第37話 終幕 (下)

 しかし、結果として俺のクラウンが篠生幸夫の家に到着することはなかった。篠生メンタルクリニックの前には警察車両が並び、黄色い規制線が張られていたからだ。規制線の外側には報道記者やカメラが集まり、さらに外側には野次馬が詰めかけ、口々にささやく声が聞こえている。


――無理心中ですって


――ほら、奥さんアレだったから


――お姉さんが見つけたそうよ


 俺はその場にへたり込みそうになる身体を、なんとか支えた。おいおい、マジかよ。勘弁してくれよ。三百万だぞ。いや、さっきの分を合わせて四百万にしてやろうと思っていたのに。


 ああ畜生、昨日の時点で無理矢理にでも金を払わせればよかった。百万でも五十万でもむしり取っておくべきだったんだ。何で余裕こいちまったんだ、俺は。自分の頭をぶん殴ってやりたくなったが、大勢の見ている前ではそうも行かない。フラフラになりながら、何とかクラウンに戻った。その後、事務所までどうやって帰って来たのかはよく覚えていない。




 テレビが点いていた。俺は事務所のソファに座って観ているらしい。映っているのは見覚えがある建物。篠生メンタルクリニック。そうか、ワイドショーが食いついたのか。次に映ったのは海崎志保の写真。さらには海崎惣五郎の写真もあった。ああ、そういうことか。おそらく長畑房江の仕業だ。あいつが全部喋りやがったんだ。


 これでもう、手を出せない。このヤマは警察とマスコミが料理する。俺の手の届かない場所に行ってしまった。最後の最後に詰め切れなかった。すべて終わりだ、おじゃんだ、おしまいだ。俺は深い深いため息をつきながら目を閉じた。



 ◆ ◆ ◆



 瞬く間に三ヶ月が過ぎた。年が明けて一月の寒いある朝、俺はジローを連れてクラウンを下りた。久しぶりの芦則精神科。今日は休診じゃないはずだ。


 相変わらず待合室には人がいない。片隅にはまだ鏡餅が置かれている。受付を済ませると、すぐ名前が呼ばれた。


「随分久しぶりだな。もうわしには用がないのかと思っとったんだが」


 あれ以来の芦則老医師は、やはり顔がデカくて体が小さかった。しかし髪とチョビひげがちょっと薄くなったようにも思う。俺はジローを椅子に座らせると、手に持った赤いハードカバーの書籍を芦則佐太郎の机に置いた。


「何だ、今日は賄賂はなしか」


 残念そうにため息をつきながら、芦則佐太郎は本を手にして眺めた。その表紙には、かすれた金色の文字でこう書いてある。


『ガス燈効果の理論と実践 芦則佐太郎著』


「知り合いに、いろんなマニアがいましてね。先生の名前で調べてもらったら、古書店マニアが見つけてくれました」


 俺がそう言うと、芦則佐太郎は懐かしそうな、旧友にでも会ったかのような顔で笑った。


「こんな古い本を。ネットにも情報はないはずなのに、よく見つけたな」

「四十年ほど前ですか」


「そうだな。二千部しか刷られなかったが、まあ、いまとなっては良い思い出だよ」

「先生はガスライティングの専門家だったんですね」


 本を開いた老医師は、保存状態の良さに驚いたようだった。


「そう呼ばれるのはくすぐったいが、こんな本を書く程度の知識はあったな」

「それは謙遜でしょう。酒屋のオヤジが言ってましたよ。四十年ほど前にこの診療所を建てた頃は、遠くから患者がやって来て繁盛してたってね」


「ああ、そうだったかも知れん」


 愛おしげにページをめくって行く。


「篠生幸夫を殺したのは、先生ですか」


 俺の問いに、芦則佐太郎の手は止まる。だが驚いた様子はない。


「まさか。そんな面倒臭いことはせんよ」

「じゃあ何をしたんです」


「簡単なアドバイスをしただけだ。考えたのも決断したのも、篠生幸夫自身。ただそれだけの話」


 芦則佐太郎は少し寂しげに微笑んだ。俺は小さくため息をついた。


「それがどういう結果を招くか知っていて、いや、計算してアドバイスしたんですよね」

「さあ、どうだったかな」


「先生は、篠生幸夫にガスライティングを仕掛けていた訳だ」

「おまえさんはどう考えておるね」


 ああ、タバコが吸いたい。そう思いながら俺は話を始めた。


「たぶん五十年ほど前だ。先生がまだ学生だった頃、海崎惣五郎と肥田久子、そして先生の三人の間に『何か』があった。先生は海崎惣五郎を憎んだ。殺してやりたいほどに。だがそのときは、具体的な行動に出られなかったんだ。勇気がなかったのかも知れない」


