第11話 長畑房江

 翌朝は抜けるような秋晴れの青空。朝八時半、訪れた芦則精神科は午前中休診だった。


 何だよ午前中休診って。普通は午後から休診じゃねえのか。まったくこれだから個人経営は。くそっ、馬鹿にしやがって。俺は駐車場のクラウンの中でタバコを一本吸い切ってから車を出した。とにかく次だ、次。




 無駄と思いつつ、外科は一応行ってみたものの、やはり収穫はなし。と言うか、また追い出されるために時間を浪費しただけだった。ただ、それほど時間を食わなかったことだけは有り難い。昼までに次の目的地には行けそうだ。




 ナビの誘導に従って次の目的地に到着したのは午前十一時過ぎ。途中で高速を使ったとは言え、所要時間は三十分ほど、思っていたより近い。そこは海崎志保の元家政婦、長畑房江の家の前だ。


 路肩にクラウンを駐め、インターホンを押してみた。肥田久子のときのように居留守を使われるかとも思ったのだが、今度の相手はあっさりと顔を出した。


 化粧っ気のない小柄な中年女。ゆるやかなパーマをかけた肩までの髪に何本もヘアピンを留め、真っ赤なTシャツには巨大な血走った眼球が描かれている。どこかのパンクバンドのグッズだろうか。


「何ですか」


 無表情で感情のこもらぬ声。俺は懸命に作った親しげな、詐欺師のような笑顔で話しかけた。


「長畑房江さんでしょうか」

「はあ」


「私、こういう者ですが」


 と、角がヨレヨレになった名刺を差し出す。


「はあ」


 長畑房江は受け取りはしたが、それしか言わない。


「えー、つまり興信所の者でして」

「はあ」


「一応、私、所長をしております」

「はあ」


「あ、後ろにおりますのは助手でして」

「はあ」


「ちょっと、おうかがいしたいことが」

「はあ」


 まさにれんに腕押しといった感じだ。作り笑顔が崩れないよう顔面に力を入れなくてはならなかった。これは非常に疲れる。もう前置きをダラダラ続ける訳には行かない。表情筋がブチ切れる前に本題に入ろう。


「……海崎志保さんについてお聞きしたいのですが」


 すると長畑房江はドアを全開にし、一歩下がった。


「どうぞ」


 小さな声が聞こえる。どうやらご招待をたまわったようだ。俺とジローは玄関から家の中に入った。


「お邪魔します」


 それならそれで、最初から入れてくれよ。そう心の中で舌打ちながら。




 キッチンと言うよりは台所と言った方がしっくり来るだろうか。古いステンレスの流し台の前に置かれた木のテーブルに、木の背もたれがついた椅子が四脚。椅子のうち一つだけが色あせ、ワックスがハゲている。そこに長畑房江が座り、ほとんど使われた形跡のない椅子に、俺とジローが座った。


 どうやら一人暮らしのようだ。結婚はしていないのか、子供はいないのか、何の仕事をしてるんだ、など疑問は湧いたものの、ナンパしてる訳じゃあるまいし、それをたずねる意味はない。聞く価値があるのは海崎志保の情報だけだ。


 相変わらずジローは膝を抱えて虚空を見つめているが、長畑房江はこれといって気にしていないように思える。緑茶を注いだ湯飲みを三つテーブルに置いて、無表情な長畑房江がこちらに顔を向けた。それを合図に俺はメモとボールペンを取り出す。


「では早速ですが、お願いします」

「随分とアナログなんですね」


 大きなお世話だ、と心の中で返しながら笑顔で言葉を続けた。


「アナタが海崎志保さん、いや当時は藤松志保さんですね。彼女の家政婦をしていたのは、いつ頃ですか」


「いつ頃でしたか。何年の何月何日だったとかは覚えていないのですが、奥様が結婚された少し後から、あの事故が起きたしばらく後、お屋敷から追い出された頃くらいまでですね」


