第 6 話 人間コピー機 (中)

 客間には茶色い革――たぶん合皮だろう――のソファが、コーヒーテーブルをはさんで向かい合っている。敷かれている灰色のカーペットは、どうやらホームセンターに一山いくらで売られている物のようだった。まるでどこかの事務所のフロアであるかのように薄っぺらい。


 離婚するときに持って来たのだろうか、高そうな書棚が一組置いてある。中には庶民的な雑誌ばかりが並んでいたが。その書棚の中段に、写真立てが一つ。肥田久子と若い男が笑顔で並んでいる。この男、資料で見たな。確か海崎志保の死んだ旦那、藤松秀和だ。


 立って部屋の中を見ていると、ドアがノックされ、カップ三つとティーポットを乗せたトレイを手に肥田久子が入って来た。そしてソファに目をやりギョッとする。


 ソファにはジローが座っていた。虚空を見つめ膝を抱えて、ピクリとも動かずに。


「ああ、失礼。うちの助手はちょっと変わってましてね、紅茶は飲まないんです」

「そうですか、助手……」


 俺の言葉に納得が行かないのか、肥田久子はしばしジローを見つめると、おもむろに皿に乗ったカップを前に置いた。皿には角砂糖が乗り、カップの中にはレモンが入っている。三人分のカップを置き、ティーポットの紅茶を注いだ。その間、ずっと視線はジローに向いている。しかしジローに反応はない。相変わらず人形のように、ただ座っていた。


「藤松秀和さんとは」


 俺の言葉に肥田久子は驚いたように顔を上げた。


「親しかったのですか、と聞くのはおかしいですよね。お孫さんですもんね」


 懐かしむような、それでいて悲しむような複雑な顔を見せながら、肥田久子はソファに座り、背もたれに身を任せた。


「秀和ちゃんはお祖母ばあちゃん子だったの。いつも私の後をついて回って。離婚してからも毎月一度は遊びに来てくれたわ。本当に優しくて、純真で、素直で、とってもいい子……あんなにいい子が、何であんなことに……何であんな女と」


 言葉の後半は絞り出すような聞きづらい声になった。やがて両手で顔を覆い、さめざめと泣き出す。俺はジローの隣のソファに座り、紅茶を一口飲んでメモとボールペンを取り出した。肥田久子は指の隙間からこちらを見つめている。


「随分アナログなのね」

「ええ、まあ使い慣れているもので」


 ほっとけよ、と内心思ったが、気を取り直して質問した。


「秀和さんが亡くなった研究所の事故に、海崎志保さんが関係していると思いますか」

「してるわ。きっとしてる」


 即答。肥田久子は顔から手を離し、涙を溜めた目でにらみつけるように俺を見ている。ただ当然こちらとしては、それを鵜呑みにはできない。


「失礼ですが、そこまで断定的におっしゃる根拠は何です。事故のことは警察はもちろん、大帝邦製薬の事故調査委員会も調べています。しかしどちらであれ海崎志保さんとの関連は指摘されていません」


 すると肥田久子は、さらに目をつり上げる。


「そんなの当てになるものですか! どうせいい加減な調査しかしてないに決まってる。誰も彼もみんなあの女の味方なのよ。きっとお金をつかまされてるんだわ」


「しかし、実際には事故の後、志保さんは大帝邦グループから追われるように海崎家に戻っています。大帝邦の側が手心を加えたとは考えにくい。まして警察が、となると」


「もし仮に、ちゃんとした調査をしていたとしても、何か見落としがあるのよ。絶対にそう。じゃなきゃおかしいもの。私にはわかるんです。あの女は性根が腐っているわ。何もしていないはずがない」


 肥田久子は執拗だった。その様子は俺にはいささか偏執的に見えた。そういう思いが顔に出ていたのが理由かも知れない、突然、彼女の口から乾いた笑い声が飛び出したのは。


「どうせアナタも、私があの女に金を恵んでもらいに行ったと思ってるんでしょう。それを断られたから腹いせに悪口を言って回っているのだと。陥れようとしているのだと。ええ、ええ、何度も聞いたわ。新聞もテレビも嘘ばっかり! 私はね、私はビジネスの話をしたかっただけなの。秀和ちゃんは立派な研究者になって、いずれは立派な経営者になるはずだったの。そのお嫁さんなんだから、秀和ちゃんの遺志を継いで欲しかった。そのための協力がしたかった。なのに、なのにあの女! 笑ったのよ! 秀和ちゃんの写真が見ている前で、会社になんか興味がないって笑ったの! 許せない!」


