第26話 海崎惣五郎 (下)

「タバコの煙は口の中で楽しむ物だ。肺の奥まで吸い込むのは体に悪い」


 海崎惣五郎のつぶやきが、俺の口元に笑みを誘う。


「らしいですな。しかし俺の体はもう刺激に慣れ切っちまってるもんで」

「うちの孫は警官を襲うほど愚かではない」


 その声には心の奥の苦悩が見て取れるように思えた。


「半分同意ってとこですかね。確かにお孫さんは、後先考えずにあんなことをするタイプには思えない。もっとドッシリと構えた冷静な、いや図太い、てか言っちゃ何だが相当タチの悪いヤツだ」


「ならば」

「ならばこそ、姿を隠したのには相応の理由があったと考えるべきでしょう。問題はその理由です。それが核心とも言える。何か心当たりはありませんか」


 葉巻を口元に置いたまま、吸いもせずに思い悩む海崎惣五郎の様子は芝居には見えない。俺はこう続けた。


「うちの新人は疑り深くってですね、アナタが逃げたお孫さんをかくまってるんじゃないかと考えてた訳です」


 苦悩する老人は、一つ大きな息を吐いた。


「かくまえるものなら、かくまっている」

「でしょうねえ。いつ頃からです、お孫さんと疎遠になったのは」


 海崎惣五郎は、弾かれたように顔を上げると、俺をにらみつける。


「何故疎遠だなどと思った」

「いやあ、今日もし俺たちが来なかったら、お孫さんがマンションから行方不明になったことに、いつ気が付いたのかなって思ったものでね」


 俺のヘラヘラ笑う顔を不快そうに見つめながら、海崎惣五郎は葉巻を吸った。どう見ても肺の奥まで煙を吸い込んでいる。


「私は疎遠になったとは思っていない。あれも大人だ、いつまでも実家ベッタリとも行くまい。だが、そうだな。志保の様子が変わり始めたのは、結婚した頃からかも知れん」


「なるほど。彼女的には、嫁ぎ先と本当に『家族』になろうと考えたんでしょうね」

「だが結婚は失敗だった」


「もしあの事故がなければ、ですか」


「いや、事故がなくとも、おそらく失敗していたに違いない。藤松の外面の良さは詐欺と言ってもいいくらいだ。傷つき疲れ果てた志保がうちに戻って来るのは時間の問題だったろう。しかし実際に戻って来ても、もはや以前のようには行かず、孫はまた家を出てしまった」


「以前ってのはいつ頃です」

「……何?」


 虚を突かれたような海崎惣五郎の顔は、酷く間抜けに見える。


「以前はお孫さんとシックリ行ってたんですよね。それはいつ頃ですか。まさか、引き取ってからここにいる間、ずっと上手く行ってたなんて言わんでしょう」

「おい」


 築根麻耶が隣から声をかける。やめろと言いたいのだろう。だが俺は聞こえない振りをして灰皿でタバコをもみ消した。そして新しいタバコを咥え、火を点ける。


「実のところ、お孫さんと本当に上手く行ってた時期なんてないんじゃないですか。向こうが一方的に恩義に感じて、一方的に不満を飲み込んで、一方的に我慢してくれてたんでしょう。それなのにアンタはそれが当たり前だと思ってた」


「君に何がわかるのかね」


 静かな口調。だが顔面は紅潮し、目は釣り上がっていた。海崎惣五郎の手で葉巻が小刻みに震えている。この老人は気付かなかったのだろう、俺がその言葉を待っていたことに。


「別に何もわかりゃしません」


 俺は嗤った。


「たとえば何でアンタが谷野孝太郎に本木崎才蔵の名前を与えたのか、とか、その本木崎才蔵を使って何がしたかったのか、とか、わかってることは何もない。想像はつきますけどね」


 葉巻がテーブルに落ちた。砂上が慌てて拾い、灰皿の縁に乗せる。だがそれを海崎惣五郎が再び手にすることはなかった。部屋には俺の声だけが響いている。


「もしかしたら、サイノウ薬品に本木崎才蔵が潜り込んだのは、アンタの差し金だったのかも知れない。もしかしたら、娘に会わせてやることを条件に、大帝邦製薬の情報を得るためのスパイに仕立て上げたのかも知れない。もしかしたら、その娘が藤松の家族によって酷い目に遭わされていることを教えたのは、アンタなのかも知れない。もしかしたら、本木崎才蔵が藤松の連中に復讐しようとしていることを、アンタは知っていたのかも知れない。もしかしたら、その復讐心を煽ったのは、最初から株の売買で大儲けするつもりだったアンタなのかも知れない。全部推測です。憶測の妄想です。証拠なんてどこにも何もありはしない」


