第30話 616 (下)
「……篠生幸夫という男を知っているかね。そうだ、志保の主治医のようなことをしている。あれは私の教え子なのだよ。学生時代は大変に優秀でね、私も目をかけたものなのだが、何が気に入らなかったのか、いつの間にか私に敵意を持つようになったらしい。私の庇護下から離れるよう、志保をけしかけたりもしたようだ。飼い犬に手を噛まれたようなものかな。もし志保が誰かと一緒にいるとしたら、あの男ではないだろうか。他に思い当たる節はないな」
ジローがコピーした海崎惣五郎は、ずっと目を伏せたままだった。切々と真実を訴えている、と言う風には見えない。どちらかと言えば言い訳をしているように見える。まあ、それは印象でしかないのだが。
「何か隠してますよね、これ」
真剣な表情でジローを見つめる笹桑ゆかりの言葉。やっぱり、こいつにもそう見えるのか。
「笹桑」
「何すか」
「おまえ、酒は飲むか」
「飲みます飲みます、おごってくれるんすか」
「ウイスキーは飲むか」
「飲みます飲みます、コークハイっすけど。おごってくれるんすか」
「ちょっと付き合え」
「いやったーい」
喜んで飛び上がった笹桑ゆかりを横目に、ジローに声をかけた。
「行くぞ、立って歩け」
ノロノロと立ち上がるジローを見ながら、俺はタバコを咥え、ライターで火を点ける。
「おまえ抜きじゃ面倒臭いんでな」
そして最後に俺も立ち上がり、ドアに向かった。
笹桑ゆかりは、むくれていた。不満を満面に表わしている。
「お酒飲ませてくれるって言ったのに」
「んなことは一言も言ってねえよ」
前のヤツの受付が手間取っている。自立支援がどうとか言われて、書類を書かされているらしい。何だよ、患者いるんじゃねえか。俺は紙袋を下げ、その後ろに立っていた。芦則精神科の待合室。ジローは椅子に膝を抱えて座り、ふくれっ面の笹桑ゆかりは俺のすぐ後ろに立っていた。
ようやく前の受付が終わったようだ。俺が診察券を出すと、顔を覚えていたのだろう、丸い巨体の看護師は不審げに眉を寄せた。
「次の予約の日、まだじゃなかった?」
「いや、ちょっと急なんですが、先生に聞きたいことがありまして」
「そう、先生に確認してみるわね」
確認も何も、他の患者なんて一人しかいねえんだから、どうとでもなるだろう、と言いたい気持ちを抑えて笑顔を作る。看護師は一度奥に姿を消し、少ししてから戻って来た。
「先生はOKだそうなんで、しばらく待っててね」
俺は笑顔でうなずき、ジローの隣に座った。その横に笹桑ゆかりが座る。
「おごってくれるって言ったのに」
「こんな午前中から開いてる飲み屋は、この近辺にはねえよ。て言うか、ウイスキー一本買ってやっただろうが」
「ペットボトルっすけどね」
「おまえにゃ上等だよ」
先に来ていた患者が呼ばれて診察室に入って行った。さて、何十分ぐらい待たされるのやら。ああ、タバコ吸いてえなあ。と思っていたら、ものの数分で出て来た。何だよ、ここってこんなに回転速いのか。
そしてジローの名前が呼ばれ、俺たち三人は診察室に入った。顔がデカくてチョビひげで小柄な芦則佐太郎は、待ち構えていたかのように俺たちを迎えた。
「よう、やって来たな。今度は血圧測らせてくれるか、どうだ」
ジローは芦則佐太郎の前の椅子に座ったが、またすぐに膝を抱えて体を硬くする。
「なるほど、今日もダメか。まあ仕方ないな。それで」
芦則佐太郎はジローの後ろに立つ俺の方を見た。
「あんたはチェック表書いて来たのかね」
「ああっ」
思わず額を押さえた。完璧に忘れていた。芦則佐太郎は呆れたようにため息をつく。
「まあそんなこったろうと思ったわ。で、今日は彼女連れで何の用だ」
「はい、彼女っす」
一歩前に出ようとした自称彼女の額を軽くはたいた。
「あたっ」
むくれてにらみつける笹桑ゆかりを横目に、俺は紙袋から琥珀色の詰まったガラス瓶を一本取り出し、机の上に置く。
「賄賂です」
「ほう、前回よりはグレードアップした賄賂だな」