 芦則佐太郎はうなずいた。


「そうだな。『何か』は確かにあった。それは肥田久子を深く傷つけ、若かったわしをも傷つけた。わしは海崎惣五郎を憎んだ。恨んだ。殺してやろうと真剣に考えた。それは事実だ。そして、勇気がなかったのも間違いない。そのとき思い知ったよ。理想はただ掲げるだけでは何の意味もないのだと。それがいかに崇高であれ高邁であれ、誰かを救う力にはならないのだと」


 本を静かに閉じた芦則佐太郎に、俺はたずねた。


「だからガスライティングを、現実に行使できる力を身につけたって訳ですか」


 返事はない。だがこの沈黙は雄弁だ。俺は続ける。


「その『何か』から二十年ほどが経った頃、先生は篠生幸夫の存在を知った。そこで海崎惣五郎の愛人だった彼にガスライティングを仕掛け、海崎への憎悪を与えて復讐者に仕立て上げた。いつでも自分の復讐を実行できるように備えた訳だ。ところがこのときも、先生はそれ以上動かなかった」


 芦則佐太郎は手にした本を見つめ、また一つうなずく。寂しげに。悲しげに。


「悲しいかな、そして幸いなるかな、人間とは忘却する生き物なのだ。愛していたという記憶、憎んでいたという事実の記憶は残り続けるが、それにまつわる感情は時間の経過と共に薄れて行く。あの日、自らの心に深く刻んだはずの痛みは、もはや感じ取ることはできない。復讐するには時間が経ち過ぎてしまっていたのだな」


 これは本心だろうか。どこまでが本心なのだろう。もしこれが本心なら、そこから続く事件は起きなかったはずなのだが。ただし、本心とはあくまで「本当の心」だ。「事実」とは意味が違う。


「さらに三十年ほどが経ったある日、先生は篠生幸夫が海崎志保と出会ったことを知った。このとき、先生の中で何かが変わったんだ。その結果、とうとう先生は重い腰を上げ、海崎惣五郎への復讐を実行することに決めた。海崎志保に対してガスライティングを仕掛けるよう篠生幸夫を誘導し、そこから一連の事件が始まった。流れとしてはそんなところですかね。復讐譚にしては何とも気の長い話ですが」


 しかし芦則佐太郎は首を横に振り、こうつぶやいた。


「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、か」

「聞いたことありますね。何でしたっけ、それ」


「織田信長が好んで舞ったとされる『敦盛』の一節だ。要は人の世界の五十年など、神々の世界では夢幻の如き一瞬に過ぎないということだよ」

「つまり一瞬だから記憶も戻って来たと」


 芦則佐太郎は小さく笑った。


「ならば良かったのかも知れん。だが、やはり五十年は長すぎる一瞬だった。もはや篠生幸夫が海崎志保に出会ったそのときには、海崎惣五郎に復讐する理由など何も見つからなかった。わしの中には、もう何もなかったのだよ。だから、何も変わりはしなかった。何一つな。その点は、おまえさんの勘違いだ。しかしそれでも、わしは復讐を選んだ。それはただ切っ掛け、動機付けが欲しかったからだ」


 芦則佐太郎は本を机に置き、その表面を優しくなでた。


「もしかしたら、怖かったのかも知れんな」

「怖い?」


 平然と人を死に至らしめる狂気の医師に怖いものなどあるのだろうか。首をかしげる俺に老医師は言う。


「自分の知識が、能力が、誰にも知られぬまま世界から消え去ることが。学究の徒の一人として生きたこの人生は、これほどまでに無価値に終わるものであったのか、とな」


 芦則佐太郎は右腕を上げると、その脇腹を左手でポンポンと叩いた。


「肝臓にガンができとるのだ。あちこちに転移しておってな、もう助からん」

「ああ、なるほどね。イタチの最後っ屁ってヤツですか」


 すると芦則佐太郎は小さく吹き出した。


「面白いことを言うな、おまえさんは。しかし、まあそうだ。たぶんそうなのだろう。わしは海崎惣五郎を破滅させることによって、この世の中に対して最後っ屁をかましたかったのだ。芦則佐太郎ここにあり、とな」


 そう言う芦則佐太郎の顔は、しかし満足げではなかった。まだ悲しげと言った方が正確だったかも知れない。


「おかしいと思うかね」


 そのとき芦則佐太郎は、いったいどんな言葉を期待していたのだろう。わからない。ただ俺は素直に答えた。


「そりゃおかしいでしょう。俺は常識人なんでね、どんな手段を使ったにせよ、平然と人を殺すヤツの考えなんぞ理解できませんよ。人間は金の卵を産むガチョウだ。殺しちゃ何にもならない」


