第23話 築根麻耶 (下)
ソファの上、タバコとインスタントコーヒーで寝ぼけた頭を叩き起こしながら、俺は何と言葉を出せばいいのか、しばらく考えていた。
常識的に考えて、拳銃と警察手帳を盗まれるなど警察官としてあるまじき大失態だ。言語道断だ。その事実が判明した時点で、すぐ県警に連絡するのが当たり前だろう。考えるまでもない。そんなアホでも理解できるわかり切った面倒臭い話を、何故わざわざ俺のところに持ってくるのか。
いや、そもそも俺が何でこんなことを考えてやらなきゃならんのだ。そんな理由も義理も筋合いもないはずだ。
笹桑ゆかりが俺の目の前で手を振る。
「もしもーし。五味さん、起きてます?」
「うるせえよ。起きたくて起きてるんじゃねえ」
「じゃあじゃあ、築根先輩はこれからどうしたらいいと思うっすか」
「そんなもん、県警に連絡しろよ。それが公僕の義務だろ」
向かい側に座る築根麻耶が悔しげにうつむく。そんな顔しても知るか。俺にどうにかできる話じゃねえ。
「ダメっすよ、それじゃあ」
笹桑ゆかりは呆れたように言う。
「そんなことしたら、先輩のキャリアに傷がついちゃうじゃないっすか」
「んなこと俺が知るか」
「いーや、知ってます。だって拳銃と手帳を盗んだ犯人は海崎志保に決まってるんすよ。海崎志保を捕まえて拳銃と手帳を取り返したら、何も問題ないんすよ。いま海崎志保を捕まえられる一番近い距離にいるのは誰っすか。五味さんでしょ。だったら五味さんが先輩に協力しないで、誰が協力するんすか。協力できるんすか!」
何故か笹桑ゆかりは胸を張っているが、意味がまったくわからない。
「キャリアはどうでもいい」
築根麻耶は言った。握りしめた拳が震えている。
「だが追いかけるべき『敵』が誰かわかっているのに、みすみす捜査から外されるために本部に戻る訳には行かない」
そんな個人的な意地やプライドなんぞ、余計に俺に関係あるかよ。そう文句をつけたかったのだが、口を開けるタイミングを笹桑に奪われた。
「キャリアは大事っすよ。だって築根先輩には自分の人脈になってもらうつもりなんすから。将来の警視正、いやそれどころか警視総監だって狙えるかも知れない人に、こんなところでつまづかれたんじゃ困るんす。ね、五味さん」
「ね、じゃねえよ。訳のわからん理屈ばっかりこねやがって。そもそもだ」
俺はそれを言うべきかどうか迷っていた。いまここで口にしてしまえば、警察に対するアドバンテージを失いかねない。つまり平たく言えば損をする。だが無理やり起こされた寝不足の脳みそは、面倒臭いことを何より嫌った。ええい、もうこうなりゃヤケだ。言ってしまえ。あとは野となれ山となれ!
「海崎志保は犯人じゃないかも知れんぞ」
「えっ」
これにはさしもの笹桑ゆかりも、目を丸くして絶句した。
「おまえ……本当に何か知っているのか」
築根麻耶は心底意外そうな顔を見せる。まったく失敬な女だ。俺はタバコを一口吸い込むと、短くなったそれを灰皿で乱暴にもみ消した。
「別に何か知ってる訳じゃねえよ。可能性の話でしかない。ただ、アンタが二回目に海崎志保の部屋に行ったとき、そこにはもう一人誰かがいた可能性があるってだけだ」
「何故そんなことがわかる」
俺はすぐには応えず、新しいタバコを咥えて火を点ける。築根麻耶が焦れた。
「おい、五味」
「俺が行ったときには、もう一人いたからさ」
事務所の中は静まり返った。築根麻耶がにらんでいる。言いたいことはあるが、とりあえず我慢しているという顔だ。そいつは本来、こっちがするべき顔なんだが。もうぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して俺は言った。
「条件が二つある」
その言葉に、築根麻耶は身構える。
「条件?」
「俺がアンタに協力する条件だ。まさかタダで協力してもらえるとは思ってないだろ」
「金か」
「金はいい。アンタに支払える金なんぞ、たかが知れてる」
すると笹桑ゆかりが目を剥いた。
