第31話 幕間劇 その三
駅前の雀荘を出たのはもう午後九時を過ぎた頃。調子は悪くなかったはずなのだが、結局負けた。しばらく銭湯はお預けだな。懐が寒いと夜風も染みる。しかし、それもまた楽しいと言えなくもない。肥田久子は雀荘には戻ってこなかった。用事を済ませて直帰したのかも知れない。
大学の方向からは、何やら騒がしげな雰囲気が伝わって来たものの、芦則佐太郎はそれに背を向けてアパートに向かった。暴れている連中の主張を全否定するつもりはない。彼らの言葉に共感も理解もできる。部分的には。だが、だから他人を傷つけて良いという理屈には同意できなかった。ましてや医師を目指す自分が、火炎瓶など投げる訳に行くものか。だから自分は関わらない。
彼らに理想があるように、自分にも目指すべき理想の医師像がある。それこそが何よりも優先すべきものなのだ。
アパート周辺はひっそりと静まりかえっていた。近所の家からテレビの音が聞こえてくる。野球は延長戦に入っているようだ。芦則佐太郎は忍び足で階段を上り、二階の真っ暗な自分の部屋のドアを開けた。鍵はかけていない。盗まれる物など何も持っていないのだから。守りたいものはあるが、それは彼の手の中にはなかった。
だが台所の白熱電球を点けたとき、思わず叫び声を上げそうになる。部屋の中に人影があったからだ。
部屋の奥から明かりの中に姿を現したのは、肥田久子。
「何だ、脅かすなよチャコ。いったいどうしたん……」
しかし照らし出された肥田久子の様子に芦則は絶句した。腫れ上がった顔。破れた服。暴力の痕跡。その瞬間、脳裏に閃光の如く、男の名前が浮かんだ。海崎惣五郎。
「チャコ、まさか」
「アタシは、負けない」
それは血を吐くような声。
「アタシは、絶対にあんなヤツに負けない。大学をやめたりしない」
そして一筋、涙を落とした。
「あんたににだけ、言っときたかった」
肥田久子は逃げ去るように部屋から出て行き、芦則佐太郎は黙って見送った。引き留める言葉など何一つ持っていなかったからだ。医師として、あるいは人として目指すべき理想は、あたかも神の威光の如く美しく輝くが、真に守りたいものを守ってはくれない。学問も火炎瓶も、無力であることに変わりなどなかった。
それ以来、肥田久子は二度と雀荘に来なかった。講義や実習で顔を合わせることはあったが、もう仲間の誰とも口を利かず、やがて大学を卒業した後は大学病院に職を求め、残りの人生の大半を海蜃館大学内で費やしたのだった。
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