第13話 芦則佐太郎 (下)
そして芦則佐太郎は目の前のブックエンドからファイルケースを取り出し、三枚綴りのA4の紙を抜き出した。またこれか。
「なるほど。まあ、それはそれと言うことで」
俺はチェック表を受け取ると、入れ替えるように持っていたビニール袋からウイスキーの瓶を取り出し、机に置いた。
「……何だね、これは」
にらむような芦則佐太郎の視線を、俺は正面から受け止めた。
「ここの医者は賄賂が通用するって、噂で聞きましてね」
「そりゃ酷い噂だな」
そう言いながら瓶を手に取り、しげしげと眺める。そして栓をひねって開けると、机の上に置いてあったビーカーに一口分注いだ。
「開業医の一番の魅力がわかるかね」
「さあ」
顔のデカい老医師はニンマリ笑ってビーカーを口元に運んだ。
「昼間っからアルコール臭くても不審に思われんことだ」
酒屋に酒好きがバレてる時点でそれはどうかとも思ったが、この場はとりあえず何も言わずにおいた。
「んー、やはりストレートはキツいな」
芦則佐太郎は嬉しそうに顔をしかめる。
「賄賂が通じたようで何よりです」
「それで、何が目的かな」
俺は尻のポケットからメモ帳を取り出し、ボールペンを構えた。
「また随分とアナログだな」
もうさすがに面倒臭いので、放置して俺はたずねた。
「肥田久子さんをご存じですね」
「肥田……ああ、元・藤松久子か。大学の同期だ。若い頃ならよく知っておるよ。いわゆる女傑というヤツだった。結婚してから後の事は知らんが」
「肥田久子さんは、いまでも先生を信頼しているそうです」
「そりゃあ、まあ有り難いと言えば有り難い話だが、それがどうしたと言えなくもないな」
芦則佐太郎の表情はどう見ても、あまり有り難そうな顔ではない。とは言え片思いはどこにでもある話だ、いまたずねるべきはそこではない。
「肥田久子さんをご存じなら、海崎志保さんはどうでしょうか」
「海崎、と言えば海蜃館大学の海崎総長の孫娘だな。テレビで話題になってたのは知っとるよ。面識はないが」
「それ以上はご存じない?」
「海崎総長の方はまあまあ知っとるがね。大学の先輩だからな。昔から政治的なことを好む人物ではあった。だが孫娘のことはまったく知らんな」
「そうですか……それでは」
「何だ、まだあるのか」
老医師は明らかに面倒臭そうな顔でそう言う。だがそんなことに構ってなどいられない。賄賂分の情報は聞き出さないとな。
「篠生幸夫という人物をご存じですか」
「篠生? 篠生メンタルクリニックの篠生院長かね」
「そうです」
「そりゃ商売敵だしな、知ってはおるよ。学会でもたまに一緒になる。可哀想な男だが」
その言い回しが気になった。
「可哀想って、どの辺が可哀想なんですか」
するとチョビひげの老人は意外そうな顔をした。
「何だ、おまえさん篠生の娘のことを知らずにここへ来たのか」
「娘がどうかしたんですか」
「今年の六月頭に自殺したのだ。篠生院長は元々真面目一本槍で堅物の仕事人間だったのだが、それ以来、まあいわゆる人が変わってしまったようでな。一時期マスコミにも取り上げられとったんだが」
「自殺、ですか」
どこかで聞いた話のような気がする。どこで聞いたのだっけか。それにしても人が変わったとは、どう変わったのだろう。昨日会った篠生幸夫は、確かに堅物臭くはなかったが、別におかしな人間ではなかった。もしかして、元がおかしかったのだろうか。
「『悪魔の羽根』を知っとるかね」
芦則佐太郎の言葉を聞いて、自分の顔が重苦しくなっていることに気付く。まあ嫌いな種類のネーミングだ、仕方ない。
「いえ。その、悪魔の羽根って何ですか」
「自殺サイトだよ。これも話題になっとるはずだ」
自殺サイト。ああ、ようやく思いだした。笹桑ゆかりの言っていたのは、これのことだったのか。しかし診療所の公式サイトも持ってないくせに、よく自殺サイトのことなど知っているな。そんな俺の思いを余所に、芦則佐太郎は続けた。
「つまり自殺する前に悪魔が見られるという噂のある、悪魔の羽根という名の自殺サイトに関わって、篠生院長の娘が自殺したのだな。そしてその後、彼は『自殺サイト撲滅キャンペーン』を立ち上げたという訳だ。このキャンペーンには県の政財界も注目しておって、いずれ近いうちに大きな波になる可能性があるらしい。篠生院長は休みのたびに講演会でてんてこ舞いだそうな。ほとんどマスコミ情報だが」
ああ畜生、タバコが吸いたい。いま頭を回せば結構いいアイデアが出そうなのに。俺の絞り出した声は、少し息苦しそうに響いたかも知れない。
「そりゃあまた……何というか、篠生院長は悲劇のヒーローですね」
「まあそうなるな」
「篠生院長の娘さんは、海蜃学園高校の生徒だったんですよね」
「ん? そうだったか。学校名までは記憶にないが」
そしてその海蜃学園高校の理事長は海崎志保であり、海崎志保のかかりつけ医が篠生幸夫なのだ。何とも気持ちが悪い。この妙に出来過ぎた組み合わせは。単なる偶然なのか?
「篠生院長が海崎志保さんのかかりつけ医だというのはご存じでしたか」
「そうなのかね。テレビではやっていなかったが」
芦則佐太郎はさも驚いたかのように目を丸くしている。
「……ところで、カウンセリングってのは、先生もやるんですか」
俺の質問の方向が急に変わって、芦則佐太郎は少し戸惑ったようだった。
「ん? ああ、ごくたまにだな。普段は薬物治療が中心だ。専門のカウンセラーが雇えればいいのだが、こんな小さな診療所だ、それほどの余裕もない。だからどうしても詳しい話を聞かねばならん場合は、自分でやらにゃならん」
「カウンセリングで話す内容ってのも、イロイロなんでしょうね」
「イロイロだな。人によりけりだ」
「法に触れるような内容ってのもあるんでしょうか」
ようやく腑に落ちた、芦則はそんな顔をしている。
「カウンセリングは
「そんなもんですかね」
「ああ、そんなもんだ」
芦則佐太郎は苦笑じみた笑顔を見せると、またビーカーに一口分ウイスキーを注いだ。
――それでときどき篠生先生のカウンセリングを受けていらっしゃいました。奥様が唯一心を開いて話せる方だったかも知れませんね
長畑房江は確かにそう言っていた。そのとき、いったい何を話したのか。
ジローを連れて診察室から出たときも、支払いを済ませているときも、待合室に患者の姿はなかった。この診療所の経営はは大丈夫なのか、何となくそんな余計なことを思った。
クラウンに乗り込んだ時点でまだ午後二時にもなっていない。だが一旦事務所に戻るとしよう。連絡をしておきたいところもある。俺はアクセルを踏み込んだ。
「今度賄賂を持ってくるときは、もう少し高いのがいいのだがな」
そんな芦則佐太郎の言葉を思い出しながら。
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