 しかし海崎惣五郎の目は恐怖に見開かれ、顔は青ざめていた。これじゃ、まるでリトマス試験紙だな。肝の太さでは海崎志保の足下にも及ばない。


「つまり俺には何ひとつわかってないんですよ、海崎さん。ただね、うちは警察じゃない。証拠なんて必要ないんだ。そんな物がなくったって、『事実』をそれらしく組み立てることはできますから。けれど同時に、いますぐ調査をやめることだって可能なんです」


 俺は何一つ嘘はついていない。いささか正直さには欠けるかも知れないが。


 心の動きを表わすように、海崎惣五郎の眼球は振動した。俺の顔を見つめながら、その視線は俺を捉えていない。何度も唾を飲み込んでいる。


「私の、私の家に関する調査を打ち切ってくれと頼んだら、そうしてくれると言うのかね」

「それは、そちらのお考え次第ですよ」


 そのとき、築根麻耶が俺の腕をつかみ、引っ張った。


「おい、おまえまさか」

「口を出さないって約束だよな」


 横目で見る視界の端で、女刑事は花がしおれるようにうつむき、力なく腕を放した。


「海崎さん」


 名前を呼ばれて、海崎惣五郎の目の焦点は俺に結ばれた。


「志保さんがどこに行ったか知りたくないですか」

「それは、もちろん知りたいが」


「でも、周辺を嗅ぎ回るのはやめて欲しいんですよね」

「そ、そうだ」


「じゃ、合わせて二百ですね」

「二百?」


「ええ、二百万で手を打ちましょう。どうです」


 海崎惣五郎は怒りの表情で俺をにらみつけている。だが演技だ。目に力がない。


「私が、この私がそんな脅しに屈すると」

「別に屈してくれなくていいですよ、金さえ払って頂ければ。株で相当儲けたんですよね。そのことを志保さんに何と言われたのかは知りませんが」


 俺は鼻先で嗤った。海崎惣五郎はうつむき、目を閉じるとまた一つ息を吐いた。


「砂上」

「ですが、先生」


 駆け寄った砂上は、泣きそうな顔で己の主人を見つめる。力なくうなずいた目の前の老人は、長年海蜃館大学を率いる総長には見えなかったかも知れない。


「構わん。金庫から二百万持って来なさい」


 砂上は黙って一礼すると背を向け、奥へと向かう。


 俺は二本目のタバコを灰皿でもみ消した。


「それじゃ海崎さん、今後のためにあと三つだけ質問をいいですか」


 海崎惣五郎の顔には不快感があらわになっている。


「三つだけ、か」

「ええ、三つで終わりです。まあ確認のようなものですね」


「いいだろう、言ってみたまえ」

「まず、志保さんが行方をくらませたとして、どこか行きそうな場所に心当たりはないですか」


「ないな。正直、皆目見当も付かない」


 まあそりゃな。そこに見当が付くくらいなら、疎遠にはならないか。


「わかりました。では二つ目。『悪魔の羽根』というウェブサイトをご存じですか」


 これに海崎惣五郎は不審げな視線で眉を寄せる。


「それは自殺サイトではないのか。志保の学校の生徒が自殺したと聞いている。一時期大学でも話題にはなったはずだが」

「それ以上のことは、ご存じないですか」


「知らんな。それが志保の行方不明と関連しているのかね」

「現段階では何とも」


 やはり、そう簡単に繋がってはくれないか。まあ仕方ない。


 そこに砂上が戻って来た。銀色の盆に、厚みのある茶色い封筒を乗せて。仕事が早いな。


「先生」


 隣に立った砂上の差し出す盆から封筒を手に取り、海崎惣五郎は中身を見た。そして再び封筒を盆に置くと、無言でうなずく。砂上はこちらを恨めしそうににらみながら、しかし所作は静かに上品に近づいてくると、盆を差し出した。俺は重みのあるその封筒を手に取り、上着の内ポケットにねじ込んだ。また海崎惣五郎の眉が寄る。


「中身を確認しなくても良いのかね」

「いえいえ、先生を信頼しておりますので」


 その返答に、老人はさらに不快な顔を見せた。だがこっちはそんな些細なことで腹を立てたりしない。いやはや、金の力は偉大だねえ。


「では、最後の質問です。おそらくいま、志保さんは『誰か』と一緒にいるはずなんですが、心当たりはありませんか」


 海崎惣五郎はこれを聞くと目を伏せ、また大きく息を吐く。そしてこう言った。


「……篠生幸夫という男を知っているかね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る