「えーっ! 五味さんってば先輩の
「おまえはしばらく黙ってろ」
タバコをぶつけてやろうかと思ったがやめた。タバコがもったいない。
「まずは情報だ。アンタが持ってる海崎志保関連の情報を全部出せ。一つ残らずだ」
「……二つ目は」
「俺がやることついて、今後一切口を出すな」
築根麻耶は深刻な表情で考え込んだ。まるで手渡された毒の盃を前に、飲もうかどうか迷っているソクラテスのような顔だ。
「その二つの条件を呑めば、犯人の逮捕に協力してくれるのか」
「協力はするさ。ただし本当に逮捕できるかどうかはアンタの運次第だ。そこまで責任は持てないね」
もちろん俺は運など信じちゃいない。あらゆる結果は常に行動に伴う。だがそんな世界の原理を説明してやる状況でもないしな、あくまで言葉の綾だ。
築根麻耶は再び考え込む。俺はタバコを灰皿にねじ込み、新しいタバコを咥えた。するとすかさず笹桑ゆかりが取り出したマッチで火を点ける。その満面の笑顔に、何でおまえがご機嫌なんだよ、と口にしかけたとき。
「いいだろう。条件を呑む」
まるで悪魔に魂を売り飛ばす決断でも下したかのように、顔面蒼白かつ冷たい汗をかきながら、築根麻耶はそう言い切った。目は伏せていたが。
「助けてくれ、頼む」
さらにそう付け加え、頭を下げた。
とりあえず、これで俺に損はない、かも知れない。いや、先々のことを考えるなら得をする可能性だってあるはずだ。だがそれでも、面倒臭い事態に巻き込まれたという気分は消えなかった。
とは言うものの、未来の金づるになるはずだった海崎志保が姿を消したことは、俺にとっても重大な問題だ。どのみち首を突っ込まなきゃならんヤマではある。
「そんじゃ、時間がもったいない。ボチボチ始めるか」
俺はソファから立ち上がり、キッチンに向かった。浸けてあったラーメン丼を洗い、水を切る。そこに冷蔵庫から取り出したパック飯の中身を入れてレトルトカレーを上からかけ、電子レンジを五分回した。
「……何をやってるんだ」
築根麻耶は不審な表情を浮かべている。そりゃまあ、そんな顔にもなるわな、普通。
「心配すんな。必要なことをしてるだけだ」
そして奥の寝室に向かい、ドアを開ける。
「おいジロー、起きろ」
「誰かいるのか」
築根麻耶は立ち上がった。笹桑ゆかりも立ち上がった。二人の表情は両極端だったが。
「大丈夫っすよ先輩。ジロー君すから」
「ジロー君って誰だ」
「すんごい可愛いっすよ」
「そういう問題じゃない!」
ジローはいつもの通り、スタジャンにジーンズ姿で寝室から出て来た。そして眠そうに目を擦りながら、築根麻耶にも笹桑ゆかりにも目をくれず、ソファのいつもの場所に座った。いつものように膝を抱え、いつものように誰もいない遠い場所に目の焦点を合わせる。
「あれ、もしかして寝るときもスタジャン着てるんすか。可愛いパジャマ買ったげるっすよ?」
顔をのぞき込む笹桑ゆかりのそんな言葉にも、もちろんジローは反応しない。代わりに俺が説明する。
「いらねえよ。こいつは何でも着られる訳じゃない。選べる服は限られてる。真夏以外は寝るときもずっとスタジャンだ」
「ええー、オシャレすればもっと可愛いのに」
そんな笹桑ゆかりの文句をかき消したのは、レンジの電子音。カレーライスを取り出すと、スプーンを放り込み、ジローの前に置いた。俺が「食え」と言った途端ジローは飛びつき、サバンナのハイエナの如くむさぼり食う。あ然とした顔で見つめる築根麻耶の前で、丼が空になるのに三分とかからなかった。
丼を下げ、シンクの洗い桶の水に浸けると、俺はぬるくなったヤカンの湯でインスタントコーヒーを入れ、マグカップを持ってソファに戻った。築根麻耶は立ち上がったまま、不審の凝り固まったような顔でこっちを見つめている。俺は吸い殻を灰皿に放り込み、新しいタバコに火を点けた。
「五味さん、いくら何でも吸い過ぎっすよ」
呆れたような笹桑ゆかりの言葉に、ブチ切れて怒鳴り散らさなかった俺は大人だ。
「うるせえよ、誰のせいだと思ってやがる」
