第10話 篠生幸夫 (下)

「この状態について、これまでに診断を受けたことは?」


 事務机のデスクトップPCの画面とキッチンの照明だけが輝く薄暗い事務所で、ジローによる篠生幸夫の「復習」が始まっていた。だが、いかんせん接した時間が短い。つまりは情報量が少ない。ここから何かを見出すのは、さすがに至難の業と思われた。


 コピーした篠生幸夫の姿を出し続けるジローを横目で見ながら、俺は渡されたチェックリストにレ点を記入して行く。


・言葉をしゃべらない――しゃべらないな、確かに。

・言葉で指示しても反応しないことがある――あるな。毎日だ。

・触られるのを極端に嫌がる――これはどうだ。触ることがないからわからん。

・嫌いな音がある――ないんじゃねえのか。こいつが嫌がる顔見たことがないぞ。


 チェックを入れながら、俺はリストに隠されたメッセージがないか考えてみた。だが不特定多数の患者に渡されるリストだ、普通に考えて俺へのメッセージなんぞ込めようがない。縦に読んでも斜めに読んでも、浮かび上がる意味なんて何もなかった。こいつは推理小説の読み過ぎだな。


 吸い殻を灰皿でもみ消し、新しいタバコに火を点けると思いきり吸い込んだ。そして煙を天井に向けて吹き付ける。こりゃまたハズレかな。俺はグッタリした気分で、もう何回目なのかわからない、ジローの出す篠生幸夫の「復習」に目をやった。


「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」


 ん?


「ちょっと待て。止まれ」


 何だったのだろう、いまのは。


「いまの『それはそれは』からもう一度繰り返せ」


 ジローは数秒、虚空を見つめてから笑顔を作る。いかにも作り笑顔らしい笑顔を。


「それはそれは。つまり、あなたが彼をここに連れて来たのは、家や仕事場が近かった訳でも、私の良い評判を聞いたからでもないということなのですね」


 そう言った直後だ。


「よし、ストップ」


 ピタリと止まったジローの両手は、軽く組まれているように見えた。だがよく見ると組み合わされてはいない。俺は部屋の明かりを点けた。そしてもう一度間近でジローの両手をじっくり見つめた。


 右手の指が、左手の指に交互に触れていないのだ。右手の人差し指と親指が、左手の薬指を挟んでいる。くそっ、何でいままで気付かなかった。俺はジローの正面に座り直した。


「ジロー、いまおまえの左手の薬指に何がある」


 ジローの顔から作り笑顔が消え、その視線は俺を通り過ぎた。言葉は返ってこない。だが待つ。その甲斐があったのか、やがてジローの重い口が動いた。


「……指輪。金色」


 事務机に走り、PCで検索した。「指輪に触る 心理」と。いろんなサイトやブログがヒットする。だがどのページにも、ほぼ同じことが書かれてあった。


――不安・緊張からの解放、ストレスの発散


 ネットで調べられる程度のことに、どれほどの信憑性があるのかはわからない。まして心理学など学んだ経験はないので、この情報がどの程度正しいのかも不明だ。だがもしこれが正しいと仮定した場合、あの瞬間、篠生幸夫にいったいどんな不安や緊張があったのか。何にストレスを感じていたというのか。直前に俺は肥田久子について質問している。それが原因だろうか。それとも。


 今度はジローの正面に立った。


「よしジロー、さっきの続きを出せ」


 ジローの目の焦点が俺に結ばれる。そして残念そうにため息をついた。そうだこの後、俺は海崎志保について知っているかを篠生幸夫に質問したのだ。ジローは俺を数秒間、笑顔で見つめる。


「もういい。今日はやめだ」


 テーブルの上の灰皿でタバコをもみ消すと、キッチンに向かった。またいつものようにカレーライスの準備をしながら頭の中を回転させる。


 あのとき篠生幸夫が緊張したのは、肥田久子について質問したせいか。それとも、肥田久子の名前が出た以上、次に海崎志保の名前が挙がる可能性があると気付いたせいか。もしそうなら。もし篠生幸夫が海崎志保の何かを知っていると仮定すれば。


 ……その「何か」が何なのか、わからないと話にならんな。いったい何だ。研究所の事故のことか? だがネットで調べられる範囲では、篠生幸夫が開業したのは十数年前ってことになってる。つまり事故が起きたときは、すでにあの場所でメンタルクリニックを経営していたことになる。一介の町の精神科医が、大企業の研究所の中にいたとは考えづらい。いや、中にいたら死んでいるか。しかし外にいて、何をする。何ができる。


 甲高い電子音が思考をさえぎる。電子レンジから取り出したカレーライスの入った丼にスプーンを突っ込み、ジローの前に置いた。


「これ食って寝ろ。ここで寝るなよ、自分のベッドで寝ろよ」


 返事もせず怒濤の勢いでカレーをむさぼり食うジローを放置して、部屋の電気を消し、再びPCの前に座った。タバコを咥えて火を点ける。


 篠生幸夫と海崎志保に接点があったとは限らない。単に篠生幸夫は肥田久子が嫌いだったからストレスを感じた、という可能性もある。いまの段階で進む方向を限定するのは無理があるか。


 明日はメモにあったもう一つの精神科と外科に行ってみて、あと海崎志保のところで家政婦をしていたという女にも会いに行ってみるか。さて、どっちを先にしたもんかな。医者の方が時間がかかりそうだし、やっぱりこっちが先か。しかしこの精神科、いかに個人経営の開業医とはいえ、いまどき公式サイトもなしによくやって行けるな。行ってみたら休診ってことじゃなきゃいいんだが。

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