 泣きわめく肥田久子の声を聞きながら、俺はうんざりしていた。このヤマはハズレかも知れない。まあ人間、諦めが肝心だ。だが一応一通りのことを聞くだけは聞いておいた方がいいだろう。


「ちなみに、差し支えなければで構いませんが、何のビジネスの話をされたのですか」

「検査薬です」


 急に静かな口調で即答したので、俺は何かを見透かされたのかと一瞬肝を冷やした。


「検査薬……ですか。しかし大帝邦は」


「大帝邦製薬は市販薬と処方薬で大きなシェアを持っています。でも個人開業医の診療所で使うような検査薬、検査キットなどは取り扱っていないの。それは大帝邦のアキレス腱とも言えたわ。そこを補うビジネスが必要だったのよ」


「はあ、しかし」


 どんな業界にだって棲み分けはあるだろう。何十年も昔ならともかく、現代の企業において、単独でありとあらゆる製品をフルラインナップ揃えて作るメーカーなんてまずない。同じ企業グループではあっても、たとえば発電所を造る会社と冷蔵庫を作る会社は別だ。ダンプカーと軽自動車は同じ会社では作っていない。それにどこかの婆さんに焚きつけられたからといって、明日から始めます、てな具合には行かんはずだ、ビジネスなんてのは。


 そんな俺の顔色を読んだのだろうか、肥田久子は急に胸を張り、そして自信に満ちた声でこう言った。


「私はね、海蜃館大学の大学病院に三十年いたの」

「おや、医者だったんですか」


 それは初耳だ。俺にとって値打ちのある情報かどうかはわからないが、肥田久子には重要なことなのだろう。


「たくさんの医療関係者と共に仕事をしてきましたし、指導教官の立場で何十人という医学生を鍛え上げてきました。私が頼めば、新開発の検査薬を採用してくれる病院や診療所はいくつもあるでしょう」


 あるでしょう、って言われてもな。それは単なる希望的観測としか言えないんじゃなかろうか、とは思ったが、もちろん口には出さない。一応聞くだけは聞く。判断するのは後の話だ。


「具体的な名前は挙げられますか。つまりアナタが信頼している先生や病院というか」


 俺がそう言うと肥田久子は立ち上がり、壁際の電話の前に行った。電話の横にはメモ帳とボールペンがある。そこで何か書き綴って、ソファに戻って来た。持って来たメモ用紙をコーヒーテーブルの上に載せる。メモは二枚だ。


「こちらが、私がモニターに推薦するつもりだった診療所と先生です。そしてこれが」


 もう一枚のメモを指差す。


「あの女の自宅の住所と電話番号、それとあの女の家で働いていた家政婦の連絡先です」


 なるほど、多少頭はイカレているが、馬鹿ではない。こっちの欲しい情報をちゃんと理解してやがる。俺は強烈なタバコへの欲求を我慢した。ここで何とか頭を一ひねりさせたいところなのだが、まあクラウンに戻ってからだ。とりあえず、いま得られる情報としては、この二枚のメモが最大のものだろう。言い換えれば、他にもう用はない。


「ありがとうございます。これで何とか調査を続けられそうです」


 軽く頭を下げ、二枚のメモを胸ポケットに入れた。俺の言葉に嘘はない。どこまで当てになるかは不明だが、とりあえず向かう方向は決められる。


「ひとつ聞いていいかしら」


 肥田久子は落ち着いた顔で俺にたずねた。


「何でしょう」

「この調査は、誰の依頼なの」


「申し訳ありませんが、それは言えません。守秘義務がありますので」


 自分の飯の種にするための調査だ、などと説明する訳には、もちろん行かない。


「そう」


 肥田久子は残念そうにつぶやいた。自分の味方になってくれるかも知れない者の名を知りたかったのだろう。そんなヤツはどこにもいないのだが。


「では、今日のところはこれで失礼します。何かありましたら、また」


 俺はソファから立ち上がり、ジローに顔を向けた。


「ジロー、もういい。事務所に帰るぞ」


 しかしジローは膝を抱え、人形のように座ったままだ。表現が理解できなかったのだろう、たまにあることだが少しイラッとする。


「立って歩けってことだよ」


 ジローはやっと理解したのか、ゆっくりと立ち上がり、ドアに向かった。その背中に、肥田久子の声がかかる。


「……その子、自閉症じゃないの」


 ジローを見つめていた目が、こちらに向く。俺は作り笑顔で首をかしげた。


「さあ。もしかしたら、そうかも知れませんね」

「どういうこと。病院で診察を受けていないの」


 向けられるのはとがめるような視線。しかし、これにはもう慣れている。


「ええ、その必要はないので。こいつは優秀な助手なんでね」


 そう言い残して、俺たちは肥田邸の客間を後にした。

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