 思わず口元が緩んだ。この女、ボーッとした顔してるくせに、こっちが何を聞きたいのか、ちゃんと理解してやがる。肥田久子といい、コイツといい、油断ならねえ。


「いまでも『奥様』と呼んでらっしゃるんですね」

「いまさら『海崎さん』と呼ぶのも気持ち悪いですからね。慣れの問題です」


 確かにそういうものかも知れない。まあそれはそれとして、本題に入るか。


「さっきおっしゃった事故があったとき、藤松志保さんはどんな様子でしたか」

「それは驚いてらっしゃいましたよ」


 そしてしばしの沈黙。俺はちょっと前のめりになって言葉を促した。


「いや、そこんところ、もう少し詳しくお願いします。事故の連絡があったとき、アナタは藤松志保さんの近くにいたんですか」


「はい。事故の連絡の電話を取り次いだのは私ですから。奥様は最初意味が理解できなかったようで何度も聞き返してらっしゃいましたが、突然絶叫されましてね、そこからしばらくは随分取り乱してらっしゃいました。もう取り付く島もない感じで」


「そのとき、藤松志保さんは何か言ってませんでしたか」

「私が呪われているから、とか何とか」


 呪いか。俺は「けっ」と言いたくなるのを必死で抑えた。ガキとオカルトは大嫌いだ。しかしまあ海崎志保が本当に事故に無関係なら、想定外のとんでもない事態に巻き込まれた訳だし、とんでもない理由をこじつけたくなるのも無理はないのかも知れない。


「何の呪いか、とかはわかりませんよね」

「そんなことを聞けるほど、悠長な状況ではなかったですね。いわゆる錯乱状態ですか、そう言ってもいいくらいでしたから」


「その後はどうでした」


「どうと言われましても。茫然自失というのでしょうかね、お通夜も本葬も社葬のときも、ずっとふさぎ込んで、心ここにあらずという感じでした。元々は朗らかな方だったのですが、まるで火が消えたようで。お食事も摂らずに体重が一気に落ちたりもされましたね。あまりの変わりように、奥様まで後を追われてしまうのではと心配したものです」


 それは余程ショックだったのだろう。もちろん、長畑房江の言葉がすべて真実であればという前提はつくし、その上で海崎志保が芝居を打っていた可能性もまだあるにはあるのだが。


「その辺りで、肥田久子さんがたずねて来ませんでしたか」

「ああ、『あの方』は何度か、たぶん三回くらいは見えられたはずです」


 長畑房江の口にする「あの方」という言葉に、好意は込められていなかった。


「事故のあった翌日、葬儀の日、あと社葬の前日にも奥様をたずねて来られましたね。私が存じ上げているのはその三回ですが、他の日に来られていたとしても、さして不思議ではないです」


 やはり肥田久子は海崎志保に対し、執拗にまとわりついていた感がある。本当に藤松秀和の遺志を継がせたいと考えてのことだったのだろうか。普通に考えれば金絡みだが、それとも他に理由があるのか。俺は質問を続けた。


「お二人は何の話をしていたか、わかりませんか」

「同席をしておりませんので、話の内容までは。ただあの方とお話になった後の奥様は、たいそうお疲れだったのを覚えております」


「肥田久子さんは、藤松志保さんが笑った、と言ってるんですが」


「さあ、それは見ておりませんので何とも。ただ三回目、社葬の前日に来られたとき、私がお茶を用意して持って参りましたら、あの方がえらい剣幕で何か怒鳴りながらお部屋から飛び出していらして。奥様も呆気に取られておいででした。あの方にはそれ以来お目にかかっておりませんね」


 情景がありありと見えるようだ。だが、おそらく肥田久子の言ってた写真というのは、社葬に使われた藤松秀和の写真のことだな。だとしたら、まったくどうでもいい話だ。無駄なことに神経を使っちまった。斎場の写真の前で遺族が笑う程度、珍しくもない。


