9 弱肉強食

 鰐のファントムの尾の尖端をギリギリで回避し、じんは苦々しい表情を浮かべる。先程くらった一撃が尾を引き、パフォーマンスに影響が出始めていた。回避行動を取る度に傷が痛み、隙が生まれやすくなっている。


「随分と辛そうだね」


 正面の通路からスマートフォンの明かりと共に、契一郎けいいちろうが姿を現した。軽口を叩きながらも、命のやり取りをしている戦場に赴いたその表情は、覚悟を決めた戦士のそれだ。


「悪いがこの様じゃ、お前の身までは守れないぞ」

「自分の身くらいは自分で守るさ。それよりもプレゼントだ」


 契一郎は右手に持つ果物ナイフを尋に見えるように掲げた。鰐渕わにぶちから拝借したものだ。


「物騒なもん持ってんな」

「冗談を言う余裕があるなら、まだ大丈夫そうだね」


 信頼を込めて軽口を叩くと、契一郎は尋の下へと駆け出し、尋は契一郎目掛けて駆け出す。一度に二人の対象が行動したため、鰐のファントムは混乱し行動が遅れた。思考というよりは本能だったのだだろう。鰐のファントムは常人である契一郎を狙い、尾をフルスイングさせた。常人がくらえば命に関わる一撃だ。

 だが、のぼり契一郎という男は超人に近い常人だ。まるで大縄跳びでも飛ぶかのように軽々とその尾の上を飛び越え、尋の目の前へと着地した。


「確かに受け取ったぜ」


 契一郎と尋が交錯し、起死回生のバトンが渡される。


「これで終わりだ」


 対象を正面に捉えた尋は、契一郎の軽快な回避で隙の生じた鰐のファントムの顎を蹴り上げ、強制的に腹部を晒させた。即座に鰐のファントムの腹部までまで接近。果物ナイフを逆手に構える。


今剣イマノツルギ


 尋は果物ナイフで鰐のファントムの腹を一閃。

 抜群の切れ味となった果物ナイフはファントムの腹を軽々と切り裂き、真一文字に結ばれた傷から、ファントムの特徴である絵の具のような青い血液が勢いよく噴き出す。果物ナイフでは有り得ないレベルの切れ味が、この瞬間だけ発現していた。


 ファントムに対して物理的なダメージを与えることの出来る尋の特性は、あくまでも副産物でしかない。尋の持つ真の対ファントム戦能力。それは、手にしたあらゆる刃物をファントムを両断する名刀へと変えてしまう異能――今剣イマノツルギだ。

 今回使用した果物ナイフを始め、カッターナイフや鋭利なガラス片。もちろん本物の刀でも、あらゆる刃物がその対象であり、尋の意志に呼応し、ファントムを切り裂く退魔の剣と化す。

 四年前に手にしたこの力は、尋の切り札であると同時に、尋をレイブンたらしめている呪いでもある。


「終わりだ。野郎!」


 鮮血をまき散らすファントムに別れを告げると、尋はその眉間に果物ナイフを突き立て止めの一撃とした。


 鰐のファントムの体は、数十秒間痙攣し次第に動かなくなった。鰐のファントムの周辺に黒い影が現れる。ファントムの存在がこの世から消え去る「闇に還る」と称される現象が始まったようだ。


「いつ見ても、気味が悪いものだね」


 尋がマッドガッサーを倒した瞬間には居合わせていなかったため、契一郎がファントムが闇に還る瞬間を目にするのは久しぶりのことだった。どこからともなく現れる黒い影が異形の怪物を食い尽くす。その光景は何度見ても慣れるものではなく、寒気を感じずにはいられない。

 鰐のファントムの体は既に半分以上が影に食い荒らされており、残るは胴体の一部と頭、尾を残すのみとなっている。


 状況は間もなく終焉を迎える。二人はそう安心しきっていた。


「まだだ! お前の力はそんなものじゃないだろ!」

「鰐渕!」


 突如として通路から現れた鰐渕が、自らのペットであり心の闇の象徴でもある鰐に向かってそう叫び散らした。

 こんな結末を受け入れるわけにはいかない。幟契一郎と奇妙なマスクで顔を隠したもう一人の男にせめて一矢報いねば、鰐渕の気は治まらない。


「無駄だ。そいつにはもう、そんな力は残っていない」


 音声を変えることはせずに、尋は地声で冷静にそう告げた。しかし、興奮状態にある鰐渕にその言葉は届かず、言葉の主がターゲットの一人であった深海ふかみじんであるということにも気が付いていない。


「僕の可愛いペット! 食らい付け、千切れ、噛み砕け!」


 狂気に駆られた鰐渕の叫びが、事態を急転させた。


「嘘だろ!」


 まだ影に食われずに形状を保っていた鰐のファントムの頭部が動き出した。消滅しかけのファントムが再行動を始めるなど初めてのケースだ。

 動揺が尋の行動を遅らせ、消滅しかけた鰐のファントムが、残された頭部だけで噛みかかるのを止めることが出来なかった。


「あああああ! 痛いい!」


 鰐のファントムが噛みついたのは、鰐渕の右腕だった。

 鰐渕の二の腕に太い牙を食い込ませた次の瞬間には、鰐のファントムの頭部全体が闇に飲まれて完全消滅。眉間に突き刺さっていた果物ナイフは、治まる肉が消滅したことで水面へと自由落下した。後には、血まみれの大きな噛み跡に悶絶し、のたうち回る鰐渕の姿だけが残されている。


「何で、何で僕に!」


 痛みと混乱で半狂乱に陥り、鰐渕は涙交じりに叫び散らした。

 それに対する明確な答えを持つ者はこの場にはいないが、契一郎が一つの可能性を指摘した。


「最期の瞬間、鰐のファントムは動物としての本能に支配されたのかもしれない。弱肉強食。弱い者は淘汰とうたされる」

「僕が……弱い……」


 傷の痛みと言葉による精神的な追い打ちを受けて、鰐渕は意識を失った。

 傷口からの出血が酷く、地下水道という衛生的とは言えない場所だ。鰐渕の自業自得とはいえ、早く病院に連れて行かなくてはいけない。尋が鰐渕に肩を貸し、渋々ながらも契一郎も反対側から支えた。


「何とかファントムを退治出来たな」

「犠牲になったペット達のことは悔やまれるけど、人に被害が及ぶ前に解決出来たのがせめてもの救いかな」

「結局、あのファントムに危害を加えられた人間は、鰐渕だけってことか」

「飼い犬ならぬ、飼い鰐に手を噛まれたってところかな。鰐のファントムが噛みついた最初で最後の人間が、宿主である鰐渕とはね」


 笑い話にするつもりはないが、何とも皮肉な結末だったと言える。


「しばらくは、こういった暗くて狭い場所には近づきたくないもんだな」

「心配しなくとも、こんな事件はそうそう起こらないさ」

「そう願っているよ」


 出入り口へと向かって歩いていた尋と契一郎の前に、外界からの光が差した。

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