第21話 巣穴の中へ (下)
「警察の方は帰られましたよ」
俺はノロノロと立ち上がり、クローゼットから歩き出た。
「最初からちょっと変だとは思ってたんだ」
そして腰を伸ばす。まったく、ジジイになった気分だ。
「若い女の一人暮らしで、こんな時間に男を部屋に入れるなんて、いくら何でも不用心にも程があるだろうってな。アンタ、今夜県警が来ることを知ってたんだろ」
「こんな素晴らしいタイミングで来ていただけるとは思っていませんでしたけど」
海崎志保は否定しない。おそらく詳しいことを聞いても答えないだろう。金持ちは「ご友人」が多くて羨ましい限りだ。
テーブルの上には名刺が一枚だけ置いてあった。名前など見なくてもわかる。築根麻耶と書かれてあるに違いない。俺の名刺はない。海崎志保のポケットの中か。
「それで、どうしますか」
海崎志保は静かに、しかし言葉の全体に余裕を漂わせてたずねる。
「先程の話の続きをしましょうか」
この女、よくもまあヌケヌケと。さすがの俺も少し呆れてしまった。
「あのな、俺がアンタの首を絞めて『金を出せ』ってなことをするかも知れない、とは思わんのか」
「そんなことをする人は、わざわざ私の父親のことを探ったりはしません」
まあそれは確かに。人には向き不向きがある。しかしやりにくい相手だ。頭が回って度胸もある。俺はため息をつくしかなかった。
「話の続きはやめとこう。警察が把握しちまってるんじゃ、いまさら強請りのネタにはならない。マスコミにバラすぞって脅すこともできるが、この期に及んで連中が出てきたところで、アンタには効きそうにないしな。て言うか、俺に取り調べの様子を聞かせたのは、それが目的だろ」
「そう理解していただけると助かります」
その目。口ほどに物を言う目が勝ち誇っている。
「だから」
俺は海崎志保を正面から見つめた。
「もう一つのネタが固まるまで、アンタは自由だ」
海崎志保は視線を動かさない。毛の先程の動揺も見せない。おとなしい顔をして、恐ろしく気の強い女だ。しかしその勝ち気な沈黙が「もう一つの疑惑」の存在を肯定している。
「ジロー、立て。歩け。帰るぞ」
俺は海崎志保に背を向け、玄関に向かって歩いた。ジローが後に続く。すると海崎志保は俺たちを追い抜いて行く。玄関の靴箱を開け、中から俺たちの靴を取り出して
「どうも」
そう言って俺は革靴を履き、ジローがスニーカーを履くのを確認して、玄関のドアを開けた。
エレベーターを二階で下り、階段から一階をのぞくと、刑事たちの姿はなかった。堂々とエントランスを抜け、俺たちはコンビニに向かう。そういやジローに晩飯を食わせていない。カレーライスは売っているだろうか。クラウンがカレー臭くなるが、どうせタバコのニオイで上書きされる。ファミレスに寄るのも面倒だしな。
そんなことを考えつつ、俺はジローをクラウンに乗せ、一人でコンビニのドアを開けた。まっすぐ弁当コーナーに向かうと、カレーライスは……お、あった。次は自分の晩飯か。惣菜パンのコーナーに向かう。晩飯に凝るタイプではないのだ。カレーパンとベーコンパンがある。こんなもんでいいか。あとは缶コーヒーがあれば十分腹は満ちる。
そうして缶飲料の冷蔵庫に向かった俺を、呼び止める声があった。
「五味」
嫌悪感をからめた女の声。横を向くと、金髪を団子頭にしてブラウンのストライプのスーツを着た女が、五個入りの薄皮あんパンを手に持って、エナジードリンクを取ろうとしていた。歳は三十手前、かなりの美人だ。間違いなく美人ではある。だがその美しさは、まるでアクリル樹脂の如きだった。透明感はあるが、氷やガラス細工の脆さは微塵もない。海崎志保の、どこか儚げな顔とは対極にあると言える。
「フォッ……いや、築根さん」
「いま何か言いそうになったよな」
「いえいえ何も。ところで一人ですか」
「一人で悪いか。おまえだって一人だろう」
そう言いながら俺が手に持っている商品を見て、眉を寄せた。
「そんなに食うのか。糖尿になるぞ」
エナジードリンクであんパン飲み込もうとしてるヤツが、人のことを言えるか。
「いや、まあその」
「それより、こんなところで何をしている。おまえの事務所はこの近辺じゃないはずだ」