笹桑ゆかりが選んだウイスキーだ。ビールしか飲まない俺が選ぶよりは、間違いがないに違いない。芦則老医師は瓶を手に取り、しげしげと眺めた。そして黄色い金属製のキャップを回すと、前回同様手元のビーカーに一口分注いだ。
「……で、何が聞きたいね」
舐めるようにウイスキーを口に含む芦則佐太郎に、俺はたずねた。
「先生ならご存じかと思いましてね。海崎惣五郎氏と篠生幸夫氏の関係を」
ビーカーの酒を飲み干すと、芦則佐太郎は随分と苦そうな顔で俺を見つめる。
「そんなことを知ってどうする」
「そんなことって、どんなことです。つまり、ただの師弟関係ではないってことですか」
芦則佐太郎はしんどそうなため息をまた一つ、そしてまた一口分、ウイスキーをビーカーに注ぐ。
「おまえさん、アレだな。ちょっと頭が回り過ぎるきらいがある。いずれ大ケガをするぞ」
「ケガならしょっちゅうしてましてね、慣れっこですよ」
そう言って紙袋の中から、もう一本ウイスキーを出した。さらに一段グレードの高い物を。
「これは必要ありませんかね」
芦則佐太郎の目が丸くなる。
「いや、待て、待て」
紙袋に戻そうとする手を、思わずつかみ止める。俺が笑顔を作ると、芦則は降参したように両手を挙げた。
「はあ……わかったわかった。だが、わしもあの二人と特別親しい訳ではない。だから又聞き程度の、根拠薄弱な噂話しか知らんよ」
「結構です」
俺は手に持ったウイスキーの瓶をまた机に置く。だが芦則佐太郎はその栓を開けることなく、しばらくじっと悲しげに見つめていた。そして。
「あの二人は愛人関係にあったらしい」
視線をこちらに向けることなく話し始めた。
「海崎惣五郎は、まあいわゆるバイセクシャルと言うか、昔風に言えば両刀使いと言うヤツでな。しかも相当の好き者だったそうだ。男女問わず、あちこち頻繁に手を出していたという話は聞こえてきていたよ。その中でも学生の頃の篠生幸夫は美少年として有名だったそうだ。随分とお気に入りだったらしい。当時篠生の家はあまり豊かではなくて、学費を海崎が援助しているという噂もあったな。わしが知っているのは、これくらいか。参考になったかね」
そう言うと、責めるような視線を俺に向けた。
「大変参考になります。助かりました」
世辞のつもりも嫌味のつもりもなかった。八割方本心である。
「おまえさんは何も聞かなくていいのかね」
ちょっとホッとした顔の芦則佐太郎が、誰に向かって話しているのかと思ったら、笹桑ゆかりだった。
「あ、聞いていいんすか?」
また前に出て来たら額をはたいてやろうと思ったのだが、どうやら学習しやがったらしく、その場から動かずに笹桑ゆかりはたずねる。
「篠生幸夫さんって、医者としてはどんなもんなんすか」
芦則佐太郎はキョトンとした顔を見せた。
「どんなもん? まあ優秀な医者ではないのかな。何でそう思うのかね」
「いや、だって精神科の先生やってる割には、奥さんあんな状態だし」
「ああ、カミさんのことか。それは仕方ないだろう。まだ娘が自殺してから、そう時間も経っておらんからな。精神の病に必要なのは、まず時間と休息だ。いかに名医であっても、その点は変わらんよ」
「そうなんすか。医学的な専門知識があったら、チョチョチョイっと病気にしたり治したりできそうな気がするんすけどねえ」
「さすがにチョチョチョイっとはいかんな」
そう言って芦則佐太郎は苦笑を浮かべた。
酒代と診察代はかかったが、それに見合うだけの情報は手に入れたように思う。俺はお荷物二人をクラウンに詰め込み走り出した。
「ちょっと五味さん、どこ行くんすか!」
後ろの席から笹桑ゆかりが身を乗り出しているが、俺は構わずアクセルを踏み込む。
「肥田久子んとこだ。あの婆さん、肝心なことを黙ってやがった」
肥田久子は海蜃館大学病院で三十年を過ごし、海崎惣五郎と篠生幸夫を共に知っていた。ならば二人の関係を知らなかったはずがない。いや、それだけじゃあるまい。
「でも、もうお昼っすよ。ご飯どうするんすか」
文句を垂れる笹桑ゆかりに舌打ちをしながら、俺はステアリングを右に切った。
「飯くらい後でいくらでも食わせてやる。いまは黙ってろ!」