 芦則佐太郎は静かな顔で俺を見つめてこう言う。


「……それで、どうする。わしを警察に突き出すか。それとも強請るかね」


 俺は頭をかいた。どうやらこっちの商売のことも知っているらしい。篠生幸夫から聞いたか。


「どうしましょうかね。先生には家族がいましたっけ」

「おらんよ。わしは独り身、天涯孤独だ。しかも、もうすぐ死ぬ。脅迫するのは難しいぞ」


 芦則佐太郎は楽しそうに笑った。確かに、何一つ守る物がない人間を強請るのは難しい。俺はまた一つため息をつく。


「ま、こうなりゃ仕方ないですな。先生を強請るのは諦めましょう。海崎惣五郎ならあと二、三回強請れるでしょうしね」

「そいつは大変愉快な話だ。しかし」


 芦則佐太郎は「よっこらせ」と椅子から下りた。そして部屋の隅にある白い木製キャビネットの前に行くと、小さな扉を開き、何かを取り出す。机の上に置いたそれは、銀行の紙帯がついた百万円の札束が二つ。


「これを持って行くといい」

「これは?」


「わしが死んだ後、この診療所を解体するために残しておいた金の一部だ。だがこんな小さな診療所の解体など、そう何百万もかからんだろう。無闇に金を残しておいても意味がない。看護師の東崎さんに遺す金は別に取ってあるしな、これはおまえさんにやろう。わしのところにまでたどり着いた賞金だと思えばいい」


「はあ」


 俺はいま間抜けな顔をしてるんだろうな、と我ながら思う。芦則佐太郎はこう言った。


「その代わり、海崎惣五郎にはもう手を出すな。アレは追い詰められれば何をするかわからん男だ。おまえさんがケガをしたら、この坊やが悲しむ」


 ジローは反応しない。ただ膝を抱えて遠いどこか虚空を見つめている。


「悲しみますかね」

「悲しむとも。そういうもんだ」


 できれば、あと百万ほど上乗せしてもらいたいのが正直なところなのだが、芦則佐太郎の機嫌を損ねてしまっては丸損だ。ここは素直に受け取っておこう。また海崎惣五郎を強請るというのは単なる口からデマカセに過ぎない。しかし、それはそれ。もうどうでもいい話だ。


「じゃ、有り難く」


 俺が札束に手を伸ばすと、それを芦則佐太郎の皺だらけの手が、上からそっと押さえた。


「ところで、おまえさんに頼みがあるんだが」

「はあ?」


 しまった、と思ったがもう遅い。




 そして二ヶ月ほど経った後、三月も末近くの暖かい日、芦則佐太郎は自分の診療所ではなく、私立の総合病院で息を引き取った。誰にも看取られぬ、静かで寂しい死だったという。


 海崎惣五郎は明るみに出た過去の性的醜聞を追求され、海蜃館大学の総長の座を追われた。県警は谷野孝太郎に本木崎才蔵の情報を渡したのが海崎惣五郎だと見て、捜査の網を縮めている。だが現時点においては、いまだ逮捕されることもなく、時折ワイドショーなどに顔を出して意気軒昂なところを見せているらしい。とは言え、海崎志保の死は相当堪えたようで、車椅子の生活が続いている模様。


 肥田久子は沈黙を守っている。海崎志保の死に関連して、再び一部のマスコミに取り上げられたりもしたが、過去に何があったのかは語られぬままだ。まあ、何を語ったところで、俺はいまさら興味などないのだが。


 篠生幸夫の死以来、悪魔の羽根は活動を停止しているらしい。メアドを登録しても、返信はないそうだ。もっとも自殺サイトは他にもある。そういう意味では、この世界は何も変わっちゃいない。




 青空を風が走り、桜並木に喪服の黒い列が並ぶ。芦則佐太郎の葬儀は俺が取り仕切った。面倒臭いが、約束だし仕方ない。二百万は前払いの給料のようなものだ。どうせ式の大半は葬儀屋が進めるのだから、俺は喪主もどきの役割を演じればいい。そう思って気楽に引き受けたのだが、ちょっとした誤算があった。


 弔問客は引きも切らず、香典袋は山のように積み上がる。挨拶しても挨拶してもキリがない。まさかあのチョビひげ爺さんに、こんなに人徳があるとは思ってもみなかった。


 しかし、これは俺にとって嬉しい想定外だ。何せこの香典のうち、葬式代にかかった金額を除いた分を、受付のデカくて丸い看護師、東崎善美と折半することになっているのだから。香典返しなど知ったことか。どうせ俺の身内じゃないしな。


 せいぜい頑張って立派な葬式にしてやろう。たまにはこういう金儲けも悪くはない。いまさら何をどうしたところで、あの爺さんは地獄行きに決まってるんだろうが、まあこれが芦則佐太郎にできる最後の功徳ってヤツだろう。


 とか何とか言ってるが、もちろん俺は天国や地獄なんぞ信じちゃいない。最後の功徳もへったくれもあるか。ガキとオカルトは大嫌いなもんでな。

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