 長畑房江は静かにお茶を飲んでいる。どうする。いま聞いておくことは他になかったか。このままろくな収穫なしで帰るのか。……いや、一つどうしても確認しておかなければならないことがある。俺はぬるくなった茶で口を少し湿らせた。


「藤松志保さんの知り合いの中に、篠生幸夫さんという方はいましたか」


 一瞬の間があった。ここで知らないと言われたら、また一からやり直しだ。しかし。


「篠生先生のことですか? ええ、奥様のお知り合いです。というか、奥様のかかりつけのお医者様ですよ」


 俺は下っ腹に力を入れた。思わず立ち上がりそうになる身体を懸命に抑え付けながら、表情に出ないよう顔を作る。だが心の中はガッツポーズだ。


「かかりつけということは、藤松志保さんは、その、いわゆる精神的なトラブルを抱えていたということでしょうか」

「トラブルと申しましょうか」


 長畑房江は遠い目で、少し呆れたような顔を見せた。もっとも、それは俺に対して呆れた訳ではないようだ。


「あの頃、奥様は藤松の家の中で孤立されてらっしゃいましてね。普通に暮らすだけのことが、えらく大変だったのです。気苦労も尋常ではありませんでした。それでときどき篠生先生のカウンセリングを受けていらっしゃいました。奥様が唯一心を開いて話せる方だったかも知れませんね」


「孤立、ですか」


 てっきり海崎志保は大金持ちのセレブ生活を満喫していたものだとばかり思っていたのだが、どうもそうではないらしい。まあこれも長畑房江の話の内容がすべて正しければ、ではあるが。


「ええ、そもそも私が奥様に雇われたのもそれが理由です。藤松の家には大勢の家政婦がいたのですが、奥様の身の回りの世話をしてくれる者は誰もいませんでしたから」


 そこで一口茶を飲むと、長畑房江は続けた。


「ただでさえ藤松の家は旧家で、決まり事の多い面倒臭い家だったのです。そこに外から『嫁』がやって来た訳ですから、まあ居場所などあろうはずがありません。じっとしていれば邪険にされ、自分で動こうとすれば貧乏人のような真似をするなと叱られます。日常のルーティンを行うだけでも決まりやしきたりに縛られて、不自由極まりない生活を余儀なくされていたわけですから、何週間かに一度受けられるカウンセリングについてなど、さんざん嫌味を言われていたようです。奥様についてイロイロ言う人もいますけど、私はよく耐えておられたと思いますけどね」


 一気に喋り終わると、長畑房江はまた一口茶を飲んだ。もしかして、これを言いたかったがために俺たちを招き入れたのだろうか。そんな気さえした。




 海崎志保は結婚した際、大帝邦製薬の役員補佐的な役職を与えられていた。しかし先端薬剤研究所の事故後、大帝邦グループはそれを剥奪した。会社内から創業家である藤松家の影響を取り除く好機と捉えたのだろうか。藤松家の土地屋敷も、いつの間にか会社名義になっており、事故後半年もしないうちに海崎志保は追い出されてしまった。もちろんそれでも彼女が相続した財産は、莫大な額であったのだが。


 ちなみにくだんのサイノウ薬品未公開株の取得は事故前、藤松志保がまだ役職を持っている頃にサイノウ薬品側から持ちかけられたものらしい。お得意様の跡取りの嫁に、ちょっとしたご機嫌伺いのつもりだったのかも知れない。他の株主にバレると面倒だからと手続きを端折って隠そうとしたサイノウ薬品側に問題があったと見るべきだろう。


 長畑房江は海崎志保が藤松の家から追い出されると同時に暇を出され、それ以後のことはわからないという。とりあえず今日の時点ではここまでが限界のようだった。俺とジローは長畑房江の家を出て、銀色のクラウンで来た道を再び戻った。昼飯を食ってから、再び芦則精神科に向かうのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る