「んじゃ、焼き肉おごりっすね」
ルームミラーの中で色素の薄い赤髪の女がニンマリ微笑んでいる。こいつ、何人前食うつもりだ。まあいい、すべては後で考える。いまはまず、確認すべきを確認しなきゃならない。それがその先に進む足場になるのだから。
食事時を幾分過ぎた頃、銀色のクラウンは肥田久子の家の前に停まった。また居留守を使われるかとも思ったのだが、今度はインターホンを押した後、すんなり中に通された。
「それで」
いまいましげに四つの紅茶を客間のテーブルに置き、肥田久子は合皮のソファに深々と身体を沈める。
「あの女が自殺した今になって、何の用ですか」
なるほど、つまり俺はもう用済みだと言いたい訳だ。だが、こっちとしてはハイそうですかとは行かない。
「肥田さん。アナタ、俺にイロイロと隠してましたよね」
「何のことでしょう」
「篠生幸夫が海崎惣五郎の愛人だったことですよ」
ジローの向こう側に座っている笹桑ゆかりが紅茶を一口飲んだ。だがあまり美味そうではない。肥田久子はしばらく黙って俺をにらみつけていたが、不意に口元を緩めて視線をそらした。
「話す必要がないと思ったからです」
「話したくなかったんじゃないですか」
「違います」
首すら振らず、ただ顔だけこちらに向けて目を合わさない。それで見下しているつもりなのか。
「アナタが隠してたのはそれだけじゃない。知ってたんですよね、篠生幸夫が海崎惣五郎に復讐心を抱いていたのを」
「知りません」
その顔は平然としているようにも見える。だが。
「アンタ気付いてたんじゃないのか。篠生幸夫が海崎志保を利用しようとしてたことに」
この言葉に肥田久子は強く反応し、釣り上がった目を俺へと向けた。
「知らないと言ってるでしょう! だいたい何でそんな」
「そうか、アンタ……海崎惣五郎に抱かれたことがあるのか」
空気が凍り付いた。肥田久子の目は虚ろになり、顔は仮面のように固まっている。
「な、何を根拠に」
「根拠も証拠も確証もねえよ。いま思いついた、ただの当てずっぽだ。だがその反応じゃ正解みたいだな」
「私を馬鹿にする気ですか」
声が震えている。つまり肯定だ。
「篠生幸夫の魂胆に気付いたアンタは、それを利用しようと考えた。アンタには別れた藤松勘重より、海崎惣五郎の方が許せない相手だったんだろう。だがまさか、可愛い孫が死ぬことになるとは思ってもみなかった」
「私を笑いものにする気ですか」
顔から血の気が引いて行く。肯定だ。さすがに自分を騙せる度量はないか。海崎志保を向こうに回すにゃ役者不足も甚だしい。
「そりゃあ海崎志保が許せない訳だ。単に海崎惣五郎の孫娘だからじゃない。アンタが本当の事を話してりゃ、藤松秀和は死なずに済んだのかも知れないんだからな。結局アンタはてめえの間抜けさ加減が許せなかったんだよ」
「出て行きなさい」
肥田久子は立ち上がった。鬼のような形相で、部屋の入り口のドアを指差す。
「出て行かないと警察を呼びますよ。今すぐ出て行きなさい」
俺は素直に立ち上がるとジローを立たせた。そして肥田久子に背を向ける。
「あのメモの中に篠生の名前を混ぜたのは、研究所の事故で警察がヤツを疑わなかったからだ。だから今度は俺を利用しようとしたんだろ? アンタ向いてねえんだよ、こういうの」
「出て行け! 出て行け! 出て行けぇっ!」
狂気じみた絶叫を背中に聞きながら、俺とジローと笹桑ゆかりは部屋から出た。確認は済んだ、もうここに用はない。
「ねえねえ五味さん、結局のところ、肥田久子と海崎惣五郎の間に何があったんすか」
玄関の引き戸を開ける際、笹桑ゆかりにそうたずねられたのだが、俺にはこう答えるしかなかった。
「知るかよ、そんな昔の話。興味もねえ」
タバコを咥え、ポケットを叩いてライターを探す。実際、金にならない話なんぞどうでもいい。いまはとにかく、カレーライスがメニューにある焼き肉屋を探す方が大事なのだから。
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