第 9 話 篠生幸夫 (上)

 チャレンジ四日目。水曜日。


 朝、登校する振りをして学校をサボった。キャプテンの指示だ。今日は睡眠薬を手に入れなければならない。何日分もらえばいいんだろうか。とりあえず、なるべくたくさん手に入れろと言われてるんだけど。


「眠剤は便利な薬だ。勇気も度胸もないヤツに力を与えてくれる。手元に置いておいて損はない」


 家の近所に精神科の病院があったので、そこを狙った。もう一ヶ月ほど眠れていない、医者にはそう言った。一生懸命に言った。それなのに。


「あと一週間だけ様子を見ましょう。できれば次は保護者の方と来てください」


 そう言って薬を出してくれなかった。ムカつく。何で患者の言うことを素直にきかないのか。お金は払うと言ってるのに、どうしてこんなに頭が固いのか。


 でもまあいい。二軒目の医者は何も言わず薬を出してくれたから。二週間分。これだけあれば……あれば、どうするのだろう。キャプテンは何をしろと言うつもりなのだろう。


 いや、そんなことを考えても仕方ない。まだ時間はある。今日中にもう一軒くらい病院を回れる。今はとにかくチャレンジをクリアするんだ。全部クリアするんだ。そうすれば、頑張れば、努力すれば結果は出る。キャプテンに褒められる。


 そしてきっと私にも、いつか悪魔が見えるようになる、はず。



 ◆ ◆ ◆



 最初の診療所の自動ドアをくぐったのが朝八時半。今は昼の二時だ。なのにまだ二軒しか回れていない。医者ってのは何でこんなに待ち時間ばかりなんだ。しかもまったく収穫なし。患者じゃないなら帰れときた。待合にゴロゴロいる爺さん婆さんだって患者ってほどの患者じゃねえだろうに、金は払うって言っても話を聞かない。まったく頭が固いというか融通が利かないというか。くそっ。


 寂れたレストランの喫煙席で俺はタバコをくゆらせていた。目の前ではジローが、相も変わらずカレーをむさぼり食っている。ポツポツと座ってる客の中には、こちらを見ているヤツらもいた。一応他人の目も気にはなるんだが、こいつはパンや握り飯を食わないからな。何も食わせない訳にも行かないし、まあ諦めの境地ってやつだ。


 さて、終わったことは仕方ない。頭を切り替えよう。内科、内科と来て、次はどうする。外科に行くか精神科にするか。メモにあった開業医はどれも公式サイトを見る限り、夕方までしか開いていない。今日中に回れるとしたら、あと一軒で終わりだろう。しかし患者じゃないと、また追い出されるかも知れない。これ以上無駄足を踏むのはもう勘弁……いや、待てよ。そうか、患者がいればいいのか。俺はジローを横目で見つめた。




 しのメンタルクリニックは、建売住宅が並ぶ郊外のベッドタウンの中にあった。路地をはさんだ向かい側にある駐車場にクラウンを駐める。午後の診察受付は十六時半まで。ギリギリだが、とりあえず当たってみるしかない。


 二階部分にある入り口まで階段を上がってドアを押し開けると、乾いたドアベルの音が響いた。待合室はベージュ色系統の内装で、ちょっと薄暗い。中には患者らしきヤツが二人。受付には看護師だろう、眼鏡をかけた中年の女が、無表情にこちらを見つめている。


「すいません、こいつ初診なんですけど、大丈夫ですか」


 後ろに立つジローを指差すと、受付の女は慣れた風にうなずいた。


「保険証をお願いします。あと、この問診票を書いてください。それと予約の患者さんが優先になりますので、しばらく待っていただきますけどよろしい?」

「ええ、それは構いません」


 俺にクリップボードに挟まれた問診票を渡すと、女は保険証を受け取り、カルテを作るのだろう、一旦奥に消えた。




「初めまして、篠生と言います」


 医者は人懐っこそうな笑顔で挨拶した。しかし一人がけのソファに座ったジローは、相変わらず膝を抱えて真正面だけを見つめている。その後ろに立つ俺に、篠生幸夫――あのメモにはそうあった――は顔を向けた。


「いつもこんな状態ですか」

「そうですね、飯食うときと寝るとき以外は、だいたいこの感じで」


 白い部屋の中で俺の言葉にうなずく篠生幸夫は、五十歳手前くらいに見えた。身長は俺と同じくらい、百七十二、三というところだろうが、全体的に線が細いので、もう少し小柄にも見える。詰襟の白衣を着て、短い白髪交じりの頭をキッチリなでつけていた。清潔感の塊だな、というのが第一印象だ。


「この状態について、これまでに病院で診断を受けたことは?」


 カルテに何やら書き込みながら、篠生幸夫はそうたずねる。


「さあ。こいつの親のことは、ちょっとよくわからないんですが、まあ病院に連れて行くような感じではないんじゃないかと。もっとも俺も、どこの病院の何科に連れて行けばいいのかわからないんで、とりあえずここに連れて来たんですがね。で、どうです。やっぱり自閉症ですか」


 篠生幸夫は一瞬、同情するような視線をジローに向けた。


「この状態は、一度見ただけですぐ診断が下せるような性質のものではありません。正確な診断は専門病院でなければ無理です。ただ、いま見えている症状だけでも、自閉症スペクトラム障害、いわゆる自閉症の可能性はあると思います」


「なるほど、そりゃ良かった。いや、良くはないな」


 思わず口を突いた俺の言葉に、篠生は微笑む。


「いえ、お気持ちはわかります。何事も正体不明というのが一番不安でわりが悪いですからね。どんな病気であれ、名前がついたことに安心する患者さんや親御さんは多いですよ」


 そう答える篠生幸夫の態度は、患者とその家族に対する真摯なものに見えた。おそらくは、掛け値なしに「良い医者」なのだろう。いまだ。いまこの雰囲気に乗っかるしかない。


「先生、ついでに関係ないこと聞いてもいいですか」

「いいですよ。何でしょう、私に答えられることであれば」


「ここは大帝邦製薬と取引はありますか」


 眼差しに一瞬不快感がよぎったが、篠生幸夫は笑顔を崩さなかった。


「大帝邦ですか。調剤薬局を間に挟んでということなら別ですが、直接の取引はないはずですね」

「では肥田久子さんをご存じですよね。いや、藤松久子さんと言った方が通りがいいのかな」


 この問いには数秒の沈黙があった。口元に手を当て、考え込んでいる。


「大学病院の藤松先生ですか。学生時代にはお世話になりましたが、最近は……いや年賀状は出してたのかな」

「肥田久子さんは、個人的に先生を大変信頼されているそうです」


「なるほど、あの方のお知り合いですか」

「ええ、まあちょっとした知り合いで」


「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」


 篠生幸夫は残念そうにため息をついた。だがそんなことを気にしている場合ではない。俺は遠足前の子供のように、はやる気持ちを抑えられなかった。


「肥田久子さんをご存じなら、海崎志保さんもご存じでしょう」


 だがこの問いに対する返事はない。篠生幸夫は数秒間笑顔で俺を見つめると、机の一番下の引き出しからA4サイズの紙を数枚まとめて二つ折りにしたものを取り出した。


「症状のチェックリストです。記入して次回の診察の際に持ってきてください。来週予約を入れておきますので、紹介状を書くかどうかはそのとき決めましょう」


 リストを差し出すその手には、もうこれ以上何も答える気はない、という明確な意思が込められていた。

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