第 4 話 海崎志保 (下)
チャレンジ三日目。火曜日。
今日のキャプテンからの指示は、リストカットだ。正直怖い。もし切りすぎて出血多量で死んだらどうしよう。
でもリスカくらいやってる人はたくさんいる。身近にはいないけど、ネットではよく見かける。逆にリスカで死んだって話は滅多に聞かない。だったら、たぶん大丈夫なんじゃないかな。それにこのカミソリはあんまり切れないから、傷は深くならないと思う。やっぱり切ったら痛いんだろうか。でも。……いや。
悪魔を見るんだ。決めたんだ。そんなの何の意味があるって言うヤツもいるんだろうけど、クラスで誰も見たことのないものを最初に見るんだ。それはきっと凄いこと。
「本当に凄いことってのはな、誰にも理解されないことなんだよ」
キャプテンもそう言ってた。
六月に死んだ人は、死ぬ前に「悪魔を見た」って書いてた。だから悪魔は見られるんだ。間違いなく。上手く行けば死ななくても見られるのかも知れない。頑張れば、運が良ければだけど、でも何もしなきゃ何も起きない。
勇気を持て、勇気を持て。スパッと切れば大丈夫だ。きっと大丈夫。怖くない。
カミソリの刃を左手首に当てて、スパッと一気に引く。冷たいような熱いような痒いような痛み。血がにじみ出る。でもすぐ止まった。思っていたよりあっけない。これでいいんだろうか。まあいいや、写真を撮ってキャプテンにメールで送ろう。また褒められるといいな。
リスカの傷跡はリストバンドで隠そう。長袖にリストバンドとか、おかしいって言われるだろうか。でもどうせ、みんな他人のことなんか見ていないに違いない。大丈夫だ。きっと、たぶん。
◆ ◆ ◆
クラウンはいい車だ。俺は心底そう思っていた。たとえば冠婚葬祭どこにでも乗って行ける。都会でも田舎でも、この車で乗り付けて嫌な顔をされる場所やシチュエーションは、少なくとも日本には存在しないんじゃないか。ちょっと想像ができない。
俺が乗ってるのは十年型落ちの、本体価格二十万円で買った、走行距離三十万キロで事故歴ありの中古車だが、それなりの高給ホテルに乗りつけても白い目では見られないし、どこに停まっていても目立たない。尾行や監視にはもってこいだ。俺のような商売の人間には、ある意味日本で一番便利な車と言えるかも知れない。
そのクラウンの銀色の屋根を叩く、いくつもの小さな音がした。そしてフロントウインドウを無数の水の点が覆って行く。
十月も中盤に差し掛かり気温も下がったこの時期、雨など降っても有難味はない。ハンドルを握る左手の指をワイパーのスイッチに伸ばそうとして、やめた。胸ポケットのスマホが振動している。俺はクラウンを路肩に停めて電話に出た。
「俺だ」
「五味さーん! 笹桑っすー!」
甲高い声に耳がキンキンする。
「もうちょっと絞って喋れ」
「いやあ、だってだって、五味さんから電話くれるなんて思ってもみなかったっすから、着信見たとき心臓止まるかと思ったっすよ」
一回くらい止まってみたらどうだ、と思わないでもなかったが、今は口に出すのをやめておいた。
「すまんな、忙しかったか」
「忙しいっすよそりゃ、パシリっすから。でもでも、五味さんの電話は特別っす。で、何すか。用っすか。もしかして愛の告白? いっそプロポーズとかっすか」
「……話していいか」
「はい、いつでも!」
全然いつでもじゃねえだろ、と思いながらとにかく俺は用件を口にした。
「海崎志保の大学での専攻学部が知りたい。情報はあるか」
「それなら文学部っす。日本文学専攻で、枕草子で卒論書いてるっす」
「詳しいな。マジか」
「マジっすよ。とことん調べましたもん。エッヘン」
笹桑ゆかりの元気度が上がるのとは反比例して、俺のやる気は一段階落ちた。やはり研究所の事故と海崎志保を結びつけるものはない。
「だとすると、海崎志保に化学の知識はないって訳だな」
「そんなことないっすよ」
しかし笹桑ゆかりは当たり前のように言う。
「海崎志保は化学大好きっ子でしたから」
「どういうことだ」
「海崎志保は高校時代、化学の成績5以外取ったことないみたいなんす。超優秀な理系女子だったんすけど、何故か大学は文学部に行っちゃって。でも文学部だったのに化学実験同好会ってサークルに入ってて、死んだ旦那さんとはそこで知り合ってるんす」
「そりゃ妙な話だな」
「もしかしたらお父さんの影響じゃないかってにらんでるんすけど」
「父親?」
慌ててメモ帳を取り出して開く。
「離婚した、えーっとアレだ、谷野孝太郎か」
「そう、その孝太郎さん。孝太郎さんは高校で化学の先生してたらしいっすから」
興味深い情報ではある。だが弱い。海崎志保と研究所の事故を結びつける糸としては、かなり弱いと言える。大学のサークルレベルでは、どう頑張っても研究者の域には達しないだろう。ただ、その弱い糸はまだ切れてはいない。
「もしもーし、五味さーん! 聞こえてますかー!」
笹桑ゆかりの声にまた耳がキンキンする。
「うるせえな、聞こえてるよ。他に何か海崎志保の情報はないか」
「あ、スリーサイズとかありますけど、欲しくないっすか」
「またかける。じゃあな」
「えーっ、ちょっと謝礼……」
電話を切って胸のポケットに戻す。進展したと言えるほどには何も進んでいない。まあ電話だけで物事を進めようなんてのは、さすがに虫が良すぎるか。結局自分の足を使うしかないってことなんだろう。俺はひとつため息をついた。そして何気なしに助手席を見る。
水晶のような二つの目が、正面の虚空を見つめていた。その焦点はフロントウインドウよりも向こうで結ばれているのかも知れない。歳は確か十六か十七かのどちらか。小柄なので中学生にも見えなくはない。中性的な顔立ち。白磁のようななめらかな白い肌に、濡れたように真っ黒な髪。スタジャンにジーンズをはき、いつも通り膝を抱えている。その無表情さと相まって、まるで人形のように見える。まあ、それはある意味間違ってはいない。俺にとって、こいつは人間ではないのだから。
「……雨」
ジローの口が突然開いた。
「雨?」
外に目をやると、いつの間にか雨は止んでいた。通り雨だったのだろう。
「雨は止んじまってる。まあ、その方が面倒がなくていいがな」
ジローはまた、いつものように口を固く閉ざしてしまった。クラウンはまた走り出す。
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