第 8 話 幕間劇 その一
これは昔々の、けれど神々の世界なら一瞬で過ぎ去る、それほど昔ではない時代の話。
昭和も四十年代に入り、外では大学紛争の嵐が吹き荒れている。だが名画座の闇の中には静謐があった。もちろん声はある。音楽もある。しかしそれらに満ちた空間は、静寂以上に静かだった。
ゲバ棒を振り回す馬鹿のおかげで大学が休講となったとき、
いま上映されているのは「ガス燈」。二十年ほど前のハリウッド映画で――戦時中だ。そりゃあ日本も負ける訳だと芦則佐太郎は思う――主演のイングリッド・バーグマンは、この作品でアカデミー賞を取っている。
彼女の美しい横顔には、どことなくチャコ、肥田久子の面影があるように思えた。それはもしかしたら、自分の秘めた思いがそう見せているだけなのかも知れない。芦則佐太郎は脳裏に浮かんだその考えを打ち消した。それはない。いや、なくはないのかも知れないが、少なくともチャコから見た自分は、そんな存在ではないはずだ。考えるだけ馬鹿らしいというものである。
芦則佐太郎は頭を振って映画に集中した。センチメンタリズムに浸りたくて、何度もこの作品を観ている訳ではない。ここには自分の知りたいことがある。ただそれは、どちらかといえば心理学の世界の話で、いま学んでいる精神医学とは少し違う分野だと言えるのだが。
正直なところ、芦則佐太郎は心理学者になりたかった。しかし親は、父の後を継ぎ精神科医となることを期待して大学に送り出してくれたのだ。そのために学費も払ってくれている。期待を裏切る訳には行かないし、そもそも心理学者で飯が食える自信もない。でもせめて学生の間くらい、心理学をかじってもいいのではないか。それが最終的に無駄で無意味な知識となるにせよ、いまの自分には必要な物であると思えてならなかった。
しかしそれにしても、スクリーンに大写しになるイングリッド・バーグマンは途方もなく美しい。それがたまらなく悲しい。芦則佐太郎はいつの間にか涙を流していた。
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