俺はジローの正面に座り直した。ジローは膝を抱えて、俺の背後、ずっと遠くに目の焦点を合わせている。OK、調子は良さそうだ。
「よしジロー、仕事だ」
小さく煙を吐く俺に、もちろんジローは反応などしない。
「昨日の海崎志保を出せ」
すると数秒ほど固まった後、ジローはやおら立ち上がり、手を前に組んで頭を下げた。
「海崎志保と申します」
その表情、声のトーン、すべて寸分の狂いもなく完璧だった。
「失礼ですが、お名刺など頂けませんでしょうか」
そう、確かにそう言われたな。俺はうなずきながらジローを止めた。
「ストップだ。途中はいい。部屋でソファに座ってからの海崎志保を出せ」
少し間を置いて、ジローはソファに座った。そして誰もいない俺の隣に視線を送る。
「彼は、本当にあなたの助手なのですか」
笹桑ゆかりは目を丸くし、築根麻耶は頭を抱えている。
「待ってくれ、この寸劇に何の意味があるんだ」
我慢が出来なくなりつつある築根麻耶を、俺は手を上げて抑えた。
「まあ、しばらく見てろ」
ジローは目を伏せながら膝の上で組んだ手を見つめている。そう、まだ顔は上げない。
「いいえ、一度も」
「何が言いたいのですか」
「何のことかわかりません」
「違います」
「何が望みですか」
さて、クサいのはこの後だ。目を凝らす俺の前でジローは視線を上げた。その目が笑っている。
「いいえ。高いですね」
「ストップ。いまのを『いいえ』からもう一回」
ジローはまた目を伏せ、視線を上げた。目が笑っている。
「いいえ。高いで」
「ストップ」
ジローは時が止まったかのように動かない。俺はその目を見つめた。視線がほんの少し、右側にずれている。
「このときか」
ジローの、すなわち海崎志保の視線は俺から外れている。振り返ってみたが窓しかない。だがおそらくあのとき、1208号室の海崎志保は、俺の後ろにあった応接室入り口のドアを見ていたに違いない。正確には少しだけ開いたドアの隙間を。そこから誰かが見ていたのだ。くそっ、ここで気付いていれば。俺は気持ちを落ち着かせるために、タバコの煙を吸い込んだ。
「この時点、まあ実際には俺たちよりも先にいたんだろうが、少なくともこの時点では間違いなく1208号室に、海崎志保と俺たち以外の誰かがいた訳だ」
しかし、築根麻耶の顔は困惑している。
「いまのでそこまで言い切れるのか」
「言い切れるね」
即答した。
「ジローの記憶は完璧だ」
ジローはまだ固まっている。まばたき一つしない。
「よし、続けろ」
その一言でジローは動き出す。立ち上がり、俺の横を通り過ぎると、窓の前で足踏みをしている。うちの事務所は海崎志保の部屋より狭いからな、仕方ない。そして立ち止まると、何かを手に取った。受話器だな。
「はい……はいそうですが……わかりました、どうぞ」
そして元の場所に戻ってくると、座ってこう言った。
「県警の捜査一課の方が来られたそうです」
「あっ」
築根麻耶が声を上げた。ようやく、いま見ているものと記憶がつながったのだろう。
「あのときのコーヒーカップ、おまえたちだったのか」
「それだけじゃないぜ」
ジローはまたソファから立ち上がり、寝室の手前まで歩いて行くと、何かを横に動かす動作をした。
「こちらへどうぞ。嫌だとおっしゃるのでしたら私は別に構いませんけど」
「ストップ。よしジロー、もういいぞ」
ジローはソファに戻り、また膝を抱えて虚空を見つめる。築根麻耶はしばらく呆けたような顔で何かを思い出していたが、ようやく理解したようだった。
「クローゼットか……おまえたち、あのクローゼットの中にいたんだな」
築根麻耶は崩れ落ちるようにソファに座り込む。俺はただ苦いだけのコーヒーを一気に飲んだ。
「こっちは手の内を見せたんだ。アンタにも見せてもらうぞ。それがフェアってもんだろ」
それに応えるかのように、築根麻耶は両手で頭を抱えながら、深いため息をついた。
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