった人物です。あの研究所の爆発事故の際、研究員として出向し勤務していました」
「そうですか」
「ですが再度我々が調査した結果、この本木崎才蔵氏は偽物だと判明しました」
もうそこまで調べ上げやがったのか。県警捜査一課が凄いのかフォックスが凄いのかは何とも言えないが、この女が優秀な刑事なのは間違いない。
「はあ」
これに対して、まるで意味がわからない、と言わんばかりの海崎志保の声。だがフォックスはまだ押す。一気に押し切る気なのだろう。
「本物の本木崎才蔵氏はおよそ十年前に亡くなっています。つまり、誰かが何らかの方法を使って、その名前と戸籍を買い取ったのです」
「そんなことがあるのですね」
「その名前と戸籍を買い取った人物の正体もすでに判明しています」
「そうなんですか」
「あなたの父親、谷野孝太郎氏です」
沈黙が訪れた。確かに衝撃的な話ではあるだろう。初めて聞いたのなら、という注釈が付くが。このクローゼットの中からは確認のしようもないものの、もしかしたら海崎志保は驚いたような顔を見せているのかも知れない。くそ、今回ばかりはフォックスに同情したくなる。
「海崎志保さん」
フォックスが声を一段落とした。
「あなたは孝太郎氏が本木崎才蔵と名前を変えて研究所で働いていることを、知っていたのではありませんか。そしてそれを利用し、研究所の破壊を企てた。違いますか」
俺があえて踏み込まなかったところにまで踏み込みやがった。詰めにかかっているのだろう。だが、フォックスはちょっと焦っているようにも思える。金のかかってない連中はこういうところが雑なのだ。
一方、海崎志保の声に一切動揺はない。
「何のために、そんなことを企てなければならないのでしょう」
「復讐です」
「復讐?」
「あなたは藤松家の中で、古い因習に縛られ困難な暮らしを余儀なくされました。そのことについて、藤松勘重氏を始めとする家族一同に恨みを抱いていたはずです」
またしばしの沈黙。いったいこのとき、海崎志保はどんな顔をしていたのか。一つ間違いなく言えるのは、罪の意識に打ちひしがれてなどいなかったろうということだ。何故なら、聞こえてくるその声には自信が満ち溢れていたのだから。
「もし仮に恨みを抱いていたことが事実だとしても、だから父を死なせて、さらに何十人も巻き添えにしてまで一族皆殺しを企てたというのは、少し論理が飛躍し過ぎているのではありませんか」
女同士の会話はどちらも穏やかな口調だが、言葉の端々に火花が散っている。フォックスも引かない。
「あなたには動機があります」
「ならば証拠もあるのでしょうか」
これはさすがにフォックスが沈黙する番だった。
「証拠がないのなら、それはすべて憶測です。空想の中の犯罪です。自白偏重の捜査は、いい加減やめるべきではないかと思いますが」
海崎志保の顔を想像する。おそらく勝ち誇ってはいないだろう。その口ほどにものを言う目を除いては。
「……ご指摘痛み入ります。ですが、もし社会正義の観点からご心境に変化がありましたら、こちらまでご連絡ください。」
今回はフォックスの完敗である。まあ証拠がないんじゃ同情も出来ないが、それにしても海崎志保という女、こいつは想像以上にとんでもないぞ。
立ち上がる気配。遠ざかる微かな足音。「それでは失礼いたします」というフォックスの声。玄関ドアの開いて閉まる音。そして足音がクローゼットに近付き、戸が引き開けられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます