第12話 芦則佐太郎 (上)
チャレンジ五日目。木曜日。
朝学校に来たら、机にマジックで「ブス」と書かれていた。本当に馬鹿なヤツら。私は平気だ。キャプテンからはもっと酷いことも言われるし、そもそもこいつらなんかにどう思われても構わない。キャプテンに無視されるのを思えば、ずっとマシだ。
校舎の裏、誰も来ない場所。昼の休憩時間中、スマホで動画を見る。よくわからない外国のミュージックビデオ。変なスローテンポの暗い音楽。見てると気持ち悪くなる。でも見なきゃ。
睡眠薬は二週間分じゃ少なかったようだ。何ヶ月分も集めたヤツらもたくさんいるんだぞ、とキャプテンに怒られた。悔しい。
「まだ時間があると思ってるだろ。まだチャンスがあると思ってるだろ。だからおまえはクズなんだよ。必死になってみろよ」
キャプテンの言葉が胸をえぐる。私は本当にどうしようもないクズなのかも知れない。本当を言えばチャレンジなんかもう投げ捨ててしまいたい。でも。これくらい、せめてこれくらい、私にできることがあったっていいじゃない。
今日は早退しようかと思ったけど、これ以上学校をサボったら母さんにバレる。とにかく時間を見つけてチャレンジを続けよう。また甘いってキャプテンに怒られるかな。
◆ ◆ ◆
芦則精神科の午後の診察は十三時から。あと三十分はある。俺は駐車場のクラウンにジローを残し、周辺をウロついてみた。真夏に車の中に放置すれば、あっという間に熱中症になるところだが、晴れているとは言え今日の気温なら、まあ大丈夫だろう。
診療所は県道沿いだが駅からは遠い。患者の足は自家用車が中心になるのか。道沿いに少し歩けばコンビニがある。焼き肉屋があって飲み屋があって、もう少し先には銀行もある。利便性を考えれば住むにはそれほど悪くない場所だが、やはり医療機関としてもいい立地なのだろうか。
先に進めば美容室があってバイク屋があって、道の向かい側には酒屋がある。そういやビールのツマミがなかったな。ツマミを買うだけならコンビニでいいんだが、こういう個人商店には何か情報が転がってるかも知れない。とりあえず、のぞいてみるか。
「いらっしゃい!」
自動ドアが開くと同時に、奥のカウンターから大きな声がかかった。小柄だがガタイのいい、はげ上がったオヤジである。隣には女房らしき姿もある。店の中の様子を見ながらカウンターに近づいていくと、オヤジがまた声をかけて来た。
「精神科の患者さんかい? あそこの先生、酒好きだから、お土産に持ってくといいよ!」
「あんた、やめなって。迷惑だよ」
女房が困り顔でいさめるが、オヤジは聞かない。
「酒屋が酒売って、何が迷惑だ! それが迷惑なヤツが酒屋に入ってくる訳ないだろ!」
なるほど、コンビニに客を取られそうな店だなという印象。
「俺があそこの患者って、何で思ったんです?」
話しかけると、オヤジは自分が褒められたかのような笑顔を浮かべた。
「あんたが駐車場から出て来るの見てたんだよ。あそこの先生、酒好きだからね、こりゃうちに酒買いに来るかと思ってこうして待ってた訳さ」
こいつはまた、とんだ名探偵だ。
「俺は患者じゃないんだけど、弟がね」
するとオヤジは、いまにも泣きそうな顔を浮かべる。
「えーっ、そりゃ大変だ」
根が善良な人間なのはわかるが、何かちょっとムカつく。
「あそこの先生も酒買いに来るんですか」
「来る来る。しょっちゅう来るよ。洋酒が好きみたいで、安いペットボトルのウイスキーばっかり買ってくけどね」
オヤジの目が俺の左後ろの棚を見る。振り返ると並んでいる洋酒の列。だが箱とガラス瓶ばかりだ。ペットボトルは奥の方にあるらしい。酒はビール以外飲まないんでわからないんだが、とりあえず値札だけ見て、二番目くらいに安そうなウイスキーを手にした。
「これください」
「はい毎度あり!」
オヤジは、見たか、という顔を女房に向けると、満面の笑顔でレジを打ち始めた。
「あ、あとツマミも」
「ありがとうございます!」
レジの横に並んでいるツマミを適当に五種類ほど選ぶと、オヤジに渡した。
「あそこの診療所って、ここに来て長いんですか」
「うん、もう四十年ほどになるね。俺がガキの頃だから。当時はこの辺も田んぼと畑ばっかりで、こんなところに精神病院おっ建てて何する気だ、みたいな声もあったんだけど、何でも結構偉い先生らしくて、遠くからも患者が来て、かなり繁盛してたよ。最近はあんまりみたいだけどね」
さもありなん、だな。いまどき公式サイトもない診療所に、人は寄り付かないだろう。現代のネット社会では、ネットに玄関口がない場所に誰も入ってこない。無論、それを逆手に取る商売もあるにはあるのだが。
「有名な人がお忍びで来てたりとかしないんですか」
鎌をかけてみた。俺の言う「有名な人」にはワイドショーで叩かれていた海崎志保も含まれているのだが、オヤジはそこにはまったく思い至らなかったようだ。
「芸能人はこの辺で見たことないねえ」
オヤジが仮に海崎志保を知っていたとしても、この返答は当然かも知れない。海崎志保のかかりつけ医が篠生幸夫であるなら、ここの医者と関わり合いを持つはずもないのだ。世の中、そんな簡単には行かない。
正直それほどの情報はなかったな、と思いながら金を支払い、俺は店を出た。
クラウンに戻ってみれば、診療所のガラス扉に内側からかかっていたカーテンが開いている。もう入れるのか。俺は早速ジローを連れて扉を開けた。
受付に座っていたのは、まるでアメリカのスーパーマーケットでレジを打ってそうな、大柄で丸々とした超ふくよかな看護師らしい女。年齢はさっぱり見当がつかない。
「こいつ、初診なんですけど大丈夫ですかね」
待合の椅子に膝を抱えて座るジローを指差しながら聞くと、デカくて丸い女はウンウンと二回うなずいた。
「じゃあ保険証出してね。あとこれ問診票書いて」
また問診票か、面倒臭え。とは言え、書かない訳にも行かない。篠生のクリニックよりは随分シンプルな内容だったが、とりあえず書き込んだ。それで五分くらいは経ったろうか。問診票を受け付けに渡し、ジローの隣に座って待つ。そのまま沈黙が延々と続く。壁の時計はもうすぐ十二時四十五分。だが患者が誰も来ない。そして十二時五十分、十分前だが名前を呼ばれた。こういう融通が利くのは個人経営ならではか。
診察室は待合よりも広々としていた。その片隅に灰色の事務机が置かれ、同じく灰色の安物の事務用椅子に、小柄な爺さんが座っていた。背は低いが顔がデカい。髪は薄く、鼻の下にチョビひげが生えている。ネクタイなしのワイシャツにベスト、その上から白衣を羽織り、首に聴診器をかけている。その傍らにあるのは、どうやら血圧測定器らしい。
「やあ、いらっしゃい。まずはそこにかけて。で、この機械に腕を突っ込んで。血圧測るから」
篠生幸夫のところでは測らなかったように思うが、まあいい。俺はジローにスタジャンを脱ぐように言った。しかしジローは反応しない。膝を抱えたまま知らん顔で虚空を見つめている。
「おいおまえ、聞こえてんだろ」
俺はスタジャンのジッパーに手を伸ばそうとしたが、ジローはギュッと膝を抱え込んでそれを拒む。
「あ、この野郎」
「まあまあ、そうムキになりなさんな」
おそらく芦則佐太郎であろう医者は、笑って俺を止めた。
「今回は血圧はやめておこう。まだ初診だしな。薬を出す訳じゃないから、血圧がわからんでも困りはせんよ」
そしてジローの目の奥をのぞき込むと、小さくつぶやいた。
「自閉症だな」
「それは確定ですか」
カルテに何やら書き込みながら、芦則佐太郎は俺の言葉に軽く首を振る。
「こんな小さな診療所で確定なんぞできると思わん方がいい。そもそも自閉症にもイロイロと種類がある。どれかはわからん。だが自閉症という大きなカテゴリーの中のどれかであるのは、十中八九間違いないだろうな。希望するなら専門病院に紹介状を書くが、その前にこのチェック表に記入してもらいたい」
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