第 7 話 人間コピー機 (下)

 信号待ち。どこで聞いたか忘れたが、日本の道路の信号は、すべて九十秒以内に変わるらしい。ホントかね。三分くらい変わらない信号もあるような気がするし、右折信号が長い場所とか五叉路の交差点とかでもそうなんだろうか。


 そんなことを思いながらクラウンの左右の窓を開けると、もうもうと煙が外に流れ出て行った。助手席のジローは煙そうな顔ひとつせず、ただ両膝を抱えて正面の虚空を見つめている。俺は胸のポケットから二枚のメモを取り出し、さっと目を通した。肥田久子の知り合いの医者、そして海崎志保本人。さて、どっちから取りかかるべきだろうか。


 気持ち的には直接本人にぶつかってみたいところだ。それで何か出るのなら、わざわざ面倒な手間をかけることもない。だがもし本当に海崎志保に後ろ暗い部分があった場合、警察の捜査を一度退けているという事実を忘れてはいけない。どう考えても一筋縄には行かない相手だろう。外堀を埋めておかなければ、かえって面倒なことになりかねない。


「医者が先ってことか……」


 そのとき、後ろからクラクションが鳴った。前を見ると信号が青に変わっている。ひとつ舌打ちをしてアクセルを踏めば、銀色のクラウンは静かに走り出す。対向車のヘッドライトが目に入った。気付けば日は落ちかけ、周囲はもう薄暗い。危ない危ない、ちょっと思考に意識を向けすぎだ。俺はメモを胸ポケットに戻し、ヘッドライトをオンにした。




 事務所に戻ると、早速事務机のデスクトップPCを立ち上げ、メモに書かれてあった医者を検索した。診療所の名が五つ。うち公式サイトを持っているのは四つ。内科が二つに外科が一つ、精神科が二つ。初診のみ飛び込みOKが一つに予約の必要なしが四つ。完全予約制のところがないのは助かった。あれは俺みたいに一日何軒も病院を回るような連中を想定していないからな、厄介なのだ。


 まあ今日はこの時間から動いても意味がない。もうどこも診察時間は終わっている。幸い明日が休診日のところはないようだし、とにかく朝から走り回ることにしよう。つまり今夜やっておくべきことは「復習」だ。


 事務机から離れてソファに向かう。その端にはジローがいつも通り膝を抱えて座っていた。正面向かいに座り、ジローを見つめるが反応はない。ジローの目の焦点は、俺を通り過ぎて壁の向こうで結ばれている。いまここで猫だましのように手を叩いてみても、おそらくまばたき一つしないだろう。だが、耳は間違いなく聞こえているはずだ。


「ジロー『復習』だ。さっきの婆さん、肥田久子を出せ」


 すると、ジローは数秒そのままでいたものの、やがて膝を抱えていた腕を開き、足を床についた。そして一旦立ち上がると、やや中腰の、いわゆる腰が引けた立ち方になる。目の焦点が結ばれているのは俺の頭の上辺り。その目が、怯えた。


「何よアナタ、どこの新聞社。警察呼ぶわよ」


 その声のトーン、震える視線、半歩下がった右足に乗った重心。いざとなったら走って逃げようという身体の姿勢も、買い物カゴを下げた腕の角度と弱く握った手の指も、紛れもなく、あのときの肥田久子そのものだった。


「じゃあテレビ局ね」

「アナタ、いったい何なの」


 吐き出す言葉は一言一句間違いなく、また表情筋の動かし方から眼球の動きに至る些細なところまで、完璧なまでに肥田久子の姿をトレースしている。これがジローの特技、あるいは能力、もしくは才能と言ってもいいのかも知れない。とにかく俺が「人間コピー機」と呼んでいるこれこそが、ジローをここで飼っている理由だった。


 何故ジローにこんなことができるのか、その理屈は知らない。やれ自閉症だサヴァン症候群だと言う奴もいたが、病名になど興味はない。コイツは俺の役に立つ。それだけの話だ。


 ジローはソファに座った。背を伸ばし、手は膝の上に。そうそう、こんな座り方だった。


「秀和ちゃんはお祖母ちゃん子だったの。いつも私の後をついて回って。離婚してからも毎月一度は遊びに来てくれたわ。本当に優しくて、純真で、素直で、とってもいい子……あんなにいい子が、何であんなことに……何であんな女と」


 何か引っかかる点がないか、慎重に探す。言葉だけではない。指の動作、視線の動き、本人が前にいる状態ではじっくり見ることができない、様々な部分に目をこらす。


「なのにあの女! 笑ったのよ! 秀和ちゃんの写真が見ている前で、会社になんか興味がないって笑ったの! 許せない!」

「ちょっと止めろ」


 その瞬間ジローは止まった。まるで動画のストップモーションのようにピクリとも動かない。俺はタバコを思い切り吸い込んで、煙を吐き出した。


「写真てのは肥田久子の家にあったあの写真のことか、それとも藤松で葬式出したときの写真か。確認しときゃ良かったな。まあ、調べて行きゃわかるか。よし、続けろ」


 俺の言葉にジローは再び動き出す。


「検査薬です」


 そのままジローに肥田久子のコピーを出させ続けながら、俺は思考に集中した。特に引っかかるところはない。やはりあの二枚のメモ以上の情報はここにはないか。


 ため息をついて立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫の上のレトルトカレーを取り、冷蔵庫の中からパック飯を出す。ラーメン用の丼にパック飯の中身を落とし、上からカレーをかけ、電子レンジに放り込んでタイマーを五分回す。


 さて明日は医者を回るとして、話をどう切り出すか。「肥田久子さんをご存じですか」。悪くはないが、あの婆さんのことを聞いても仕方ない。やはり「海崎志保さんをご存じですか」かな。いやいや待て。これじゃ知らないって言われたら終わりだ。しかし研究所の事故の原因を聞いても知ってる方がおかしいだろうし、どうする、まずは大帝邦製薬と取引があるかどうか聞いてみるとするか。


 ピーッという甲高い電子音。熱くなった丼をレンジから取り出し、中にスプーンを放り込んでソファまで持って行けば、ジローはまだ延々と肥田久子を出し続けている。


「私が頼めば、新開発の検査薬を採用してくれる病院や診療所はいくつもあるでしょう」

「あるといいがな」


 そうつぶやきながらテーブルに丼を置いた。


「ジローもういい、やめろ。今日はこれを食って寝るんだ」


 するとジローは弾かれたように丼に覆い被さり、スプーンをわしづかみにすると、地獄の餓鬼もかくやという勢いでカレーをむさぼり食った。


「言っとくが、寝ろってのは自分のベッドで寝ろって意味だからな。ここで寝るんじゃねえぞ」


 返事はないが、いつものことだ。俺はまた思い切りタバコを吸い込んだ。アイデアってのは、なかなか浮かばないもんだな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る