「いきなり職務質問ですか。でも言えませんよ、守秘義務があるもんで」
俺は缶コーヒーを取った。築根麻耶もエナジードリンクを取る。ロング缶だ。
「依頼を受けて仕事をしてるんならいい。だがまた誰かを強請ってるんじゃないだろうな」
冷蔵庫をバタンと音を立てて閉める。がさつだねえ。もうちょっと静かにできないのかよ。
「人聞きの悪いこと言わんでくださいな。築根さんこそどうなんです。まだ一課にいるんですか」
「私が一課にいちゃ悪いのか」
「いや、そうは言いませんけど、キャリアなんですから、そろそろどっかに栄転とか話があるでしょ」
「大きなお世話だ」
築根麻耶は憤然と背を向けると、大股でレジに向かった。そして会計をカードで済ませた後、一度俺を振り返り、にらみつけてから出て行った。
クラウンの中でカレーライスをむさぼり食うジローを横目に、カレーパンはやめておくべきだったかと思う。カレーのニオイでむせ返りそうだ。俺はまだコンビニの駐車場にいた。車を出せずにいたのである。
何かが引っかかっていた。だが、それが何なのかよくわからない。海崎志保の言葉か。もしくは行動か。どこに不自然さがあったのだろう。気のせいだろうか。いや、そんなはずはない。何かが頭の隅に引っかかっているのは確かだ。もちろん、第六感など信じない。
「俺はガキとオカルトが大嫌いだからな」
そうつぶやいてみたものの、そんなことで解答は見えてこない。ああもう、いったいこの脳みそは何に引っかかってやがるのだ。イライラが頂点に達し、頭をかきむしりたくなる。
ふと助手席を見れば、ジローはカレーライスを食べ終わっていた。仕方ない。俺は考えを中断させると、ゴミをまとめてビニール袋に入れ、クラウンの外に出た。そしてビニール袋をコンビニのゴミ箱に突っ込んだ。
――ゴミ箱に突っ込んだ
その瞬間、何かが白い電流となって頭を駆け巡る。
突っ込んだ。何を。ゴミを。いや、違う。
何を……靴だ。俺たちの靴を突っ込んだ。
どこに。靴箱に。
誰が。海崎志保が。
何のために。築根たちに見つかるから。そしてそれを出して三和土に並べた。
何のために。俺たちが帰るから。いや、違う。
海崎志保は育ちがいいから。違う。
そう、違うんだ。もしあのとき海崎志保が俺たちの靴を並べなかったら、いったい何が起こった。
おそらく俺は靴を探した。どこを。
靴箱を。
クラウンに走った。慌てて運転席に乗り込むと、叩きつけるようにドアを閉め、ジローの肩を揺すった。
「おいジロー、思い出せ。さっき海崎志保と俺が話していたとき、あそこに、あの1208号室には、何人いた」
ジローはいつも通りの遠い目で何かを見るような仕草をした後、左手を小さく挙げて、指を四本立てた。
「……四人」
そうだ、そうなのだ。おそらく、あそこにはもう一人誰かがいた。靴箱にはその四人目の靴があったに違いない。海崎志保は、それを俺に気付かれたくなかった。
「その四人目は誰だ。知ってるヤツか」
「わからない」
「顔は見なかったのか」
「見なかった」
「どこにいた」
「ドアの隙間」
「隙間からこっちを見てたのか」
「見てた」
「そうか、それならいい」
何故教えなかった、などとジローに言っても仕方がない。聞かれなかったから教えなかったに過ぎないからだ。いまさらマンションに取って返しても意味はあるまい。その四人目はもういないかも知れないし、そもそも海崎志保が部屋に入れてくれるとは思えない。
胸ポケットからタバコを一本取り出し、わななく口に咥えた。そしてキーを回してエンジンをかけ、シガーライターでタバコに火を点けた。シートベルトを締めながら、煙を思い切り吸い込む。
「やってくれるじゃねえか」
煙を吐き出しながら、大声でわめいた。クラウンのアクセルを踏み込み、猛然と道路に飛び出す。ふざけやがってふざけやがってふざけやがって。いまに見てろよ、絶対に追い詰めてやるからな。追い詰めて追い詰めて、有り金全部吐き出させてやる。俺の心は怒りと闘志に燃えていた。
その翌日の朝までは。
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